第19話
居候生活開始から約一ヶ月。今日初めて、梓が寝坊した。
「……え。えっと、どうしたの」
珍しく寝ぐせがついたままリビングダイニングへやって来た梓は、その場に呆然と立ち尽くした。不服ではあるが理由は察しが付く。胡桃がキッチンに立っているからだ。
ダイニングテーブルには、たった今胡桃が焼いたばかりの目玉焼きとベーコンをのせたトーストが並んでいる。
「おはよ。食欲あるなら、できたてのうちに食べて」
「あぁ、おはよう。……あの、今日って、俺が知らないだけで、実はすごくおめでたい日だったりする……?」
「ねぇよ。ただの休日だよ」
「体の調子はどう? 今日も暑くなるって予報だったけど、新藤さんの部屋ちゃんと冷房きかせてる?」
「暑さでイカれてもねーよ! 普通だよ普通! フツーに起きてフツーに朝ごはん用意してんのっ!」
梓は珍獣でも見るかのような目で胡桃をまじまじと見つめる。なんだその目は。どういう気持ちだ。しかもいきなり顔を近づけてくるから心臓に悪い。あと、単純にリアクションがムカつく。
「食べないなら二つとも私が食うけど」
「すみません食べます。いただきます」
慌てて席に着く梓に温かい気持ちを抱きながら、胡桃はいつもの向かいの椅子に座った。
「梓は目玉焼きって何かける? わかんなかったから、とりあえずパンにのせてマヨネーズぶっかけるだけにしたんだけど」
「んー、醤油かな。新藤さんは?」
「マヨネーズ。タマゴ同士で合わないはずがないのよ」
雑談しながら胡桃も食べ進める。梓が作ってくれるような手の込んだ料理は作れないが、少しでも口に合っていたら嬉しい。
胡桃の思いが通じたのか、梓が「おいしいね」と微笑んだ。
「本当にもう大丈夫なの?」
「うん。寝て起きたらだいぶ楽になった」
図書室の自習組との約束がある胡桃は、朝食後すぐ制服に着替えて学校へ向かう。念のため、と胡桃が押しつけた冷えピタを貼った梓が、見送ろうと玄関までやってきた。
「今日は一日、おとなしくしててよ」
「ありがとう。でも、本当にもう大丈夫だから。新藤さんは勉強に集中して」
「うん。……あのさ」
胡桃は、心臓がのどから飛び出そうなほど緊張しながら、えいっ、と背伸びをした。指先が梓の髪に触れる。梓の整った顔が近くなって、腕が震えた。きょとん、と目を丸くした梓は、胡桃の緊張と罪悪感には少しも気付いていないようだけれど。
「寝ぐせ。ついてるよ」
いつもの調子で言ったつもりが、かすれたささやきにしかならない。一瞬の空白のあと、梓が「えっ、どこ?」と手櫛でとかそうとする。梓の指が胡桃の伸ばした手をかすめたせいか、手が火傷したみたいに熱くなった。
「うわ、本当だ。恥ずかしいな……」
「いつもはちゃんとしてるでしょ。やっぱり本調子じゃないんだよ。無理せず休んどきな」
素早く手を引っ込めた胡桃は、鞄を手に逃げるようにドアを開けた。いってらっしゃい、の声にいいかげんな返事を投げて出ていく。外に出た途端、梅雨の蒸し暑さが胡桃にまとわりついてきた。ただでさえ顔が熱いのに。早くものぼせそうだ。
(これくらいは、許される? 清香)
もちろん返事はない。
胡桃は必死にその場から立ち去った。早く学校へ行って勉強をしなければならなかったし、もう一つ、大事な用を考えたかった。
気付けば、もう、七月になっていた。
(今年も天の川は見えそうにないね)
熱にうなされた梓の頭も、この日付は特別に感じるだろうか。
七月七日。
清香が消えてしまったあの日から、もう一年がたつ。
*
