第2話

 翌朝。胡桃は昨夜もらった黒いスウェット姿で、片手に学生鞄、もう片方に洗濯済の制服が入ったデパートの紙袋を装備していた。両手が塞がった胡桃を隠すように、梓が前に立っている。


「これは引き返したほうがよさそうだ」


 梓の言葉に、胡桃はがっくりと肩を落とした。

 二人は今、胡桃のアパートの目の前まで来ていた。何事もなく朝を迎え、梓が用意したふわふわのフレンチトーストを三枚食べて、胡桃は体力も精神力も全回復状態で帰宅するところだったのだ。しかし、ここにきて精神が一気に削られてしまった。


 アパートの目の前で、昨晩のサラリーマンが待ち伏せている。見つけた瞬間、胡桃は悲鳴をあげそうだった。梓がいなければ絶対に叫んでいた。

 男は昨日と同じスーツを着て、静かにタバコを吸っていた。電柱にもたれかかるように立っており、表情はどこを見て何を考えているのかよくわからない。


(目の焦点が合ってないっていうか。もはや正気の人間の目じゃないって……!)


 タバコをくわえたまま両手をポケットに入れて、それとなく周囲を見回す。胡桃がのこのこ帰ってくるのを待つつもりか。

 煙を吐き出そうと片手を出したとき、男がポケットから何か落とした。地面に落ちると同時に反射して、それが光る。胡桃の恐怖心がそう思わせたのか――小型のナイフらしき、何か。


「……刃物を、持ってる。たぶん、折り畳み式か何かの……」


 つばを飲み込んだ梓の発言がトドメとなって、全身から汗が噴き出した。

 いよいよホラーだ。明るい時間帯になって、相手に対する恐怖が具体的に見えてきた気がする。確信した。昨日、梓と出会わなければ、胡桃は朝を迎えていなかった。


(なんなのアイツ? 私が何したんだよ! ホントにただおしゃべりして、ゲーセン行って遊んだってだけなのに! お金はちょっと貰ったけど、それはお互いわかってたことで……ここまでするかフツー!?)


 ただの女子高生の胡桃が、たった一回ゲーセンで遊んだだけの相手に命を狙われる筋合いなんか、あるわけがない。理不尽な恐怖と怒りとで、その場で暴れてやろうかとも思ったが、当然無意味だ。梓の合図で仕方なく引き返すことにする。


「ど、どうしよう? てか、なんであいつ待ち伏せてんの? 絶対頭おかしいよ。私、殺されるようなことなんかしてない!」


 胡桃は震える声で梓に怒りをぶつけた。サラリーマンに聞こえるとまずいので、出来る限り小声で話す。梓も青い顔をしていたが、胡桃よりは冷静に見えた。


「まず、落ち着きましょう。理由なんて考えても仕方ないよ。こちらが普通に接したつもりでも、恨む人は恨むし、殺そうともしてくる。たまたま、新藤さんがそういう人間と出会ってしまっただけだ」

「でも、でもさ……どうしたらいい? このままじゃ殺されちゃう」

「警察を呼びましょう。刃物を持って自宅前で待ち伏せなんて、一般人が対処できる範囲を超えてる」


 ごもっともな意見だ。だって、これはすでに事件だ。単なるストーカー行為では動かないと言われる警察も、さすがにこの状況なら動く、はず。通報すればすぐにパトカーが来て、サラリーマンは連行されるだろう。これで即解決だ。

 ……でも、しかし、だ。


「待って――ください。警察は、ごめん。やめて」


 胡桃はスマホを取り出そうとした梓を、シャツの袖を掴んで止めた。胡桃の予想通り、梓は疑問の声をあげる。


「どうして」

「えっと……」


 なんと説明すればいいだろう。自分が持っている言葉の中から、梓を納得させられそうな台詞をつくろうと、必死に考えを巡らせてみた。でも、無理だ。命の危機なのに警察を呼ばない正当な理由なんて、胡桃の頭じゃ浮かばない。

