第56話
エージェント契約。
映画でしか目にしたことのない岐路に立たされる僕。
もちろんこれから交わす契約が法的効果を持つ書面だけであるわけがなく。
《呪魔法》の派生――《呪術契約》を結ばさせられると思って間違いない。
決して違約できず、強制的に契約内容を遵守させられる。
「安心したまえ。これから結ぶ《呪術契約》は国家の機密事項の漏洩を阻止する条文しかない。不利益を被る――脱退を縛るような誓約はないよ。本来であれば裏切り行為の禁止などを設けたいところだが、こちらに利があると誰も交わそうとしないからね」
《呪術契約》は違約不可避。
反故にすれば穴という穴から出血し、猛毒が全身を蝕んでいくような苦しみと共に命とを枯れさせてくる。
彼の立場からすれば魔法行使による国民への暴力、犯罪行為の禁止に関する条文を追記したいのが本音だろう。
しかし、帰還者が不利になる《呪術契約》を結んでまで警察組織に手を貸す道理はない。
なるほど。だからこそ魔法行使の黙認。見て見ぬふりというわけか。
長官としても《桜四係》は相当ギリギリの制度であることを理解しているに違いない。
そもそも《空間転移の魔眼》を持つ【白い暗殺者】なら国家の安全・秩序のために身を捧げる必要なんてないわけで。
それこそ誰にも存在を認知させず、私利私欲を満たすこともできた。
それを職責を負ってまで遂行しているという事実は素直に脱帽するしかない。今日の日本の平和があるのはこの人のおかげだ。
僕にはできない生き方だよ。
本音を言えば《治癒魔法》を行使できる術者だって長官を通さなくてもたどり着けると思う。
対象が《桜四係》だとすると情報が隔離されているから《導の魔眼》でもすぐには難しいかもしれないけどね。
けれど何より九条長官の心情も組んでいて。
だって《治癒魔法》が行使できる術者がいるという事実は相当エグい。
現代医療技術では救えない患者をあらゆる法則を無視して完治させてしまうんだから。
例えばその存在を狡い政治家、悪徳な経営者が認知すれば骨の髄までしゃぶり尽くしたくなるだろう。
子どもは無意識に分け与える存在だけど、大人は独り占めしたくなる生き物だ。
術者の取り扱いは想像以上にナーバスなはず。
そういったこと全てが長官の背中に乗っているのかと思うと色々と考えさせられるものがある。
僕は色々なことを思案して、長官の手を握り返すことにした。
「よろしくお願いいたします」
「こちらこそだ。この手を握ってくれたことに最大の敬意と感謝を示させていただこう。本当にありがとう」
九条長官は綺麗なお辞儀で敬意と感謝を示してくれた。それは心の底から思っていなければできない立派なものだった。
少なくとも僕にはそう思えた。
異世界の帰還者という軍事力の根幹を揺るがす存在を前にして国家の秩序と安全を守るために人生を捧げた男がそこにはいた。
僕はこれを機に九条長官の言動について認識を改めることにした。
感服、心酔、洗脳させるためのものなのかどうか、考えるのをやめたのだ。
「では具体的な話に移らせてもらっても構わないだろうか」
「はい」
来客用のソファに腰掛ける。
「私と同じ異世界に転移し、魔王を討伐した佐久間くんにお願いしたいことがある。君にしかできない重要任務だ」
「まずは内容を聞かせていただけますか」
「単刀直入に申し上げよう。私は娘の蓮歌に《空間転移の魔眼》を移植しようと考えている」
「――っ!」
あまりに脈絡のない告白に面くらう僕。
彼と対面してから驚かされてばかりだけれど、これは特に群を抜いている。
「蓮歌にはできれば普通の女の子として暮らして欲しい。その気持ちは現在も変わっていない。ただあれは幼くして母親を失った娘でな」
「もしかして病か何かに?」
「いいや。連続殺人犯の餌食になり、何の前触れもなくこの世で一番大切な存在を失ったのだよ」