清香が少年合唱団について話したことがある。海外のとある合唱団に所属していた少年は、高く澄んだ美しい歌声と、天使のようだと絶賛される美貌を持っていた。しかし、彼が成長して声変りをした途端、大人たちは少年への興味を失ってしまった。観客が涙を流すほど聞き惚れた高音は、重くたくましいテノールに。愛らしい美貌は、野性的で彫り深い男性らしい顔に変わった。
『そのとき、天使と言われた彼は死んだのよ』
ただの男性歌手になった彼を、今は誰ももてはやさない。清香は彼の変化を――若さを失うということを、恐れるような声で『死』と表現した。
けれど、胡桃はそれほど悪いことのようには思えなかった。帰宅後、歌手の名前を検索して出てきた写真が、まあまあ好みのイケメンだったこともあるのだが、
(めっちゃ笑ってんじゃん。この人)
検索して出てきた画像のほとんどが、楽しそうに笑う男性の姿だった。紹介文を読んでも、清香が語った天使と呼ばれた少年時代の話は、『こんな経歴もありますよ』と一、二行程度でサラッとまとめられていただけ。あとは全部、今の彼のエピソードで埋まっていた。少年時代ほど注目されてはいないものの、各方面でそれなりに活躍しているらしい。
天使だった少年は確かに消えてしまったのかもしれない。でも、今の彼は、清香が嘆くほど悲しそうではなかった。それどころか、心から幸せそうに歌っているように見えた。胡桃には変化というものが、何もかも悪いことだとは思えない。
(そもそも、変わらない世界なんかないんだよ。自分は止まったつもりでも、結局のところ、世界は止まってくれないみたいだし)
もっと小さい頃は、早く大人になりたいと思っていた。子供は駄目、大人は大丈夫、と許される物事の多さに嫌気がさした。子供だとできないことだらけで、大人にうるさく管理されて生きるのにイラついていた。なのに、いざ変化が目の前に現れると怖気づいてしまう。まだ子供のままでいたいと、自分の甘さが駄々をこねる。
清香もそうだったのだろうか。今が過去になってしまうことが怖かったのか。
けれど、日々は変化していく。時間は待ってはくれない。
だったらせめて、今を大事に生きなくては。天使だった少年がそうしたように。
(変化と死は違うよ、清香。変わるってことは、生きるってことでしょ)
ついこの間までの胡桃も、変化が怖かった。みんなが受け入れている、清香が自殺したという可能性を認めたくなくて、逃げていた。誰にも負けない強い清香を夢見たままでいたかったから。
(でも、夢見たままでもいいんだってさ。お前の大好きな『あーちゃん』が言ってくれたんだよ。私が清香に見出したちっぽけな夢でも、持ったまま進むことだってできるんだ。そういうふうに変われたよ、私は)
だから、これから胡桃がやろうとしていることは、前へ進むための最終試験みたいなもの。清香がいない世界で生きていく覚悟を示すときなのだ。
(海に行くよ、清香。お前に会いに行くよ。そこにいるかなんてわからないけど、清香が最期に見た景色を、私も見ておきたい)
*
自習が終わると夕方になっていた。
図書室に来る生徒が昨日の半分になっていて、だからなのか、午後からは田端と、部活指導を終えたその他の教師がマンツーマンで指導してくれることになったのだ。貴重な機会を無駄にしたくないと粘った結果、思った以上に時間が過ぎていた。
胡桃は生徒玄関の入口でスマホを取り出した。梓宛てに、『今日は遅くなる』とメッセージを送る。夜までには帰ることを付け加えて送信。既読はすぐについた。一分とたたないうちに、『わかりました。気をつけて』とシンプルな返事が返ってくる。
(行くんだ……ついに! 海!)
