第十九話

 後日叔父は母親に電話した。弟の異常性について相談するためだ。半信半疑だった母は自分の趣味である分厚い園芸の書籍を本棚から抜き出し、一〇分間だけ弟に読ませた。ちょっとしたテストのつもりだった。それからランダムに開いたページに掲載されている花の名前を伏せて答えさせる。弟はすべての花の名前を言い当てた。百種類以上の問いに正答されたとき、母は上気した面持ちで我が子を見つめた。「天才だわ」と言い放つ彼女の瞳は、どこかいつもと違っていた。

 それから毎週末僕らは車に乗せられ、父親の知り合いづてに紹介された町の中にある大学病院に連れていかれた。僕は弟が研究室のなかにいるあいだ院内の託児施設で遊んでいるだけだったけど、弟はそのときに多種多様な試験を受けていたらしい。星や波の描かれたカードを何枚も暗記させられたり、ずっと妙な帽子をかぶせられて脳波を測定されたりした。

 彼はまた試験すべてで正確な回答を提出した。職員たちは神のお告げを聞く信徒のように、弟の答えを聞いては喜んだ。

 病院の帰りは構内にあるレストランで、僕らきょうだいは報酬としてミートソーススパゲティを食べさせてもらえた。僕は自宅よりも病院はオモチャがいっぱいあって好きだったし、弟もそのご褒美めあてに病院通いを嫌がらなかった。いくら弟が大人たちに特別視されようと、くちもとをソースで汚す彼は大事な僕の弟なのは何も変わらない。僕にとってそのことを確認するための時間だったのだと今にして思う。そのあいだ、母親は美味しそうに食べる僕らをやわらかな視線で見つめていた。


 弟が小学校にあがるころ、彼は病院通いを辞めたいと自発的に言い出した。彼の心中に何が起こったのかは知らない。僕もそのころ休みの日に友だちと遊ぶ方が楽しくなり行かなくなっていたから、彼の意思を尊重すべきだと母にも申し立てた。母さんはいくらか不満げだった——せっかくの我が子の才能を無駄にしてはいけない、と思ったのかもしれない。結局のところ、友達と遊んでも構わない、だけど平日は学校が終わったらまっすぐ家に帰って一緒にお勉強をしましょうと母は提案し、弟はその条件を呑んだ。彼は学習意欲が強い子供だったから願ったり叶ったりだった。母と子のその習慣は部活動に加入するのが必須となる中学生になるまで続いた。


 僕らが少しばかり年をとって、弟が子供から少年といえる体格を身につけたころ——彼が自分の頭の中について、一個の部屋のようなものだよ、と教えてくれたときがある。

 ほとんどの人々は体験した記憶およびその内容について、当然のごとく一冊の本にしたためている。それらは本棚にきっちりと収められ、必要なときは取り出してページを開き、その情報を確かめている。奥の方に置かれて放っておかれた本はいつしか存在すらしなかったようになる。それが「忘れる」ということだと弟は語った。

 だがしかし、弟の裕喜は違った。彼の場合、その部屋の中をソファや机の上でも関係なく剥き出しのページが貼り付けられている。寝転がろうが逆立ちしようがどうしてもすべてが目につく位置にある。文字と文章は日を追うごとに増えていき、自分は常にそのページ一枚一枚を読み続けているのだと教えてくれた。僕は弟が彼の自室である六畳間で、びっしりと活字え閉められた紙束の中を泳いでいる姿を想像した。

「整理するためのバインダーが必要だな」僕は軽口を叩く。何が面白いのか、弟はニヤニヤと笑う。

「翼がおれにまたがって技をかけたときも、憶えているぜ?」

 と裕喜は憎まれ口を利く。ばつが悪い気分になって、形だけでも反省の意向を示した。きっとそのときプロレスか格闘技の中継でも観ていたのだろう。あの頃の僕は弟に対して暴力をふるうのは年長者の特権だと思っていた。

「でも、そんな痛みも、しょっちゅう見続けていると、何も感じなくなるものだよ——そういうものなんだ、ってね。何もかも受け入れられる。世の中うまいことできていて、常識の範疇からズレた出来事はそうそう起こらない。『罪を憎んで人を憎まず』さ」

 あるいは、だからこそ彼は一心に何かに打ち込むのに対して——冷めた視点を崩せなかったのかもしれない。年頃のこどもが夢中になるテレビアニメにも関心を持たず、人付き合いも一定の距離感を保ち、自分の知り得る範囲では好きな女の子もいないようだ。きっと弟は自分の特性を見つめる上で——何事にも動じない、相対的な判断力を身につけたのだ。

 彼は自身の能力を自覚していた。いつだってテストで満点の答案用紙を持ち帰っては母親を喜ばせた。全国で開かれたスピーチコンテストでは持ち前の記憶力を遺憾なく発揮した。淀みない彼の言動や振る舞いは審査員の心を響かせ優勝の運びとなる。弟は知る人ぞ知る「神童」としてその名をを広ませた。

 一方で、僕はこんなふうに考えていた——すなわち、その部屋とやらは無限なのだろうか、と。起こった出来事の情報すべてを保管できるような空間なんてものがどうしても僕には想像できなかった。

 あるいは、彼の言うところの『常識の範疇』から逸脱した出来事が起こるとすればどうなるのだろう。真っ白な部屋の壁紙が経年劣化で黄色く変色するのは想定の範囲内かもしれない。だえど壁紙が、例えば突然誰かの血飛沫で真っ赤に染められたら。それでも何事も起こらなかったような顔で、以前と同じように毎日を暮らせるのだろうか。

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