279話 悪意の襲撃 -3-

 炭酸水素ナトリウム水溶液で傷口を洗い、再度しっかりと流水で傷口を洗い、その後カラシ色のねっとりとした薬を患部に塗って処置は終わった。


「大したもんだね。痛みが嘘みたいに引いちまったよ」


 メドラに続き、マグダの指先の治療を始めたレジーナがカラカラと笑って応える。


「せやろ? あと五分ほどしたらその薬乾いてかちかちになるさかい、それをペリッと剥がしたら終わりやで」


 そんなことを言いながら、マグダの指先にもカラシ色の薬を塗布する。


「よく頑張ったな、マグダ」

「……平気。大した痛みはなかった」


 中和の際、少しだけ耳が寝ていたが、今はもう大丈夫なようだ。


「それで、結局あの劇薬はなんだったのでしょうか?」


 メドラとマグダに怪我を負わせ、マーシャを危機にさらした暴漢の劇薬。

 症状とレジーナの処置を見るに、濃硫酸か何かだと思うのだが。


「あれは、大昔の戦争で生み出された忌むべき悪魔の薬なんや」


 大昔の戦争。


 四十二区には平和ボケが咲き乱れているが、そういった暗い過去も確かに存在するのだ。

 人間は、人狼や人龍、人魚と争っていたらしいからな。


「龍のウロコを溶かすために開発された劇物やね。今では取り扱いを禁止されとるはずなんやけど……悲しいかな、威力の高い兵器は需要が多ぅてなぁ」


 禁止されようが売れるなら作られる。

 禁止されているからこそ高値で取引される。

 ……業というヤツだな。


 この街にも、こんな危険な物が出回っているのか。


「ほんで、さらにタチの悪いことに――」


 レジーナの瞳が鋭くなる。

 これまで、一度とて見たことがないほど鋭く尖った視線は、その劇物に対する怒りがはっきりと見て取れた。


「――海水を固める薬が混ぜられとった」


 レジーナが言うには、それ自体は害のない薬なのだそうだ。

 海上に漏れ出してしまった油などを迅速に回収するために開発された薬で、散布した付近の海水を固めて油ごとごっそりと取り除ける便利な薬なのだとか。

 海水に触れると薬は即座に固まり、近くにある油やゴミを巻き込んでかちかちになる。

 そうすることで、海難事故による二次被害を最小限に抑えるのだそうだ。


「この小瓶一杯の量があれば、人魚はんの水槽くらいの海水やったらがっちがちに固められてまう。もし、そうなっとったら……」


 触れるだけで肌が焼け爛れる劇薬の入った水槽の中に、マーシャが閉じ込められていたかもしれないのか……

 逃げようにも海水が固まって抜け出すことも出来ず……


 人魚にとっては、最悪の兵器だ。


「……あの野郎が今ここにいなくてよかった」


 知らず漏れた言葉に、その場にいた者たちが俺を見て、その瞬間に肩を跳ねさせた。




「たぶん、殴るだけじゃ済まなかったところだ」




 自分が他人にしようとしたことは、他人が自分にしてくる可能性があるってこと、その身をもってじっくりと知らしめてやらないとな。


「だ、大丈夫だよ、ヤシロ君。ほら、私は平気だし、メドラママが守ってくれたし! ね☆」


 瓶の中身を聞いた時、恐怖で身をすくめたマーシャが、俺の怒りを鎮めようと無理やり笑みを浮かべている。


 ……ダメだな。

 マーシャにそんな顔をさせたいわけじゃない。

 俺の怒りは、俺自身で対処しておくよ。


「マーシャのFカップは、この街の宝だからな。みんなで守らないと」

「むぅ。おっぱいだけなの? ぷんだ! ヤシロ君なんて知らないっ」


 そんな風に怒ってみせて、戯けてみせて、心にこびりついた恐怖をひた隠そうとする。

 本当は怖いくせに、弱みを見せまいと素知らぬ顔を貫き通す。



 マーシャにこんな顔をさせたこと……俺は忘れないからな?



