第8話

「梓はなんで私を知ってるの」


 色々あった、その翌日。

 リビングのソファで体育座りする胡桃は、朝食に使った食器を洗う梓の背中を睨みつけた。ソファ本来の座り方とは逆に、胡桃はソファの背を盾にするようにキッチンを向いて座る。

 梓はいつものパーカー姿で、胡桃は高校指定のジャージと、お互い休日仕様のゆるい見た目ではあるが、胡桃の心はすでに戦闘態勢だ。こいつには聞かなければならないことがある。


 出会いが衝撃的すぎて気付かなかったが、冷静に思い返してみれば、梓は確かにあのとき斎場にいた青年だった。手足が長くてすらりとしているのに、どこか地味な印象。近くで見て話したわけじゃないし、髪も伸びていてわかりにくいが、長い前髪に隠れた二重瞼の目元は、あの日確かに胡桃を見つめていたものと同じだ。


「もしかして、私を助けたときも清香の知り合いだってわかってたの?」

「それは違います」


 梓は即答して水を止めた。洗った食器を乾燥機の中で綺麗に揃えて続ける。


「でも新藤さんのことは前から知ってた。斎場にひとりだけ制服の女の子がいたときも、あの子が清香の言っていた、『親友の胡桃』なのか、って。ストーカーから逃げたあと、新藤さんが名前を教えてくれたときに思いだした」


 清香は梓にまで胡桃の話をしていたのか。まあ、あれだけ会わせたいと言っていたし、清香は梓にやたら心を許していたみたいだから、当然か。

 つまり梓は、ストーカーから助けたのは偶然だが、助けた女の子が清香の友人の新藤胡桃だったことは最初から気付いていた……というわけだ。


「それじゃあ、私が嘘をついてたことも……」

「うん。気付いてた」


 食器乾燥機のスイッチを入れて、梓が振り向く。改めてよく見てみると、綺麗な顔だなと思う。梓は男で歳も離れているが、やはりどこか清香と似た雰囲気を感じる。二人は話し方も性格も全然違うのに。


「でもあのときは、気付いてないフリをして保護したほうがいいと思ったんだ。でないと、新藤さんはまたひとりで夜に出かけて、今度こそ事件になるかもしれないって、心配だったから」


 その心配は的外れではなかった。事実、ストーカーは胡桃のアパートを見張っていた。梓と別れて馬鹿正直に帰っていれば殺されていたかもしれない。

 梓はソファから少し遠いダイニングテーブルについた。テレビもついていない静かなリビングで、エアコンの音がやけに大きく聞こえる。


「俺も質問していいですか?」

「いいけど、何を」

「新藤さんの嘘の話。清香を探しているって言ったのは、どういう意味で?」

「……清香が、どうして死んだのか、知りたかったから」


 それを口にしたとき、梓の顔が少し曇った。


「梓は何か知ってるの」

「……さあ……。わからない。隣町の、浜辺に倒れてたとしか聞いてない」


 梓も同じ話を聞いていたのか。なら、清香が浜辺にいたというのだけは、事実だ。けど目的がなんだったのかは梓にもわからないみたいだった。


「でも――海に行く前、清香は俺に電話してきた」

「……はァっ?」


 ここにきて急に爆弾が投下される。外の人間ばかり調べていたが、まさかこんな身近にヒントがあったなんて。胡桃は思わずソファの背から身を乗り出していた。


「は? な、何? 清香はなんて?」

「や、待って。違う。清香から電話があったのは確かだけど、俺は電話に出ていない」

「なんっ……はァ? なんで」


 またもや声が裏返った胡桃を落ち着かせるように、梓はやや間を空けてゆっくり続ける。


「清香は――新藤さんはもう知っているだろうけど、まあ、よくないバイトをしていた。それがあの日の少し前、清香の両親にバレた。ついでに俺の親まで話が伝わったんだ。で、この話は外に漏らすな、あの子には金輪際関わるな、と」


 胡桃の体から力が抜けて、ソファに覆いかぶさるようにうなだれる。死因の噂がバラバラだったのは、清香の両親が隠したがったから……?


