5
今でもよく、覚えている。
「ジャン、貴方は今日からお兄ちゃんになるのよ? 」
「お兄ちゃん……? 」
「そうだ。お前には、妹ができたんだ。大切にするんだぞ? 」
ベッドの中でスヤスヤ眠る、小さな、本当に小さな女の子。
夜はずっと泣いていて、ご飯の代わりに母の母乳を飲み、それ以外はずっと寝ている妹を、ずっと隣で見てきた。
「マリー、あれは蝶々っていうんだ。綺麗だろう? 」
「ちょうちょ? 」
言葉を覚え始めたマリーに、ジャンはいろいろなものを教えてあげた。
母のことや父のこと。
花の名前や虫の名前。
それらを覚えていく度に、マリーはとても嬉しそうだった。
そして、その顔を見たジャンもまた、嬉しかった。
「ジャンは良いお兄ちゃんね。お母さん、とっても嬉しいわ」
「ジャンは俺の、自慢の息子だな」
「お兄ちゃん好きー! 」
あの頃は、家に笑顔が絶えなかった。
ご飯を食べる時は必ず皆で囲んでいた。
あの頃は……。
テーブルの上には、無造作に置かれた汚い食器が置かれている。
椅子にはしわくちゃになったシャツが掛けられており、家中は埃まみれ。
そして、今日も奴らがやってくる。
「おい! いつになったら借金を返しにくるんだ! 」
「家のところにも! もうどれだけの日が経っていると思ってるんだ! 」
母が病気になった時治療費を借りた、取り立て人だ。
「もう少し、もう少しだけ待って貰えないでしょうか? 主人も今懸命に働いているところですので」
「ああ? 俺は女には聞いてねぇ! この家の主人を出せつってんだ! 」
母が取り立て人と話している間、ジャンは自分の部屋に引きこもっていた。
隣の部屋からは、父のいびきが聞こえてくる。
「懸命に働いてるだぁ? じゃあ仕事先を教えろ! そこまで行ってやる」
「そ、それは……」
「なんだ言えないのか? ああ!? 」
下から聞こえてくる怒鳴り声に、ジャンは耳を塞いだ。
もう、何も聞きたくなかった。
「お兄ちゃん」
シャットアウトしていた脳内に、声が入り込んでくる。
少し前なら、とても心地よかった声。
今では、ただの雑音となってしまった声。
「……んだよ」
「お母さん、大丈夫かな……? あの人達、誰なの? ねぇ、ねぇお兄ちゃ……」
「……っせぇな! 少し黙ってろ! 」
一喝すると、マリーは「ひっ」と小さな悲鳴をあげた。
それにもイライラしてしまってマリーを睨むと、「ご、ごめんなさい……」と言って部屋から出ていった。
「あなた、少しは働いてください。でないと、そろそろ私は……」
「ならおまえが働け。もともとおまえの治療費を借りた金だったんだ。おまえが返すべきじゃないのか? 俺は知らん」
「……そう、ですね」
母が、働きに出た。
父は相変わらず部屋で酒を飲んでいる。
そんな父に、ついにジャンは切れた。
「おい、もうちょっとまともになれよ。前はこんなんじゃなかっただろ」
コップから口を離して大きなゲップをした後、父はジャンを見据えた。
「前は前。今は今だ。俺はなぁ、疲れたんだよ。毎日毎日返しても返しても、借金は減らないどころか増えるばかり」
「それは他の家からまた金を借りたからだろ。ちゃんと働いて、自分で稼いだ金をあいつらに返さないと……」
「うるさいっ! 子供に何が分かる! 金を稼ぐことがどれだけ大変か、おまえには分からないだろっ! そんな口をきくな! 」
子供といっても、ジャンはもう14歳。来年で成人する身だ。
「いいから、おまえは何も言うな」
酔っているのか、父はそう言った後眠ってしまった。
これは駄目だ。
母が稼いでくる金も極わずかなものだし、マリーはまだ幼いから、何もできない。
この危機を救える者は、ジャンしかいない。
『金を稼ぐことがどれだけ大変か、おまえには分からないだろっ! 』
稼いでやろうじゃないか。
父がやらないなら、ジャンがやるしかないのだから。
だからジャンは、騎士になる道を選んだ。
騎士になれば安定した収入を得ることができるし、この家からも離れることができる。
一生懸命勉強して、養成所に入ることさえできればいい。
だが、母はジャンを引き止めた。
「もう成人したとはいっても、まだここにいても良いのよ? 」
「いても良い? 俺は出ていきたいんだよ、こんな家」
「そんな、どうして……」
「分からないのかよ? 」
「……」
母と暫し口論をした後、ジャンは半ば強引に家を出た。
養成所に入ってからの毎日は、楽しいことの連続だった。
訓練はけっして楽ではなかったが、同じ騎士を目指す仲間といる時間は、家のことを忘れられた。
友人のセルフと、馬鹿みたいなことで笑い合う。
毎日が本当に楽しくて、充実していた。
『行かないでよお兄ちゃん! もう帰ってこないなんて、そんなのやだよ! 』
それでも時々、ふと思い出す声があった。
泣きながら叫ぶ、マリーの声。
その度にジャンは、早く家にお金を送らなければいけないと思い出し、早く騎士になろうと努力した。
昔から頑張っている姿は人に見せない質のジャンは、1人残って訓練している姿も、誰にも見せることはなかった。
そうして、ジャンは騎士になることができた。
これでやっと収入が得られる。
あのクソ親父よりも、役に立てる。
これでやっと……。