なんだかとんでもなく大きなことに挑もうとしている気分だった。高いハードルを、助走をつけて、いざっ、とドキドキしながら跳び越えるような緊張感。これができたら、自分の中で何かが変わるという確信。
学校を出てすぐ、最寄りのバス停へと向かう。外は細かい雨が降っていて、胡桃は水玉模様の傘をさすと同時に駆けだした。
あの日以来、海へ行くことが怖かった。胡桃にとってそれは、清香が自殺したかもしれない現実と向き合う行為に他ならなかったから。でも今は違う。清香との思い出を抱えて生きていくために、胡桃が選んだことだ。
隣町へ行くバスは、胡桃がバス停に着いてから五分とたたず到着した。利用者の少ないバスに、杖をついたおばあさんと一緒に乗り込む。後方窓際の座席に座ると、自分の心臓がうるさくなっているのを実感した。力を抜いて深呼吸する。大丈夫。ちょっと行って、すぐ帰るだけだ。車なら二十分くらいで着くだろう。今さら怖いことなんかない。
バスは雨が降り続く暗い大通りを抜けて、細くて狭い、住宅が並ぶ道を進む。こちらはどんよりした鼠色の雲が浮かんでいるものの、まだ本格的に降り始めてはいなかった。古くなったでこぼこの道路を、バスはゆったり進んでいく。穏やかな揺れが眠気を連れてきた。
(なんか、眠いな……。今朝早起きしたせいかも……)
窓にもたれるようにして、胡桃は目を閉じた。海沿いのバス停はもう少し先だ。五分だけ眠ろう。寝て起きたら、海へ行くのも平気になっているかもしれない。
まだ海は遠いのに、寄せては返す波の音が聞こえた気がした。
*
乾いた砂を、ローファーでざくざく踏んで進んでいく。靴越しでも熱い砂と、べっとりと肌にまとわりつく潮風に夏を感じた。波の音が胡桃を誘うように、繰り返し、繰り返し、寄せては返す。
綺麗なエメラルドグリーンの海。眩しい夏の光。
さっきまであんなにどんよりしていたのに――輝く海に見惚れたあと、波打ち際に立っている少女の姿が、胡桃にこれが夢であることを教えた。
「清香!」
凛と背筋を伸ばした美しいシルエットに全力で駆け寄った。背中に流れるピンクブラウンの巻き髪。折って短くした、有名デザイナーが手掛けた制服のスカート。そこから伸びるすらりと長く白い足。
強気でわがままで、でも真っ直ぐで……胡桃の世界で誰より輝いていた、憧れの女の子。
「清香っ! キ、きっ、清香……」
必死で名前ばかり叫んで走る。ようやく気付いたのか、振り返った猫っぽい目が、胡桃を見て鋭く光った。
「来ないで!」
「はェっ」
予想外の言葉に潰れた声が出る。砂が重いせいで、胡桃は片足を砂の中に突っ込み、もう片方の腿を微妙に上げた中途半端な姿勢で立ち止まった。
「胡桃はこっちに来ないで」
清香がもう一度言う。今度ははっきり胡桃を呼んだ。いかにも気が強そうな顔つきは、相変わらず、派手な美人、という表現がしっくりくるが、その表情はやけに暗かった。
「そこで止まって」
「なん……なん、で」
「考えなしに突っ込んじゃ駄目よ。危ない、から……」
寂しそうに笑う清香に、胡桃は足を力なく砂の上に下ろした。
波の音が心地よく響く。他の誰もいない二人だけの海。
会えて嬉しい。話したいことがたくさんあって、まとまりも何もなく、ひたすら吐き出し続けたい。なのに、何も言えなくなってしまう。
二人なら最強で最高だと感じていたあの頃の気持ちが、胸の中で膨らんでいく。それと同時に、目の前のこれは、胡桃が作り出した都合のいい幻だという虚しさもこみ上げた。
どうしていなくなってしまったの。
海に行ったのはなぜ?
もし電話が繋がっていたら何を話したの。
なぜ、胡桃は置いていかれたの……?
「雨が降るわ」
突然、清香がそう言った。
潮騒が途絶える。
「あーちゃんを助けて」
「あ、あーちゃん? 梓が、何」
「お願いよ」
清香の表情が厳しくなる。意味がわからなかった。でも、清香の真剣な眼差しに口を挟めなくなる。
「戻って。胡桃。あーちゃんを助けてあげて。あたしには、もう、触れられない……」
「たっ! 助けてって、何を? なんの話? わかんないよ。どうすればいいの? 私、これからどうやって生きていけばいいの!」
「笑っていて」
波が大きく揺れた。がくん、と体が傾く。見えない力が、胡桃を海から遠ざけて、どこかへ押し戻そうとしているみたいだった。清香が遠くなっていく。気付くと、清香の体は半分ほど、エメラルドグリーンの海に浸かっていた。海には水の泡が煌めいていて、清香は泡になって消える人魚みたいに儚げに笑った。
「言ったでしょ。あたし、胡桃の笑顔が大好きだったのよ。胡桃はあの頃、二人なら、なんだってできるって思ってたでしょ?」
光が強くなる。空と海の境目が曖昧になって、すべてが真っ白に染まっていく。清香の姿はどんどん遠くなって、やがて見えなくなる。
「あたしも思ってたよ。胡桃なら、なんだってできるわ……だから……」
清香の体は、綺麗な海と光の中に消えていく。胡桃の意識は、押されるままに別のどこかへ連れて行かれる。
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