「うちの親――清香の親もそうなんだけど、お堅い一族でね。それなりの地位にいる人間ばかりだから。あの人たちからすれば、身内の恥を世間様に知られたくないし、さらにいえば、もう身内とも思いたくなかった。関われば俺もそこから弾かれる」


 知らなかった。清香が胡桃にそんな話をしたことはなかった。清香の家は大きくてお金持ちであることは察していたが、両親ともに忙しいとしか……。

 バイトがバレたことも、そのせいで家族の輪から弾かれたことも、清香は胡桃に話していない。清香のことだから、胡桃に余計な心配をかけたり、カッコ悪いところを見せたりしたくなかったのだろう。だとしてもショックなことに変わりはない。


「だから、梓は電話に出なかった?」

「それもあるけど、それだけじゃない。あの日はちょうど抱えてた仕事の期限が近づいてて。どちらかというと、仕事を優先したくて出なかった、のほうが正しい」

「なんだよそれ……」


 ソファに声を埋める胡桃に、梓の長いため息が聞こえる。


「ほんと、なんだよそれ、ですよ。清香はあの日、俺に何か伝えようとしてたんだ。ひょっとしたら、助けを求めていたのかも。それなのに、俺はつまらない言い訳を使って無視した。最低ですよ。人として」

「……」

「清香は誰も助けてくれない世界に、絶望してしまったのかもしれない。俺が、見捨ててしまったから」


 ……なんだろう。

 なんだかすごく、嫌な感じがする。

 おそるおそる顔を上げると、梓は無表情に胡桃を見ていた。声は穏やかなのに、目にはちっとも温もりがない。胡桃が毎日見ていた、清香も優しいと口にしていた、あの笑顔はどこにもなかった。斎場で見つめ合ったときの、色のない顔と同じだ。

 なんとなく、わかる。同じだからわかる。

 この人は胡桃がひどいことを言うのを待っているんだ。


「新藤さんも、そう思うでしょ」

「……そんなこと言ったら、同じだよ」

「何が?」


 私と梓が。

 思ったけど口には出さなかった。出してはいけない気がした。これ以上、梓とこの話はしたくない。しちゃ駄目だ。

 清香は失踪の直前、梓に電話していた。でも胡桃にだって、清香はサインを送っていたはずだ。最後に行ったファミレスがそうだった。


『あたしたちには賞味期限があるの』


 口癖のように唱えていた言葉のあと。清香は珍しく弱った様子でつぶやいていた。


『あたし、敵に囲まれてるの。もうずっと前から』


 倒れてしまいそうなほど弱った清香。夢に見るくらいずっと消えないでいる、胡桃が最後に見た、生きている清香の姿。

 斎場で、どうして何も言ってくれなかったのかと考えた。でも違った。清香はちゃんと伝えようとしてくれていた。胡桃がわからなかっただけで、助けを求めていた。


(私も清香の手をとってやれなかった。もっとちゃんと引き止めて、話を聞けばよかった)


 口には出さないけれど。梓の理屈でいうなら、責められるべきは胡桃も同じだ。どうして気付いてやれなかった? 真剣に話を聞こうと考えなかった?

清香は確かに苦しんでいた。ひとりで悩んでいた。何も知らなかったでは済まされない。二人は親友だったのだから。


「部屋、戻るわ」


 だるい体を起き上がらせ、胡桃は梓に背を向けた。



     *



 ぶっちゃけ、かなり気まずい。

 昼食を終えてすぐ荷物をまとめた胡桃は、パンパンに膨らんだ通学鞄を抱えてこっそり自宅へ戻っていた。昨日の今日で油断しているのか、梓は自室にこもったまま。かすかに話し声が聞こえたから仕事だろう。まだ胡桃が出ていったことに気付いていない。


(梓の正体が清香の従兄だっただけでもアレなのに。私のことがバレてんなら一緒にいるメリットはないだろ!)


 そもそも梓の世話になっていたのは、ストーカーという脅威があったからだ。しかし一週間が過ぎても、やつが胡桃の前に現れる気配はない。もう梓に匿ってもらう理由はないのだ。


(とはいえ、用心に越したことはないからなぁ……。やっぱ親が戻るまでは、別の場所に潜伏したほうがいい、のか?)


