女子高生の賞味期限

北瀬多気

第1話

 自分史上二度目の運命の出会いは、ひたすら焦っていた六月だった。




 クッソ暑い。めんどくさい。だるい。早く帰りたい。駅から徒歩十分の物件です、なんて嘘じゃん。陸上選手がタイム計ったんじゃねーの。

 新藤胡桃は頭の中でさんざん悪態をついていた。窮屈な黒のローファー。肩にじわじわダメージを与えてくる通学鞄。有名デザイナーが手掛けたという、学外でも人気のセーラー服は、汗でべっとり張り付いていて気持ち悪い。自分を取り巻く何もかもが不快で、胡桃は本日最大級のため息をついた。


 夜の田舎道。やや複雑に入り組んだ住宅街だけど街灯が少なくて、地元民でないと道に迷うことが多いらしい。胡桃にとっては庭のようなものだが、ヨソ様からすると怖いだろうな、と思う。ひと気のない住宅の影や十字路の角から、突然不審者がとび出す……なんて容易に想像できる。


(まあ、知ってる人ばっかりだから平気だけど)


 都市部から離れたこの住宅街は、治安はいいほうだと思う。胡桃のような女子高生が、何度も深夜に歩いていても、不審者なんぞ一人も出くわしたことがない。高齢化が進んでいる地域だから、近所の人は遅くとも夜九時には寝ているほどだ。

 だから、胡桃は油断しきっていた。

 自宅アパートに急ぐため、胡桃はキレのある方向転換をみせた。赤の点滅信号が見えたら、その先は右、直進して、左。熱気とだるさでずいぶん鈍ってはいるが、そこは十代、そこはJKだ。深夜だろうと、帰るためならもうちょっと頑張れる。ていうか早くシャワー浴びたいし。

 行く先に、目が痛いほど眩しい自販機が二台あった。そういえば喉も乾いている。家に帰れば、冷蔵庫に冷えた炭酸ジュースがある。乾いた喉にとっとと炭酸をブチ込みたい。

 胡桃が早歩きで自販機を過ぎようとしたときだった。


「――モモ」


 暗くて粘っこい声が、胡桃の足を地面に縫い付けた。今まさに通過するところだった自販機の影から、ぬるりとスーツの男が出てくる。


「モモ、今帰るところだったの? ずいぶん待ったよ。学校はとっくに閉まってるのに、アパートに帰ってなかったからさぁ……」


 中肉中背の、どこにでもいるサラリーマン風な男が、胡桃にずいと顔を近づける。たしか、一週間ほど前に市街地で男だ。そのときは、やらしいこともされなかったし、ちょっと根暗っぽいけど普通の会社員としか思わなかったのに。

 聞いてもいないことをペラペラ喋る唇が、無遠慮に胡桃に迫ってきた。


「あ……ちょっと、先生に呼び出されちゃって。慌ててたから乗る電車、間違えちゃったんだよね」


 咄嗟に苦しい嘘を並べ立て、男からさりげなく距離を置こうとする――が、胡桃の汗ばんだ腰を、男の生温かい手が素早く掴んだ。


(うわ……稼ぐ相手間違えたかな)


 自分より遥かに力のある男を前にして、胡桃は冷静に後悔していた。引っかけた相手がこういうタイプだった――なんて話は聞いたことがあっても、対岸の火事としか考えていなかった。こういうことはいつも、自分にふりかかってやっと深刻さを理解するのだ。

 犯される? それとも殴られる? いや、下手すれば殺される。どのみち胡桃に対抗するすべはない。深夜一時、ひと気のない住宅街で、助けなんかくるはずもない。

 気持ち悪い。とっとと逃げるべきだったかも……って、無理だ。最寄りの交番までかなり距離があるし、さっきの発言からすると自宅もバレてる。どこにも逃げ場なんてないじゃないか。こうなった時点で胡桃は詰んでいた。


「今日、仕事で疲れちゃってさ。ずっとモモに会いたかったんだ。ホテルがダメなら、モモの家にしようよ。明日は学校も休みでしょ?」


 はあはあ言ってる生臭い息も、腰に回された手も、何もかも全部嫌すぎる。怖いのに、それよりも、こんな時間までずっと自販機の横に突っ立ってるとか暇人かよ、とか、なぜ私が当然のように乗り気だと思い込んでるんだよ、とか、現状に場違いな怒りがこみあげてきた。

 そんなこと考えている間にも、胡桃の目の前で男はニヤニヤ笑っている。胡桃にとっては異様にデカく感じる男の手で、自由を奪おうとしてくる。乱暴な手と汗で、制服と体がぴったりくっついて気持ち悪い。


(あれっ。もしかして、私……マジで死ぬのか?)