これでようやく点が線になった。
テロリスト――というより犯罪者に対して九条さんから強すぎる殺意を嗅ぎ取っていた。
まさか彼女にそんな過去があったなんて思いもよらなかったよ。
「実力組織の長などをやっているが、私も一人の父親だ。できることなら蓮歌には幸せな家庭を築いて欲しいと願ってやまない。しかし、娘はこの国から一人残らず犯罪者を駆逐するつもりでね」
駆逐。さすが父娘。あの娘にしてこの父ありというわけだ。
「だから私は職権を濫用して蓮歌をあえて激務や危険を伴う部署に異動させてきた。音をあげて欲しかったのだよ。この世界から立ち去ることになれば他の生き方が見えてくるかもしれないと思ってね」
だが蓮歌は母親を奪われた憎しみが消えず、むしろそれを糧に数々の功績を積み重ねて異例のスピードで出世することになってしまった、と苦笑する長官。
まったく思惑と反対なのに、人事権を乱発し、長官自ら娘を叩き上げようとしている噂まで立っているそうだ。
「正直気が気じゃなかった。私が対峙した帰還者だけでもすでに二人が犯罪に手を染めている。当然ながら異能を持つ彼らにとって警察官などその辺に生えている草木と変わらないからね。この組織に勤めていればいつか遭遇してしまうのではないかと恐れていた」
「それが現実のものとなってしまった、と」
「ああ。君がいなければ蓮歌は肉の塊になっていた」
ちなみにこのときの僕は知るよしもないのだけれど、もしもあの場に僕が居合わせず九条さんが命を落としていた場合は《隠し玉》――《空間転移の魔眼》の
「つまり九条さんの生き様を後押しするということでしょうか。ですが《魔眼》の移植はハイリスクですよ?」
術者が《魔眼》を行使するためには主に3つのパターンがある。
①術者が突然、開眼する
※魔女に多く見受けられる現象
僕がいた世界でも開眼の原理や条件は解明されていない
②魔眼開眼者が命尽きた際、魂が魔眼に残留し、彼らと契約する
※僕がこのパターンに当たる。シルやリゼ、ウィルなんかがそうだね
③魂が残留していない魔眼の移植
※最もリスクが高い
魔眼には適合性というものがあり、魔眼と対象それぞれが拒否反応を示す場合が高い
しかし、肉親の場合は適合性が高く(適合可否は遺伝子が大きく関与)成功率は他人と比較すると段違いに跳ね上がるものの、失敗すれば光を失う。
ごく稀に命を落とす場合もある。
ただし、適合した場合は対象に《魔力回路》が開設されて《魔力》が宿る。
当然ながら異世界でも《魔力》を持たない無能力者――いわゆる一般人はいるわけで。
何も失うものがなく、チカラを欲した無能力者が命賭けで移植することはよく見聞きしていた。
さらに肉親への移植による適合の場合、子には親を超越する肉体強化、魔力の拡張、魔眼の進化などの恩恵が授けられる。
これは魔眼が継承され、存在し続けるために進化したと言われているが詳細は不明だ。このあたりは《魔法学》《魔法医学》の世界になってくる。
「蓮歌がこの世界から足を洗うつもりがないことは先日の件で思い知ったよ。それどころか
展開が早く、着いて行くのが大変だ。
もちろん戦況が数分でひっくり返ることなんて異世界ではザラだし、こんなものじゃない。
とはいえ、九条さんが《空間転移の魔眼》を行使か……。
ぶるっ。あれなんでだろう⁉︎ 悪寒が!
なんか色々とマズい気がする!
「仮に移植が成功した場合、彼女の処遇はどうするんですか? というより僕にしかできないお願いというのは?」
質問に口の端をつりあげる長官。
「人事発令でSPから《桜四係》に配属させる。父娘の絆は言語では表現できない信頼関係があるからね。次に佐久間くんにお願いしたい《桜四係》の初任務は蓮歌の教育係だ」
「ひょぉっ⁉︎」
おっとっと。あまりの衝撃におもわず変な声が出ちゃったよ。僕があの九条さんの先生役? HAHAHA!