 だから正直に言うことにした。


「友だちを探してるの。警察なんか呼ばないで」



     *



 浅井清香と初めて話したのは一年前。高校二年の春だった。


「修正液持ってる?」


 あまりに自然すぎて、胡桃は声をかけられたのが自分だと気付かなかった。少し間を空けて、視線を上にやる。胡桃の席の真ん前に、モデルみたいに背の高い女子が立っていた。

 色白で表情はキツめ。睨んでるわけじゃないんだろうけど、全体的に鋭い雰囲気だ。つけまとカラコンで武装した猫っぽい目と、眉尻が太めに描いてある凛々しい顔立ちのせいかもしれない。毛先だけ巻いたピンクっぽい明るめの茶髪が、胸のあたりまで伸びている。濃すぎない化粧とはいえ、田舎じゃ違和感バリバリな派手めの美人だ。


(で、なんて言われたんだ? シューセー……修正液?)


 たったそれだけ。それだけだったが、胡桃は驚いて咄嗟に返事ができなかった。休憩時間で、教室のあちこちに散らばっていたクラスメイトも一斉に二人を向いた。清香のたった一言で、教室の空気が固まっていた。

 理由は単純だ。胡桃は一年生の終わりからずっと、周囲に無視されていたから。


 きっかけもこれまた単純。くだらない噂から始まった誤解だ。所属していたバレー部の先輩の彼氏を、胡桃が誘惑して奪ったとか、そんな根も葉もない噂。しかし先輩の彼氏が浮気していたのは事実だったし、胡桃が放課後男と歩いていたという目撃証言もあったことから、噂は真実と誤認され、胡桃は退部せざるを得なくなった。

 浮気相手は胡桃じゃないし、胡桃は胡桃の彼氏とデートしていただけだと言っても、誰も信じてくれなかった。皆、どちらが真実かよりも、どちらを信じれば自分たちが安全かを優先した。彼氏も、自分にまで被害が及ぶのを恐れて離れていった。


 その後、噂は部内だけにとどまらず、学年、学校中に、色んな嘘をくっつけて広まった。毎日違う男とヤリまくってるとか、教師に体を売って成績維持してるとか、ヤバい組織のヤバいパーティーに毎晩参加しているとか……なんかもう、アホか、って言いたくなるようなものまで、とにかく色々。結果、胡桃は学校で居場所を失ったのだった。

 もはや胡桃の基本的人権の尊重なぞ忘れてしまったこの場所で、胡桃に声をかけてくるやつがいたとは。しかも女子。


「修正液貸して。持ってないの?」


 聞こえていないと思ったのか、清香はまた同じことを言った。首を傾げると、ピンクブラウンの巻き髪がさらりとこぼれて甘い匂いが流れてくる。我に返った胡桃は、慌ててペンケースを探り、百均の修正液を差し出した。


「あんまし使ってないから、ペン先固まってるかも」

「んー、大丈夫大丈夫。ありがと」


 次の授業終わったら返すね――終始軽い口調のまま、清香はペンを上下に振って自分の席に戻った。

 清香は二年のクラス替えで同じになったから、噂のことを知らなかった? そんなはずはない。どんなに疎いやつだろうと、校内中に広まった胡桃の悪評を一つも知らないわけない。たった一日でも同じ教室にいれば、胡桃が無視されているのはすぐわかる。


(のに、あいつ……めっちゃ普通に声かけてきたな)


 授業が終わり、宣言通り返しに来た清香に理由を聞くと、「修正液持ってそうな顔してたから」とのこと。どんな顔だよ、とは言えず、ふーん、とだけ返した。うろたえるのもちょっとダサいし。

 本当は、誰かに当たり前に話しかけられたことが嬉しくて、理由なんかどうでもよかった。

 短く「ありがと」と言った清香の、真っ直ぐ伸びた背中を見たときから、胡桃は清香が大好きになっていた。



     *



 失踪した友だちを探している。

 冗談みたいな本気の告白に、梓は考え込むような表情で黙った。なんだかんだと梓の部屋に引き返した胡桃たちは、リビングで向かい合って座っていた。梓が用意してくれた麦茶は、胡桃のコップだけ半分まで減っている。