 思考停止。抵抗なんかできるわけもなく。胡桃の太腿を這う男の手が、段々スカートの奥へ伸びていく。今までこういうことをしてこなかったわけじゃないのに、今夜ばかりは人間的に、生命的に、殺されると思った。

 ――ガシャン!

 唐突に、夜道に安っぽい音が響いた。胡桃と、絡み合う男の視線が同時に動く。

 自販機に照らされていたのは、錆びたグレーのママチャリだった。

 倒れた古いママチャリの向こうで、背の高い人物が目をこれでもかというほど見開いていた。

 胡桃たちの間に漂う、生と死の境目みたいな恐ろしい空気は、


「……にんじんの皮をむいて! 一口大に切りますッ!!」


 裏返った泣きそうな大声に吹き飛ばされた。


「え、は? 何?」

「じゃがいもの皮も、むきます! 芽も取ります!」


 叫びながら横倒しになったママチャリを跨ぎ、謎の人物は胡桃たちへずんずん近づいて来る。長い前髪に隠れて顔はよくわからないけど、体格や声からしてどうやら男の人っぽい。

 いや、そんなことより。


(こいつ何者? そして何を叫んでるの!?)


 混乱する胡桃と男を交互に見て、


「次に、玉ねぎを切ります!」


 再び叫んでから、胡桃を男から引きはがした。いきなり腕を掴まれた胡桃は、謎の男のほうへよろめく。正気に戻ったサラリーマンが手を伸ばすも、胡桃の体は素早く謎男に引っ張られたので、その手は空を切る。


「なっ、なんなんだ、お前は!」


 問いかけこそごもっともだが、胡桃にとってはどちらの男も「なんなんだお前は」である。変態サラリーマンと謎の不審者。貞子VS伽椰子。ヤバイ奴とヤバイ奴の真っ向勝負。今度は謎男に捕まっていて逃げられないし、口を挟む隙もない。否、挟みたくない。


「玉ねぎは繊維に沿って切りましょう!」

「話を聞けよ! というか、邪魔するな! とっとと消えろ!」


 ここで「通報するぞ」と言わないのは、一応自分も後ろめたい自覚があるからかな……などと、すっかり落ち着いた胡桃は思う。


(いや、変態二人を目の前に落ち着いてどうするよ、私)


 しかし、不思議なことに……突如野菜を切り始めた(?)第二の変態には、サラリーマンのような恐怖を感じないのだ。胡桃の腕を掴む手が汗ばんでいるのがわかるのに、気持ち悪いとも思わない。

 動揺するリーマンを睨みながら、謎男は胡桃を背中に隠してゆっくり後退する。


「……にくを」

「今度はなんだ!」

「肉を、切ります……!」

「……!?」

「ハサミで切ります。余分な脂も、一緒に切り落とします。面倒な皮も、ハサミなら簡単に切れるので、ハサミがおすすめです」


 なんだか不穏な空気になってきた。

 リーマンを睨みつけたまま、謎男は肉を切るだの、ハサミがおすすめだのと言い始めた。しかも、口元はほんの少しだけ歪んでいる。肉を切るとか言いながら笑っている。さすがにリーマンもドン引きだ。

 今すぐにでも、こいつの手を振りきって逃げたい……なんて思っていると、謎男が胡桃を掴む手とは反対の手を背中に回した。胡桃だけに見えるように、その手はこっそり右を指す。