そう、思っていたのに。
現れた。
メイド服を着た、よく知っている少女が。
昔からずっと一緒にいてきた、妹が。
忘れかけていた家での記憶が、一気に蘇ってくる。
1度埋めた土を、もう一度掘り返すかのように。
せっかく、自由になれたと思ったのに。
「……んだよ」
雨雲の空の下、苛立ったようにジャンはそう言った。
「マリー・ルミス、前へ」
メイド長に呼ばれたマリーは、「はい! 」と元気よく返事をして前へと進み出た。
自分と同じ格好をした沢山のメイド達に見守られるなか、マリーは大して緊張もせずにずんずん歩く。
メイド長の前で立ち止まり、一礼をする。
「マリー、貴方はこの1ヶ月間、よく働いてくれましたね。よって、これを貴方に献上いたします」
「ありがとうございます! 」
大きな袋を受け取ると、ずっしりした重みが手に乗った。
初めての感触に、胸が高鳴る。
「これで今月の支給を終わりにします。何か言いたいことがある人は、私のところにまできてください。それでは、来月もよろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
メイドが一斉に頭を下げる。
メイドがそれぞれの場所に戻っていくなか、マリーはその場でこっそりと袋の中身を確認した。
「……わぁ」
銀や銅が目立つなか、金色に光るものがちらほら見える。
それが多いのか少ないのかは分からないが、働いた分のお金を貰えた、この事実がマリーにとって、とても嬉しかった。
「ヤナギ様」
コンコンと扉をノックする音が聞こえた。
時刻は夜の11時だ。こんな夜中に来訪してくる者はあまりいない。
「はい」
扉を開けるよう促すと、入ってきたのは寝巻き姿のマリーだった。
「マリー様、どうかなさいましたか? 」
すると、マリーはぺこりと頭を下げた。
「今日まで、本当にありがとうございました」
そういえば、今日でマリーはヤナギの世話係ではなくなる。
ずっと一緒にいたから、ヤナギはすっかり忘れてしまっていた。
「明日からは、大丈夫そうですか? 」
「はい。ヤナギ様の元で経験を積ませていただきましたので、きっと、たぶん、大丈夫だと思います」
本当に大丈夫だろうか。
でもまぁ、本人が大丈夫だと言っているのだから、大丈夫なのだろう。
「今日、お給料を貰ったんです」
「そうですか」
「いっぱい貰って……。家に送らないといけないんですけど……」
「けど? 」
マリーは何やらもじもじしていた。
恥ずかしそうに、嬉しそうにしている。
「初めてお金、貰ったから……。まずは自分のために使ってもいいかなぁって思って」
「自分のため、ですか? 」
「うん、じゃなくて……はい。お兄ちゃんに、プレゼントを送りたいんです」
「プレゼント? 」
「メイド長さんから、明日はお休みを貰ったんです。だから街までお買い物に行って、お兄ちゃんが騎士になったお祝いに、何か送れないかなって思って……。お兄ちゃんは私のこと嫌いでも、私は大好きだから……」
言って、マリーの顔が悲しそうに萎んでいく。
「……お兄ちゃん、私にもう会いたくなさそうだったから、迷惑でしょうか? 」
迷惑かどうかは、ヤナギには分からない。
ジャンがマリーのことを嫌いだったとしたら、喜ぶ可能性は低いだろう。
でも、ヤナギは本当にジャンがマリーを嫌っているかどうかは分からない。
だから、こう言うことしかできない。
「そういうことは、実際にプレゼントしてみないと分からないと思います」
プレゼントを渡した時のジャンの反応なんて、想像ができない。
どんな反応をするのか……喜ぶのか、それとも「いらない」と言って突き放すのか、どちらの結果になるかなんて、実行に移さない限り分からないのだから。
勝手に迷惑かもしれないと決めつけて渡さないでおくなんて、後で後悔してしまうことになるかもしれない。
もしかしたら、喜ばれることだって、あるかもしれないのだから。
その可能性を捨ててしまうことは、とても勿体ないことだとヤナギは思った。
「そう……そうですよね! 渡してみないと、分からないですよね! 」
マリーは、振り切れたような、スッキリした顔でそう言った。
「ありがとうございますヤナギ様! 私、勇気が出ました! 」
「お役に立てたのなら、幸いです」
お礼を言って、マリーは帰ろうと扉を開ける。
だが、一向に動こうとしない。
「マリー様? 」
声をかけると、マリーは青い顔でこちらを振り向いた。
「ヤナギ様……私の部屋まで、送っていってもらえませんか? 」
寮から出てみると、廊下は真っ暗闇だった。
確かにこれは、小さい子供にはキツいだろう。
「行きは、どうやって? 」
「ヤナギ様にお礼を言うことばかり考えていましたので……あまり気になりませんでした」
廊下に出ると、ひんやりした空気が肌に触れた。
まだ秋だというのに、もう冬の準備をしているらしい。
「こ、怖いですヤナギ様」
「大丈夫です。何もでません。怖いのでしたら、手を握りましょうか? 」
「お、お願いします……」
マリーの手を優しく握って、ヤナギは歩き出した。
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