 犯人は現場に戻るともいうし、この家が絶対安全とは限らない。

 梓のマンションは安全だが夜の外出ができないなら意味がない。

 なら胡桃がとるべきは、どちらでもない場所に潜むこと。


(となると、ネカフェか?)


 とりあえずの方向を定め、胡桃は家の鍵を開けた。

 アパートの中は、胡桃が最後に過ごした状態とまるで変わっていなかった。ひとまず荒らされた様子がないことにひと安心。迷わず自室へ向かい、次にするのは必要な荷物をまとめることだ。持ってきた鞄の中身を出して、必要なものと、そうでないものに分けていく。教科書類は学校に置き勉しているから問題なし。大事なのは着替え。と、タオルも数枚。


 さすがに通学用の鞄に全部入るわけもないので、父の部屋から大きなバックパックを拝借する。衣類などかさばるものはそこに詰め、財布やスマホ、充電器は通学鞄へ。部屋に置きっぱなしだった化粧品も厳選してメイクポーチに。あと、一番大事な通帳と印鑑。パスポート。


「……こんなもんか」


 思ったより少ないな。

 わざわざ置き勉しなくても、鞄にはまだ数冊、教科書が入りそうな隙間があった。バックパックはもう一回り小さいサイズでもいいくらいだ。それでも一応、胡桃が背負うとそれなりに重たいけれど。


(清香なら、もっと大きな荷物になってたかもなぁ。服だけで鞄が破裂しそうなくらい、とか?)


 大人びていながら、こだわるところはとことんこだわるやつ――清香のわがままぶりを思いだす。

 二年生進級直後に行われた修学旅行。胡桃が母の出張用スーツケース一つで来たのに対し、清香は倍大きいスーツケースと、引きずるほど巨大なボストンバッグ、チャックが閉まらないウエストポーチという重装備で現れたのだ。驚く先生に止められ、なんと空港で荷物を大幅に減らす羽目になった。何十泊する気だと言いたくなる着替え、プロ並みのメイク道具一式、これじゃないと眠れないと言い張る高級枕……。


 髪型がキマらないのはイヤ! と駄々をこねる清香を尻目にデカいヘアアイロンを出して、家庭用のボトルシャンプー&コンディショナーは「ホテルので我慢しろ!」と叱り、食器セットなんかも置いていかせたっけ。本当に、冗談みたいに荷物の多いやつだった。


(お前は背負うものを選ぶべきだったよ。私と先生がいくら言っても、全部いる、捨てられないって、喚いてた……)


 今の私を見てみろよ、と思う。女子高生ひとりが背負える荷物なんて、せいぜいこんなもんだから。

 頭より高い荷物を背負い、左手に鞄、右手に鍵を持って、いざ出発。梓にはほんのちょっと申し訳ないけど、どうせずっと世話になるつもりもなかったのだから。お別れするのが早くなっただけだ。

 外を注意深く覗き、怪しい人物がいないことを確認して家を出る。まずはネットカフェを探しに大きな通りへ向かった。




 のんびり選別していたうえに、歩くのが思いのほか大変だったので、時刻は夕方五時を過ぎていた。梓はさすがに胡桃の不在に気付いただろうが、大通りに出れば人も多いし、暗くなればなるほど胡桃を見つけられなくなる。我ながら完璧な作戦だ。


(しかし、お腹すいたな……)


 夢中でアパートへ走り、荷造りしていたせいだろうか。胡桃の体は空腹と喉の渇きを訴えていた。荷物は重いし、どこかで休憩する必要がありそうだ。

 予定変更。ネットカフェへ行く前に、コンビニで何か買って食べることにする。通りに面したコンビニへ、何度もずり落ちるバックパックを背負い直しながら向かう。バックパックは重いし邪魔だから、買い物の間くらいコンビニの脇に置いておいても大丈夫だろう。出入り口のある真正面はさすがに迷惑だからと、向かって右側の壁を選ぶ。

 コンビニの壁にもたれるような形でバックパックを置いたとき、


「――モモ」

「え?」


 大きな影が胡桃に覆いかぶさった。

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