 ちょうど胡桃がサインを確認した瞬間、


「――走って!」


 震える声で謎男が叫ぶ。

 胡桃は弾かれるように足を動かした。

 恐怖も疲労感も異様な暑さもすっかり忘れて、全速力で駆け抜けた。謎男に手をひかれるまま、ひたすら走る、走る。置いていかれないように。追いつかれないように。

 あっけにとられたリーマンが何かを叫んでいる。待てー、とか、ふざけるなー、とか、たぶんそんな感じのこと。


「どっ、どこまで走んの!?」


 息を切らしながら胡桃が問うと、男は無人の赤信号を突っ切って、


「切った材料を炒めます! 玉ねぎがしんなりしてきたところで、水を加えて!」


 まだ叫んでいる。


「ちょっと! もういいから! ていうか、なんなんだよソレ!?」

「アクをとりつつ、具が柔らかくなってきたら……」

「人の話を聞け!」

「火を止めて、ルーを投入します!」

「聞け……って、カレー作ってたのかよ!?」


 ツッコミを入れたところで、胡桃は派手に転倒した。全速疾走中だったものだから、漫画みたいに地面をゴロゴロ転がった。痛い。普通にめっちゃ痛い。学校指定のバッグがクッションになったとはいえ、まあまあの衝撃が胡桃を襲った。


「だ、大丈夫……?」


 さすがの謎男も立ち止まり、アスファルトに胎児のように丸まった胡桃を見下ろした。



     *



 この状況、何気にピンチではなかろうか。

 謎男に連れてこられたのは、胡桃のアパートがある住宅街から、徒歩で約十五分ほどかかるマンション。土地開発などで景色の移り変わりが激しく、胡桃が把握しきれていない一角にある。どうりで見覚えのない顔だ。

 その、初対面の謎男――脳内情報が更新され、カレー男になった――のマンションで現在、胡桃は全裸になっていた。

 全裸である。花の女子高生が深夜、一糸まとわぬ姿で見知らぬ男の家にいるのだ。これをピンチと言わずしてなんと言う。どうしてこうなった。


(思いきり転んだうえに汗だくだったし、そりゃあ、シャワー浴びれるなら喜んで! って思っちゃったけど……バカなのか? 私は)


 擦りむいた膝にボディソープがしみる。まだ止血しきれていなかったのか、温まったせいで出てきたのか、血が混ざって淡いピンク色になった泡が流れていく。傷あと残ったら嫌だな。

 そんなことより、問題は今の胡桃だ。サラリーマンから助けてくれたのは事実だろうが、カレー男が善人と決まったわけではない。フィクションじゃよくある話ではないか。雇ったチンピラを放ち、女性を助けることによってお持ち帰る、自作自演野郎の話!

 そこまで考えて、胡桃はつい笑ってしまった。


「いやぁ……さすがに、ないな。それは」


 かっこよく手をとって逃げたり、相手を華麗にやっつけたりするならまだしも――カレーの作り方を叫びながら間に入るなんて、意味不明すぎる。計画的なら他にいくらでもいい台本が用意できるだろう。


「何がないの?」

「……はぁっ!?」


 脱衣所からカレー男の声がした。胡桃は咄嗟に両手で前を隠しながら扉を睨みつける。


「は、ちょっ、何話しかけてきてんの? 入浴中ですけど!?」

「声が聞こえたから、つい。何か足りないものでもあった?」


 すりガラスの向こうで、男が何か動きながら言う。扉一枚隔てた先で、女子がシャワーを浴びているというのに! なんて無神経な!


「別に、ただの独り言だしっ……それより、何してんの?」

「制服、勝手だけど洗濯中でして。コンビニで替えのシャツとか買ってきたので、どうぞ」

「え、ああ……それは、どうも」

「いえいえ。どうぞごゆっくり」


 カレー男はのんびりした口調で言うと、あっさり脱衣所を去っていった。足音が聞こえなくなったあと、胡桃は慎重に脱衣所へ向かう。清潔なバスタオルとフェイスタオルが一枚ずつ。隣に白いインナーとパンツ(パッケージ未開封)、それと黒い上下のスウェット。どうやらコンビニでわざわざ買い揃えてくれたらしい。なんでもあるな、コンビニ。

 パッケージを雑に開封しながら、間抜けな自分に笑いがこみ上げてきた。

 深夜に見知らぬ男の家に、未成年の女一人で行くなんてどうかしてると思う。今だって抵抗がないわけじゃない。

 でも、カレー男は本気で親切なだけかもしれない。胡桃に何かするつもりなら、いくらでもチャンスはあったはずだ。しかしこの通り胡桃は無傷。自分で転んだ以外は。きっと襲われるようなことはない。

