番外篇開始のための、はじまりの、あとがき(ウラ)


 ※(二千二十一年二月八日の近況ノートの内容を推敲して再掲載しています。四千字余り。少々長めです。御無理なさいませんよう)。


 尊敬する或る作家さまに、コメント欄を通じて、気付かせていただいたこと。

「感傷をいなす術」が「感性の鈍磨」につながり、それは「鈍くなることと表裏一体」とは、そのとおりですね。

 年齢を重ねて生き易くなると感じるのは、

 私の鈍感力が鍛えられているせい。そう思うのです。

 しかし、創作する上では精神を研ぎ澄ませ、自傷するが如く磨き上げ、敏感に尖って尖って……と心がけて綴ったのが『アノレキシアの百合』でした。


「拒食症と性のアイデンティティ。取り組もうと思ったきっかけは何だったのですか?」

 連載中、コメント欄にて頂戴ちょうだいした貴重で鋭い感性の問い掛けでした。

 答えは、

「人生にいて、これだけは書いておきたいという種類の物語と譲らず表現したいという想いが重なって、更に私の通過儀礼イニシエーションに重なったのが、きっかけです」

 答えになっていないでしょうか。


 人生の折々に書いたエピソードの断片を繋ぎ合わせて物語を生成しました。そんなパズルのような感覚で、自分の「大好き」或いは「大嫌い」を凝縮したのが『アノレキシアの百合』です。

 連載の途中に寄せて戴いた「生々しい」という御言葉にも、「人の人生を覗かせて頂いている感覚」という御言葉にも、「人の心を覗く、妙な罪の感覚」という御言葉にも、ドキリとしました。

 この物語は我ながら「生々し過ぎて大好き」と「生々し過ぎて大嫌い」が共存する仕上がりでございますが、さいごには「透明」に昇華できており満足です。

 数年数十年の時が流れて、宵澤ひいな展示室が残っていれば、「若気の至り」にできる気が百二十パーセントいたします。

『アノレキシアの百合』は乾坤一擲けんこんいってき、宵澤ひいなの代表作として、永遠に飾っておきたい気持ちです。


 私の人生に、現世うつしよ幻世まぼろよに別たれて出会わなければよかったと想う人が居ました。デフォルトで装備されていた左手頸てくびの白い繃帯ほうたい。それが解けかけて揺れているさまを、今でもハッキリ思い出します。

 書くことで余計に傷を深める気もしましたが、このカタルシスが私には必要であったもよう。わぁ、吃驚びっくりするほどセンチメンタル!


 なお、作品をブラッシュアップする上で欠かせなかった二冊の書がありました。此処ここに御紹介します。

 ①鏡の中の少女 スティーブン・レベンクロン著、菊地幸子・森川那智子・共訳、集英社(文庫)

 ②おにいちゃん――回想の澁澤龍彦 矢川澄子著、筑摩書房


 ①は、摂食障害を臨床心理士として見守るレベンクロンの長篇小説。摂食障害に陥った少女と、彼女を救おうとする心理士の格闘。十七歳の時に読んだせいでしょうか。少女で在った時代の私に深いインパクトを与えました。

 思い込みが強迫観念となり、心身共に摂食障害(拒食症)になる過程。

 思い込みから生まれた少女「ケサ」に、本来の少女「フランチェスカ」の人生が乗っ取られそうになり(実際、乗っ取られ)、生死の境を彷徨う恐怖。

 動物的な成熟を嫌い、清らかな植物体を指向する少女期ならではの理想。

 此処ここには、ひとりの少女の「死と再生」が著されています。脅かされる心。立ち直る心。これを読んで摂食障害を治す人も居れば、摂食障害を悪化させる人も居るようで、不安定な御方にはオススメ為兼しかねます。私には、少女が通らなければならなかった成長過程をまざまざと見せ付けられた一冊であり、続篇の『鏡の中の孤独』、自傷行為を扱った同作者の『自傷する少女』と合わせて、忘れることのできない名著です。べた褒めしてしまいました!


 ちなみに私自身は生まれつき、摂食障害であったもよう。

 記憶がハッキリしません。

 そう書くと、低血糖の末の脳萎縮で記憶喪失を引き起こしたのですか? 医學イガクに詳しい御方には、そのように解釈されそうですね。残念ながら違いまして、根源的なものです。何故なら乳幼児期のお話。哺乳壜ほにゅうびんを舌で押し返す。口を頑として結び離乳食のさじを受け付けない。育てにくいこどもであったらしいのです!

 何故、ミルクを飲まず、離乳食を食べなかったのでしょう。

「私、生まれたくなかったのですか?」

 訊ねても答えは返りませんが、邪推するに生まれ落ちた瞬間から、敏感体質HSPだったのでしょう。


「私、何を食べて大きくなったのかしら」

 この件に関して気になって、羽包はぐくんでくれた母に訊いてみましたところ、

重湯おもゆ御粥おかゆ

 という答えが返ってきました。

 重湯とは、水の量を多くして米を炊いた上澄みの糊状の汁です。

 私は、病人食のようなものを好む乳幼児だったのですね。レトルトの類は一切、受け付けなかったそうで……手間暇かけて育て上げてもらい、恐縮です。たっぷり親孝行したい気持ちで、いっぱいです。


 おとなの今となっては、好き好んで食事に勤しんでおります。自炊も外食も美味しいと感じます。幼少時代の記憶は夢のように、ぼんやりとしていて、もう手に取れなくて懐かしいぐらい。けれども何か崇高な、とても透明な世界に生きていた感覚を憶えておりまして、それを思い出して創作に生かしました。


