17.百合は美しく弱る


 一夜ひとよの入院から二週間後、月彦つきひこは夏風邪をひきました。

 もともとの体力が無いので重篤じゅうとくになってしまい、布団の上で干されたように眠っています。


 カーテンレールにハンガーを設置。其処そこにS字フックを掛けて点滴をるしている姿を見ました。初めて見る光景です。

 付きっ切りで看病したいと願いましたが、叶いません。


「夏風邪は厄介やっかいだ。伝染うつってはいけない」


 距離を置くように言う月彦に従っております。

 ふすまの隙間から見守る限り、熱で蒸発した水分の重みが、彼の体重を減少させているのは明らかでした。


 私が歯磨きをしている洗面所に据え置かれた体重計。

 月彦は高熱にもめげず、デジタル体重計に乗ります。

 どんなに困難な状態であろうと、アノレキシアの本能で動く彼。

 一日に何度も、体重を確かめなくてはいられないのです。


 三十七キロ。

 見えてしまいました。入院のボーダーラインを割り込みそうな、デジタル体重計の示す数字。私は深刻に受け止め、月彦は満足そうです。


「見て。三十七キロだよ。素敵な数字だ。僕は三十七キロが一番、丁度好ちょうどいいと感じる。日芽子ひめこさんは?」


 はしゃいだ直後、沈むのです。


御免ゴメンね。女の子に体重をくなんて莫迦バカだ。答える必要なんて無い」


 再び私を遠ざけました。


「風邪を伝染うつすと駄目だろう」


 同じ寝床に就くことをめて三日。

 私は、修一しゅういちお父様の部屋に布団を敷いて寝ていました。




 舘林家たてばやしけに来て以来、ほとんどの時間を月彦の部屋で過ごし、キッチンと洗面所とバス・ルームを使うだけの私にとって、お父様の部屋は落ち着きません。


 現在は、海外へ長期赴任中のお父様。

 月彦が幼いころには、短期の赴任を繰り返しておられたそうです。

 その時代、御土産おみやげとして購入されたであろうコレクション。


 何を思って、お買い求めになられたのか分からない。

 動物の剥製はくせいの死した瞳が並んでいて、怖いのです。

 過去にとざされた生命を愛でる気持ちで眺めてみても、怖いのです。

 もうすぐ二十六歳を迎えようとするのに、怖いのです。


 三日間の我慢が限界でした。

 剥製はくせいの視線と真新しい布団の肌触りに耐え切れず、月彦の寝床を求めます。彼の部屋のふすまは雲と海の模様。白と水色のグラデーションです。そのふすまをノックしても、音は小さくしか伝わらないでしょうが、月彦の鋭敏な感覚には届きます。


「……日芽子さん?」


 私は、そっとふすまを引きました。


 畳に敷かれた布団、枕許まくらもとに百合模様の洋燈ランプ、読み掛けの文庫本が散乱する中に、月彦は座っております。


 それは私を安心させる、いつもの光景。

 進化も退化も無い時間の止まったしとねでした。

 厳密には未来へ向かって退化しているのでしょうが、そんなことを忘れさせてくれる美しい光景。


 永遠です。此処ここに永久が在るのです。


 実際に摂食障害とは、その状態で居ることとは、早過ぎる時間の流れの中に一時ひととき、とどまりたいと願う心の表れではないでしょうか。

 月彦は二十五歳のオトナですが、オトナに成りたくないのです。

 既にオトナに成っていますが、コドモのフォルムを希求するのです。


「僕の心の声が聴こえた? 呼んでいたんだよ。日芽子さん」


 呼ぶ声が聴こえたわけではありませんでしたが、幼稚じみた言い方をします。


「月彦くんに会いたくなったの。月彦くんしか駄目で、この部屋しか駄目なの」


 それは月彦の求める『彼女』の解であり『少女』の台詞セリフであるはず。


「おいでよ。風邪は完治していないけれど。日芽子さんに伝染うつしてしまうかもしれないけれど」


 彼のささやきにかれます。

 月彦の病なら伝染うつしてほしい。そう願いました。


可哀想かわいそうに。すっかり僕の病が伝染うつった。日芽子さんの体重、どれぐらい?」


 突拍子もない質問をかわします。


「女の子に体重をくなんて莫迦バカだ。そう言ったのは月彦くんよ」

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