56.名札はリバーシブル


 月彦つきひこは、二種類の名札を所持していました。すぐに本名を表にします。


 館林たてばやし月子つきこ


 私には、本名の月子が偽名に感じられます。彼女は彼でした。月子は月彦なのです。だから、不思議な気がします。今、こうして一緒に働いていることも、月彦が月子の時間を増やして、社会と折り合いをつけていることも。


「採用の際、希望があったら何でもどうぞ。店長が、そう言ってくれたんだ。だから僕、男の子の名札も欲しいと希望した。スーパーバイザーとか部長とか、お偉いさんが来るとき以外ならいいだろうって」


 櫻井さくらい月彦つきひこ


「良い名札でしょう?」


 月彦らしい素敵な希望だと思いました。その希望を通す店長も素敵です。そして、櫻井という姓を彼が気に入っているらしい事実も、嬉しく感じられました。




 続いて、前任の店長が来店しました。


「やぁ、櫻井さん。少しだけ、ふっくらして元気そうだね。あっ、に、ふっくらしただなんて失言だ。御免ゴメン御免ゴメン


 お世話になった店長にも、やはり『女の子』と呼ばれました。ソフトにコーティングされた「肥ったね」という趣旨の言葉には、目をつむっておきましょう。


「彼氏さんも元気そうで何より。ふたりそろって推売の神だと聞いているよ。先日の店長会議でさ、お宅の店長、得意気なんだもの。当店には百発百中、ヒットを飛ばすサービスクルーが居るんですよって。あぁ、オレも櫻井さんのこと、自慢できていた時代は幸せだったよ」


 意外な御発言ごはつげんです。私を店長会議の席で自慢ですって?


「コンクールに貢献してくれた。オレに自慢話をさせてくれた。ありがとうね。御礼は、ちゃんと目を見て伝えなきゃと思って」


 カウンター越しの店長は、優しい瞳をしていました。四年制大学を卒業後、就職にあぶれた私に手を差し伸べた日の店長と同じ瞳。


「そんな……私なんて……わざわざ出向いて頂き恐縮です。ありがとうございます」

「やっぱり櫻井さん、固いなぁ。でも、接客すると柔和なんだよね。推売の神の接客トークに乾杯!」


 手近な栄養ドリンクを買い求めた店長は、早速さっそく、蓋をじ回して、ごくごくと飲みました。そして、勢い任せのようでいて繊細に選ばれた言葉を駆使して、私を励まします。


「櫻井さんにとっては順位なんて、価値の無い、つまらないものだと思う。でも、オレの中では貢献度一位だよ……私なんて……それを言っちゃいけない。そうやって自分で自分の価値を下げて、小さくしちゃいけないんだ」


 アノレキシアで心身共に小さくなった私を知っている店長の言葉が、身に沁みました。


「自信、持って行こう。櫻井さんが、このまま病気で戻らなかったらと考えたら、良心の呵責かしゃくさいなまれて仕方ない。オレが仕事を押し付けて、追い詰めたみたいな気持ちだ。だから、元気で働いている姿を見せてもらえて良かったよ。頑張ってね」


 この人は、最初から、私を価値のある人間として認めてくれていたのです。

 重責ある仕事を任されたのも、認められたゆえだったのでしょう。

 しかし、私は心も身体も弱っていましたので、仕事を押し付けられたような気持ちにしかなりませんでした。


 何事も思いようです。

 もし今後、仕事を押し付けられたような気持ちになるのであれば、無理をしないで、お断りするのみ。企業で生き抜くための処世術を会得したかに思える私は、店長が飲み干したドリンクびんを引き受けて、心から言うことができました。


「ありがとうございます。今も同じ会社で働く者同士です。同じ土俵に立っているって、昔、店長からもらった言葉。社員とかアルバイトとか関係なく、私の人格を尊重してくださって、感謝しています」

「感謝だなんて照れるね。でも、とても嬉しいよ。ありがとう」


 月彦は棚影から、私たちの会話に耳を傾けておりました。

 しみじみと頷き、黙々と鏡を磨いています。


「また一緒に働ける日が来るかもしれない。元気で居てね」

「店長こそ、お元気で居てくださいね」

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