「考えてもみたまえ。私の正体を明かす際、実父から異世界転移や《魔眼》など、真剣に話されたら子はどう思うかね?」
率直に言えばヤベーでしょうね。
とうとうボケが始まったか、とも。
「むろん、必要最低限の説明はするつもりだ。だが、一から十まで教え込むのは重たい仕事だと言わざるをえない。時間の課題は《魔眼》で特殊な時間軸に転移させれば済むが、帰還者の対応まで考えねばならない長官というのは死に急ぐような業務量でね。これ以上の心労は避けたいのだよ」
「そこで僕の出番というわけですか……」
「そういうことだ。どうだろう。引き受けてもらえるかね?」
長官の最終確認に瞳を閉じる僕。
むろん《魔眼》の移植、継承に思うところはある。
けれどそれは父娘の問題だ。彼らがこれまで歩んできた人生から答えを導き出すべきだし、そこに僕が介入するというのは烏滸がましい。
ただ一つ言えるのは彼らの判断を最大限に尊重したいこと。それが偽りざる本音だ。
テロリストの襲撃を思い出す。
この誘いを承諾すれば僕はこれからエージェント的な暗躍をすることになるわけで。
異世界で何千、何万という命を奪ってきたとはいえ、殺生はいつまで経っても慣れることはなかった。
けれど心のどこかで九条さんとの
悪くない、というか彼女の隣に立つのはそれなりに楽しいかもしれない。
異世界に転移し、帰還しなければ現実世界の裏側を覗けることもなかっただろうし。
良くも悪くも、刺激的で他人が決して送れない人生を歩むことができるかもしれない。
表向きの生活を制限されることもなさそうだし、好条件かもしれない。
目を開けた僕は真っ直ぐ九条長官の目を見据えて言う。
「《桜四係》――並びに九条さんの教育役、慎んで拝命いたします」
「交渉成立だね。治癒の件も進めておこう。色々と準備が整い次第、また招集させてもらうよ」
☆
九条誠一郎
「……はぁ」
深々とチェアに腰掛ける九条誠一郎。疲弊が色濃く出ている。
(ひとまず新たな脅威を飲み込めたか……)
国家の秩序・安全における最高責任者。
そこに異世界帰還者が絡んでくれば気苦労も多いことだろう。
実のところ異世界転移・転生の帰還者は世界中に散らばっている。
彼らの存在が現実世界で表沙汰になっていないのは各国政府が必死に隠し通しているからである。
すでに帰還者により支配されているのではないか、とまことしやかに囁かれている国家もある。
軍事バランスの変化は戦争を誘発する火種になりかねない。
異世界で戦争の悲惨さを目の当たりにしてきたからこそそれだけは絶対に阻止しなければならない――誠一郎の信念であった。
「どうやら私は苦労する星の元に生まれたようだよ、迅」
かつての戦友――親友の顔を脳に浮かび上がらせ苦笑を浮かべる誠一郎。
誠一郎は瞳を閉じたまま、《空間転移の魔眼》を開眼し、業務に戻る。
別次元に転移されている資料には、
『異世界アルベルト王国皇女殿下の極秘来日について』と記されていた。
(まさかここに来て異世界と現実世界が繋がる《門》の出現。何をいつまで秘密にしておくのか、異世界の存在を公にするならばそのタイミングと順序、明かしていく内容、政府への説明資料の作成、新たな組織、本部の設立、それを受けての各国の動向や対日工作対策――ははは。暗殺者が過労死しそうだ。いずれにせよこの国の平和はおそらく――)
――佐久間龍之介くんたちにかかっていることは間違いないね。
これから九条誠一郎の苦労が絶えることがない激動の時代に突入しようとしていた。
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