「それで、その……清香さん、という人は、いつから行方不明なの?」

「去年の夏。七月七日、七夕の日に――いなくなった」


 言葉を選びながらゆっくりと尋ねる梓に、胡桃は即答した。あの日のことは忘れようがない。

 いつも通り学校に行って、帰ってきたら、胡桃のスマホにメールが届いていた。


「『アドレス帳に登録いただいていたお友だちの皆様へお送りしています。娘がいなくなりました』……冗談かと思うでしょ。でも、本当に、突然。突然すぎて理解できなかった」


 最初はいたずらメールかと思った。清香はクールに見えて意外と冗談を言うタイプで、胡桃をからかうことはよくあった。それの、たちの悪いバージョンだと思い込もうとした。

 しかし、翌日の教室に入った途端、わかった。いつも胡桃を無視する同級生たちが、一斉に胡桃を見た。悲しそうな目、気遣うような目、好奇の目……日常と違うみんなの視線。追い打ちはホームルームでの教師の発言。残念ナオ知ラセガアリマス。ウチノくらすノ浅井清香サンデスガ……。


 嘘でしょ、あんた。

 何やってんの? 急にどうしちゃったわけ?

 動揺する胡桃を笑うように、ホームルームは一瞬で終わり、みんなは日常に戻っていく。胡桃と清香を置き去りにして。


「最近、あんまり学校来なくなったな、とは思ってたけど。でも連絡したら返事くれてたし、ファミレスで会ったりもしてた。だから、まさかいきなり……消えちゃうなんて……」

「それはとても悲しい事件だけど――探すって、まさか新藤さんひとりで探していたの?」


 責めるというより心配するような声で梓が言う。居心地が悪くなった胡桃は、目を合わせないようにうつむいた。それを肯定と受け取ったのか、梓は小さく息を吐く。


「それで、あんな夜中に歩いていた、と。それはいくらなんでも危険でしょう」

「でも、何かわかるかと思ったんだよ! ……清香がいなくなったのは夜だった。清香と同じ目線になれば、私でも気付くことがあるんじゃないかって」

「友だちを思いやる気持ちを悪とは言わないよ。でも未成年の、それも女の子が、ひとりで夜道を歩くのは危険すぎる」


 梓は改めて姿勢を正すと、長い前髪の向こうから胡桃を真剣にみつめる。


「やっぱり警察に相談したほうがいい。というか、お友だちの件、警察は動いてくれなかったの?」

「あー……一定期間過ぎると、もう探してくれなくなるらしくてさ。だから私だけでも」

「その結果、とんでもない不審者に目をつけられているのはマズいでしょう。このままだと新藤さんも危ない」


 痛いところを突いてくるやつだ。あのリーマンを持ち出されては、胡桃には上手く言い返せる自信がない。アパート前で見た光景を思いだすだけで、恐怖で思考がフリーズしそうだ。


(でも……それでも諦めきれないから、親友だったんだろ!)


 己を奮い立たせるように、胡桃はぎゅっと拳を握る。


「じゃあさ――せめて、期限! 決めさせてよ! 清香のいなくなった日――七夕までは、何も聞かなかったことにしてほしい。そのあとは通報でもなんでもすればいいよ。でも、その日までは……」

「……本気?」

「本気だよ。ストーカー野郎にビビって逃げるくらいなら、刺されたほうがマシなくらいには」


 もちろん刺されて死ぬなんて絶対嫌だけど。それより諦めたくない気持ちのほうが強いのは確かだ。

 梓は「刺されてもらったら困ります」と冷静に返したあと、


「わかった。そこまで言うなら、俺も腹をくくりましょう」


 驚くほどあっさり認めてくれた。


「え……いいの? マジで? 私がいうのもなんだけど、ひとりの大人としてどーなの?」

「もちろん、俺からも条件を付けさせてもらうよ」


 そういう問題でもなくないか?

 とは思ったものの、警察行きがなくなれば胡桃としてはありがたい。多少面倒な条件が付いたとしても、受け入れたフリをすればいいだけの話だ。

 内心チョロいなと笑う胡桃に、梓は悪意の欠片もない笑顔で言い放った。


「新藤さんは今日から、俺と一緒に暮らしましょう」

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