15.トラブルへの対応


 金銭トラブルの謝罪。

 店舗代表として、そんな業務を遂行しようとする本日、出勤にフォーマルな紺色のワンピースを選んで良かったと思いました。月彦つきひこは、リサイクルショップやネットオークションで購入した中古のロリータ服を、私に着せて喜ぶのです。


日芽子ひめこさんはロリータが似合う。毎日、オトギバナシのヒロインで居てよ」


 彼のねがいを甘受した挙句あげく、エプロンドレスで御出勤おつとめという冒険に出る私に文句を言わない愛の店ですけれど、さすがにエプロンドレスで謝罪は有り得ません。

 場合によっては、TPOをわきまえない人を派遣する店舗に、新たなクレームが寄せられること必至でしょう。

 私は、現実に生きる人間なのです。


 ギグの夢から一ヶ月。

 ロリータというドレス・コードで参戦したギグの日から、月彦の体重は増えも減りもせず、心は浮上ハレ沈下クモリの繰り返しです。


 お母様は、私が幾分、せてきたことに気付きました。

 最近は低カロリーの許可食を月彦に。高蛋白の主菜を一品ひとしな多く私に。

 お心遣いに感謝です。


 お陰様で私は健康。月彦は不健康。

 日々、不健康で在ることが彼のアイデンティティでして、一種の小康状態を保っていたと言えるでしょう。


 それが今朝、急に自殺ごっこを希望しました。しかもリスカごっこです。


 デパートの地下食品売り場にて、お詫びの菓子折りにバームクーヘンを購入。

 乗り継ぎ時間に数分が許される中、百円ショップで、リスカごっこの必須アイテムである赤いエナメルを三個、調達しました。


 乗り換えた電車には風雨が吹き付け、夏の夕刻には不似合いなそらの暗さが、その後に起こる悪夢のような現実の予兆として、車窓と心に広がるばかりだったのです。




 本日、雨が降ることを予測して、照り降り傘を携えて来ました。

 けれども、豪雨になるなんて予想外。

 お客様の御自宅に到着したころには、びしょ濡れでした。


「まぁ、こんな雨の中、わざわざ、すみません」


 相談室と店舗の両方に電話をかけたという情報から、居丈高いたけだかな女性を想像しておりましたが、訪ねてみると至ってノーマルなマダムでした。


「何処に電話をかければいいのか分からなくて、二箇所にかけてしまったの。御免ゴメンなさいね」

「いいえ。此方こちらこそ申し訳ございませんでした。今後、このようなミスが無いよう細心の注意を払います。本当に、このたびは申し訳……」


 謝罪を遮って大判のタオルを手渡し、雨の雫を吹くように勧めるマダム。


「あなたの心が伝わりました。クレームじゃなくて感謝の電話をしておきますね」


 余剰金とバームクーヘンの箱を快く受け取ってくださいました。

 誠心誠意が伝わったのです。


 業務を終えて、成果を店舗に電話報告後、月彦の端末にアクセスしました。

 すぐに、月彦の可愛かわいらしい声が応答します。


「日芽子さん? そろそろ帰るころだと思って待っているよ」

「それがね、残業が発生して、帰宅が三十分……御免ゴメンなさい。一時間近く遅くなるの」


 電話は唐突に切れました。

 悪天候で電波が悪いのか、気を悪くした月彦が一方的に遮断したのか、分かりません。とにかく、一刻も早く帰宅するべきです。




 豪雨は上がり、曇天は夕暮れ色。やがて夜の闇を濃くする前。

 私が帰宅できたのは十八時四十分でした。

 疲労と空腹を忘れさせる、お母様の悲鳴が聴こえます。


月子つきこ! しっかりして」


 お母様が大声で彼の本名を呼んでいました。

 床に倒れて流血する我が子の姿を見て、平常心を失い、叫び続けます。


「月子、死なないで、お願い」


 月彦は救急車に乗せられました。私が呼んだ救急車です。

 親子と私を乗せて一路いちろ、総合病院へ走ります。




 月彦は真のリストカットに及んでいました。

 キッチンの包丁を使って事に及びました。

 ほのかな百合の洋燈ランプの点る部屋で。

 何故、待ち切れなかったのですか。


 リスカごっこの材料が、私の濡れた鞄の中で湿って窒息しています。

 エナメルを買ってきたのに、間に合いませんでした。




 二時間後。

 浅い傷痕に問題は無く、しかしながら一晩、搬送先の病院に入院することになった月彦。私は彼に付き添います。


 お母様は、げんなりと肩を落とすばかり。休息を促したところ、疲労困憊ひろうこんぱいであることを認め、素直に帰路に就かれたのです。


 月彦は病室で、私に心のナイフを向けます。


「日芽子さんが悪いんだ。僕をひとりぼっちにした。果たせない約束なら最初からしないで」


 切り刻まれました。

 月彦の言うとおりです。定時で帰ると約束して、果たせなかった私が悪い。


御免ゴメンなさい。月彦くん。私を許してください」


 私が詫びると、彼の態度は一転します。


「日芽子さんは何も悪くないよ。ただ血が見たかっただけなんだ。御免ゴメンよ。言葉のナイフを突きつけて」


 御免ゴメンよ。心細そうに繰り返し、その二面性で私を翻弄するのです。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る