「まぁ、ウチがおればそんな危険なもんも無効化したるけどな」

「出来るのかよ?」

「当たり前やん。ウチを誰やと思ぅてんの? ウチやで?」


 いや、一切心に響かねぇよ。


「ウチな、この世に大っ嫌いなもんが二つあんねん」


 魔女のような大きなとんがり帽子を深く被り、レジーナが低い声で呟く。


「目の前で苦しんどる人を助けられへん自分の無力さと――」


 短く息を飲んで、清涼な声で言う。


「――『好きな人と二人組作って』っちゅう、公開処刑や!」

「そっちはどうでもいいな!?」


 つか、お前はどこでそれを言われたんだ?

 学校にでも通ってたのか!?

 この世界に『体育』とかないよな?

 運動会もなかったんだしよぉ!


 相変わらずのしょーもなさを発揮するレジーナ。

 ふと見れば、マーシャもジネットもくすくすと肩を揺らしていた。

 張り詰めていた重苦しい空気が色を変えた。


 さすがだな、レジーナ。

 自分の身を切って人の心を救うなんて、そうそう出来ることじゃない。


「お前のボッチは人を救うな」

「せやろ? 下には下がおる思ぅたら、人は強ぅ生きれるもんや」


 それはそれでどうなんだって気もするけどな。


「おっ、もう乾いたみたいだね」


 メドラが腕に塗られた薬を指で突く。

 カラシ色だった薬は、白っぽい水色に変化していた。


「せやね、もうえぇやろ。思いっきり『べりぃ~!』引っぺがしてんか」

「思いっきりだね。……ふんっ!」


 メドラが気合いと共に、腕を覆っていた薬を引き剥がす。

 スパイ映画で、別人に変装していたヤツがマスクを剥がすシーンに似ている。あの質感、あの音。


「おぉ……っ!」


 そして、固まった薬を剥がした下から出てきたのは、シミ一つないつるつるつやつやの綺麗な肌だった。


「痕が一切残ってないよ!?」

「いや、さすがにそれは効き過ぎじゃね!?」


 火傷を負ってたよな!?

 痕が消えるにしても、もうちょっと時間かかるだろう、普通!?


「あの火傷みたいな痕はな、実は細菌やねん」


 火傷じゃなかったの!?


「放置しとくと、体に根ぇ張ってホンマの火傷になってまうんやけど、根ぇ張る前に対処したら綺麗に剥がれ落ちてまうんや」


 いやもう、よく分かんねぇ!

 細菌だけど、体に根を張ると火傷になる?

 なにそれ?

 どんな原理だよ!?


 まぁ、人体に寄生して記憶を喰らう魔草とかいるんだし、そういうのもいるのか……

 けどまぁ、なんにせよ――


「よかったな、メドラ。痕が残らなくて」


 メドラといえど、一応は女性だ。

 肌に醜い痕が残るのは、やっぱいろいろと悲しかったりするだろう。

 綺麗になったならよかった。


「うん! これで、ウェディングドレスも着られるね!」


 それはどうか知らないけどな。

 あ、すみません、こっち見ないでくれますか?

 管轄外ですので。


「マグダさんも、綺麗になりましたね」

「……元通り」


 マグダの指先についていた火傷の痕も綺麗になくなっていた。


「痛みはもうないのか?」

「……まったくない」

「そうか」


 よかった。

 本当によかった。


「自分が、流水であの細菌の活性化を防いでくれたおかげやで。もうちょっと根ぇが深くなっとったら、多少は痕が残ってもぅとった思うわ」

「そっか。効果があったならよかった」


 俺が水をかけようと思った理由とは随分と異なるが。

 ……結局、あの小瓶の中身はなんだったんだよ。まぁ、聞いても分からないんだろうけど。



「それでは、エステラさんに伝えて参りますわ」

「悪いな、イメルダ」

「いいえ。スチュアート・ハビエルの娘だからこそ、領主たちが話しかけてきにくいのですわ。他の方でしたら、取り囲まれて状況の説明を求められましてよ?」


 確かに、イメルダを囲んで「どうなっているんだ、教えろ!」なんて出来ないよな。

 背後にムッキムキの怖ぁ~いお父さんがいるんだから。


「あぁ、そうだ。イメルダ」


 狩人と木こりにがっちりとガードされながらエステラのもとへ向かおうとしていたイメルダを呼び止める。


「エステラに伝えといてくれるか」


 ついでの伝言を頼む。

 ちゃんと伝えてくれよ。



「『しばらく泳がせる』ってな」



 こんなことを仕出かしたヤツと、こんなことをさせたヤツを、許すつもりは毛頭ねぇからな。






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