 あら? いつのまにか自分語りではないですか? そのネタ、小説で使えそうですから、これ以上、並べるのは愚の骨頂ですね。いずれは書きたいものです。先天的な、或いは遺伝子学的な、複数の要因が生育過程に絡み合う複雑怪奇な拒食症アノレキシア。気が向けば、五年後十年後二十年後に。物語の卵を大切に、あたためてみます。羽包はぐくまれるのか腐乱するのか、これ如何いかに。


 ②は、二十歳を過ぎた男女を外連味無けれんみなく「少年少女」と書いてもいいのね! という目から鱗。

『不滅の少女』の称号を持つ矢川澄子先生が、夫で在った澁澤龍彦先生を永遠に想う心。痛々しい少女の心が感傷を誘う名著です。矢川先生と言えば『不思議の国のアリス』の翻訳で有名。勿論もちろん其方そちらも良いですが、私は矢川先生の小説が好きです。大嫌いと拒否反応を起こす御方も多いらしいですが、私は大好きです。森茉莉先生と矢川澄子先生こそ『少女』で在ると思えて大好き。


 生き方としては、DINKsディンクス(Double Income No Kidsダブルインカムノゥキッズ)のはしりである矢川澄子先生より、願わくは茉莉姉様のような人生をおくりたい(孤独死を目指しているわけではありません)。色とりどりのタオルを寝台に並べて、其処そこに原稿用紙とペンを持ち込んで、ちょこんと座って、孤独に書いていたいのです(アナログの愉悦)。言葉で自分の世界を構築して、その世界の中に棲む孤独のスペシャリスト。そうして書いた「私の小説」を、弟君的存在の三島由紀夫先生に絶賛される姉様。

 たとえば、

「あなたの文学の世界では、言葉は実に気むずかしく選び取られ、実にハイカラに配列され、ページをあけるなり馥郁ふくいくたる香りがただよひ、人はその壺に落ち込んだが最後、『蜜』どころか甘い硫酸に溶かされてしまいます。それといふのも、その蜜が、その硫酸が、その言葉が、完全に無垢だからであります」

 という具合に。最高級の讃辞です。三島先生の表現力に陶酔です。


 森茉莉先生のエッセイは、硝子のように透明な感性と庶民的な生活感が同居して面白すぎます(褒め言葉)。一方、小説では濃厚耽美路線を崩されることなく、甘い蜜の部屋を築かれました。彼女を姉様と呼んで尊敬しております。しばらく姉様の耽美小説を読んでいません。好きな本は、また読み返したくなるものですね。


『永遠の少女・森茉莉先生』に脱線し過ぎました。

『不滅の少女・矢川澄子先生』です。


 矢川先生の小説は『不滅の少女』の精神性で書かれていて、健全なオトナの精神で読むと、おそらくセンチメンタルすぎて「大嫌い」に分類されてしまうでしょうけれど、不健全なコドモの精神で読むと、こんなに「大好き」なものはないのです。とくに文体に於いて、もっとも影響を受け、当初、三人称で三十万字以上だった『アノレキシアの百合』を一人称十一万字未満へと改稿する上で、感傷的な文体に辟易しては迷える私の肯定の書であり道標みちしるべでありました。矢川先生の小説、そのページをハードディスクに焼き付けてデジタル保存したいぐらい好きで困っています。


 さて、切り離して余っている二十万字の扱いは別の物語へ再利用リユースするとしても、とりあえずは置いておきましょう。

 しばらくは、下書きに眠らせている作品を一作ずつ振り返りながら、展示室にリバウンド……ではなく、戻して……でもなく、再展示していきましょう。


 余談ですが、同人誌時代、長野まゆみ先生のルビの世界に嵌まっておりました。私のルビ好きは長野先生から始まっています。コメント欄で「天球儀文庫」という文字を目にした途端、懐かしさで泣きそうでした。再び漢字とルビと少年の楽園へ還っていけると確信できました。天球儀文庫と少年アリスと甘い蜜の言葉が並ぶ本棚という楽園への帰還。新しいものを追うばかりではなく、「私」を形作った叢書そうしょの棚へ定期的に戻る時間も大切にしたいものです。


「読書は消費するのではなく蓄積するためのものだ」

 尊敬する作家さまからの箴言しんげんです。ありがとうございます。

 同性愛をテーマに長篇を書いた私ですが、今後は愛だの恋だの這入はいり込めない徹底的な様式美の許に構築する文學ブンガクに傾倒したいという希望を持っております。カクヨムの潮流とは一線を画すのかもしれませんが、そんな風味のものを、いつか書きたいと夢見ています。未発表で終わるかもしれませんが、夜啼く鳥として夢を見ます。


 しかし、『番外篇・アンドロギュヌスのヒナ』は、自身が書きたいと夢見ている文体とは、あまりにも懸け離れていて我ながら引いております。

 でも、物語の河に今、流れてきたのですもの。

 拾ってあげなければ。磨いてあげなければ。

 この子を拾って磨いて微温あたためて羽包はぐくめるのは、きっと私だけなのだから。


 皆さまの、視力ひとみとお心とお時間に余裕がございましたら、番外篇にお付き合いくださいませ。

『番外篇・アンドロギュヌスの雛』は六月十三日、開幕スタートです。

 全九回、毎週日曜日に予約公開。

 コメント返信は遅れがちになるでしょうが、コメントを頂戴することは、いつも嬉しく光栄です。

 それでは、眠られぬ初夏の夜に、或いは睡眠ねむりから、めざめてしまった時間の余白に、お会いしましょう。


 お待ちしております。

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