第20話 夜の屋敷7
◇◇◇◇
規則正しい三回のノックに、私は目を開く。「ん」。すぐ近くでハロルドが声を漏らし、私はぎょっとした。
がばり、と寝具をはねのけて上半身を起こす。あわてて自分の寝着を確認したけれど。
……特に、乱れはない。
混乱しかかった頭でようやく昨夜の出来事を思い出す。
『……今日はこうやって眠ってもいい?』
自分の言葉を思い出して、頬に一気に血が上った。
熱い、というより、もはや痛い。
冷やしたいのと隠したいのとで頬を包んだころ、寝台に寝転がったままのハロルドが「おはよ」とかすれた声で呼びかけた。
「……お、おは」
上ずった声で応じかけた時、扉の向こうで咳払いが聞こえる。
「失礼します。旦那様。この扉を開けても?」
リーだ。「問題ない」。欠伸交じりにハロルドは答えた。寝起きでも、こんなだらしない格好でも、それなりにさまになるのだから不思議だ。
それに、と私は彼の姿を横目で見ながら、思う。
なんだかんだと、無理強いはしなかったわけで。
いつもいろいろ言うけど……。意外に紳士じゃないの。
そう思っていると、ハロルドはくすり、と笑って扉に向かって声をかけた。
「鍵を開けて入っても大丈夫だ」
リーが入室をためらっていたらしい。ハロルドは愉快そうに笑った。
「わたしもマリアも、ちゃんと寝着を着ている」
ハロルドが言うや否や、開錠する音が響き、首のないリーが足音もなく入室してきた。
「……それはなんとお答えしたらよいやら」
失望の色が濃い声を吐き出した彼の手には、男物のガウンがかけられている。
「残念だ。まったく、残念だよ」
寝そべった姿勢のままハロルドが天を仰いで見せた。
「力及ばず、でしたか。今日こそ、お嬢様を、『奥様』とお呼びできるかと思ったのですが」
「待たせて申し訳ないね、リー。だが、この一歩は大きな一歩だよ。なにしろ」
ハロルドは私を見て、優美に微笑んだ。
「わたしたちは抱き合って眠ったんだからね」
「なんと」
驚くリーに、私は怒鳴りつけた。
「服を着てたわよっ」
「……なんと……」
リーは悲し気な声でため息交じりにそうつぶやいたが、ふと我に返ったようにハロルドに向き合った。
「馬車が到着いたしました」
私とハロルドは思わず顔を見合わせる。
今何時だろう。
私は口をへの字に曲げ、ハロルドは苦い笑いを浮かべた。だが、互いに思うことは同じだ。
長い夜だったが。
これで、デービッド様が帰館する。
「ですが、どうもおかしな状況でして……」
リーは言いながら寝台に近づいてきた。
「今、サリエリが馭者の相手をしていますが、クリスタ様からの申しつけにより、馬車は来た、というのです」
「……クリスタ様の?」
私は寝台に腰掛けたまま、首を傾げた。
寝台が若干傾いだと思ったら、ハロルドが上半身を起こしたらしい。私と目が合うと、軽くうなずいて櫛の入っていない前髪をかき上げる。
「騎士たちの連絡を受けて、クリスタ様が馬車を仕立てた、ってことなの?」
「それがですね、お嬢様」
リーは素早くハロルドにガウンを渡しながら、どうやら私に顔を向けたらしい。……まぁ、頭部がないから視線の動きはわからないのだけど。
「騎士など来なかった、というのですよ」
「「来なかった!?」」
奇しくも私とハロルドの声が重なる。「はい」。リーは短く答えると、ふう、と息をひとつ漏らす。
「馭者が言うには、主がいつまでたっても帰ってこないので、クリスタ様の指示を受け、迎えに上がった、と。夜遅くは迷惑だろうから、朝を待ってきたのだ、と」
「……話を聞こう」
ハロルドは手早くガウンを羽織ると、寝台から降り立ち、リーを従えて扉に向かう。
一人残された私は、迷った末に一度扉を閉め、それからクローゼットに駆け寄った。
勢いよく開き、中からワンピースのハンガーをつかみだす。
床に放り出すと同時に寝着を脱ぎ捨て、次にワンピースを頭からひっかぶった。腰部分のリボンをしぼりながら
廊下に出た瞬間、鼻先をかすめたのはワインの残香だった。
芳香ではなく、すでに酸味を帯びた匂いで、熟した果物に似ている。
昨日のデービッド様の香りかとおもうと、あの崩れた感じの容姿が頭に浮かんで眉をひそめた。
多分、お酒や女癖のことがなければ、知的に見える顔なんだけどなぁ、と私は廊下を駆けた。
階段を下りるとき、東館のゲストルームを見るが、デービッド様や騎士の姿はなく、まだしんと静まり返っている。
……まぁ。あの時間にまだ飲んでいたら、眠ってるよね……。
私は螺旋を描く階段を小走りに降りる。
徐々に聞こえてくるのは、サラの声と聴きなれない男の声。
手早く長髪をひとつに束ね、ワンピースのポケットに入っていた革紐で結ぶ。
「じゃあ、あくまでクリスタ様の判断で馬車を出したっていうんだね?」
耳に飛び込んできたのは、サラの声だ。
顔を向けると、玄関扉の前で、腕を組んで眉根を寄せている。足を肩幅に開いているものだから、せっかくのかわいいお仕着せが台無しだ。
「はぁ……。お屋敷には、そのような騎士は来ませんでしたが……」
馭者らしい男は、帽子を胸の前で抱えて困惑しきりだ。
サラとハロルドを交互に見て、それから肩口で額の汗をぬぐう。
ホールのほうにはチャールズとリーもいるのだが、見えていない。
彼らはいぶかしそうに、馭者を眺めていた。
「わたしどもは、あくまでクリスタ様に命じられて、旦那様を迎えに来たわけで……」
言いながら、途中で私に気づいたらしい。あわてたように会釈をしたから、その視線を追ってハロルドやサラも私を見る。
「まだ寝ててよかったのに」
ハロルドは私を片手で迎え、自分の隣に引き寄せて額にキスを落とす。
その様子を見て、馭者は私を「妻」だと判断したのだろう。再度、深い礼をするから、手で制する。サラはサラで、目が合うと、「昨日、どうだった?」とキラキラした顔で尋ねるから、にらんで黙らせた。
「ふたりの騎士はやっぱり……?」
私はハロルドに腰を抱かれながら彼を見上げる。ハロルドは眉を曇らせてうなずいた。
「姉さまの屋敷には到着していないらしい」
「じゃあ、どこに行ったんだろう、あの人たち」
サラがしきりに首をかしげていた。
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