 難しいことを考えるのはあとにして、とりあえず全裸から抜け出そう。

 替えのパンツがちょっとだけ――本当にちょっとだけ、サイズが小さかったのは内緒だ。




「ごめんね。うち、お客さん用の布団とかなくて」


 殺風景なリビングダイニングへ入ると、カレー男の謝罪が待っていた。冷房が稼働していたので、背中のドアを素早く閉める。


「俺はソファで寝るので、モモさんはどうぞ、寝室のベッドを使ってください」

「……あの」

「あ、大丈夫。シーツとか今朝洗濯したばかりだから。一応、清潔です」

「いや、そうじゃなくて……」


 ……なんかもっと他に言うことあるだろ。

 喉まで上がっていた言葉をぐっと飲みこんで、胡桃は頭を下げた。


「助けてくれて、ありがとーございました」


 この男が何者であれ、まず言うべきはお礼だろう。色々ツッコミどころはあるものの、気持ち悪い勘違いサラリーマンから救ってくれたのは事実だ。

 胡桃がお礼を言ったのが意外だったのか、カレー男は無言で数回瞬きした。と、急にふにゃりと表情を崩して、


「あはは、照れるなあ。勘違いで恋人たちの邪魔をしたなら謝らなくちゃと思ってた。何はともあれ、無事でよかったです」


 登場時のインパクトとは裏腹に、とてもおっとりした雰囲気の人だと思った。背が高くて、男性にしては髪の長い、若い男。大学生くらいだろうか。鬱陶しい前髪を整えれば、まあまあイケメン……に見えなくもない顔だが、染めていない黒髪と肌の白さのせいか、地味、という言葉が最初に浮かぶ。少なくとも、自分から前に出るタイプには見えない。


(でも……助けてくれた。たぶん、かなり勇気を出して)


 安心しきった笑顔に、胡桃の中の警戒心がするする解けていく。


「胡桃、です。モモは……あだ名、みたいなもんで。本名は新藤胡桃っていいます」

「新藤さん? ……新藤、胡桃さん?」

「そうですけど。何か?」

「あ、ううん。なんでモモなのかなって、一瞬考えてた。そっか、漢字ね……」


 ブツブツとつぶやきながら、男は何か納得したように数回うなずく。


「教えてくれてありがとう。俺は冴島といいます。冴島梓」


 冴島梓と名乗ったカレー男は、笑顔のまま丁寧にお辞儀した。


「自己紹介したばかりですが、もう遅いですし、早く寝ちゃいましょう」


 梓は胡桃をさっさと寝室へ案内する。寝室も冷房がきいていて涼しかった。最低限の日用品以外、ものはほとんどなく、想像していた男臭さもない。腰掛けたベッドは柔軟剤の優しい匂いがした。


「そういえば、ご両親に連絡していなかったけど。大丈夫?」


 電気を消そうとした梓が、思い出したように振り向いた。


「両親、海外に出張中なんで。家には私ひとり、です」

「そうだったんだ。じゃあ明日、俺が家まで送ります」


 梓の半分は優しさでできてます、って感じの、百パーセント良心的な笑顔。襲われるんじゃないか、とか疑ってた自分が恥ずかしくなるレベルだ。あまりの眩しさについ目を逸らしてしまう。


(ていうか……そういう気遣い以前にさあ。怒るとかなんとかするだろ、普通)


 まともな人っぽいから、助けたあと説教するとか、警察に連れて行くとかされると思ったのに。梓は不思議なくらい干渉しなかった。胡桃が事情を聞かれたくないとわかっているみたいに。

 そのせいか、罪悪感がじんわり胸に広がっていった。


「おやすみなさい。これからは、遅くにひとりで出歩かないよう気を付けて」

「……」


 電気が消えて、寝室のドアがそっと閉じられる。梓の足音が遠くなったのを確認して、胡桃はベッドに倒れるように体を預けた。

 さっきまで路上で騒いでいたのが嘘みたいに、静か。そういえば真夜中だった。


(出歩かないように、か)


 梓の人が好さそうな笑顔を思い出して、ごめん、と謝る。それだけは約束できない。たとえ再び変質者に会うことになっても。

 夜に消えたアイツを探すには、胡桃も夜を走らなければ。

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