漆黒の悪魔

 私はなぜか馬車の天井に頭をぶつけてしまった。衝撃で一瞬目が回る。でも。これは痛みによるものだけではない。まさか……客車が横転して。そのまま地面を転がってる……!?


「!!」


 私たちは声も出せぬまま、激しく揺れる馬車の中で転げ回った。地面に叩きつけられた窓ガラスの砕け散る音があちこちから聞こえてくる。破片に触れたら危ないと頭ではわかっているけれど、それを防ぐ手立てはない。


 どうやら馬車は、横転したまま馬に引きずられているようだ。地面の上をガラガラと異様な音を立て倒れた客車は進んでいく。しかし馬車とをつなぐ部品が壊れたのかふいに動きが止まった。馬のいななきと足音が遠ざかり、やがて沈黙が訪れる。


 馬に置き去りにされたらしい私たちの客車はようやく止まった。


 先程までのなごやかな雰囲気が一変。今まさに自分の身に降りかかったことが信じれず混乱してしまう。でも、次第に体のあちこちかが痛み出して、今起きたことを信じるしかないんだと思い知らされる。


 とりあえず二人の無事を確認しないと!


 私はありったけの勇気を振り絞り、固くつぶっていた目を恐る恐る開けた。身を起こし、そこに座る。すり傷や痛みはあるけれど、身体は動く。馬車のだいぶ後ろまで転がされてしまったようだ。でもよかった。すぐ隣には、同じように起き上がろうとしているラーテルさんと。あと、真っ黒に薄汚れてしまったレトが、フサフサの長い毛の白いしっぽをぶるぶる震えなさせながら座り込んでいる。


「二人とも、大丈夫!?」


「ええ。なんとか。大きな怪我はなさそうですわ」

「うう。ふえええぇえ」


 一番年下のレトは恐怖からか泣き出してしまった。ラーテルさんと私は、彼女を励ましつつ身体を注意深く観察する。よかった。彼女も骨折などの大怪我はしていないようだ。


「一体何が起きたかわからないけれど。とにかく、馬車から降りましょう!」

「そうですね!」


 ラーテルさんが、くしゃくしゃになった髪を手ぐしで直しながら、同意してくれた。レトは相当ショックを受けているようで声は出せないけれど、小さくうなずき返す。とりあえず私とラーテルさんは両側からレトを支え、座席であった場所を乗り越え、扉の辺りまで移動した。


 馬車は横倒しになっているようだ。御者がいない馬車だったから急時に馬を制御できなかったのだろう。


 車内は足元には座席、頭上に扉が見えるような状態になっている。私は横倒しになった座席の上に立ち、レトを抱えたまま、片手を馬車のハンドルにかけて内側から押し開けようとした。でも、重くて開かない。もう一度! ううぅん! びくともしない。まさかドアが衝撃で折れ曲がってしまったとか!?


「一緒にやりましょう」


 ラーテルさんが力を貸してくれる。私の手に自分の手を重ね、思いっきり押し上げる。うわ! 華奢なのにすごい力だ。ギシギシと嫌な音を立てながらも、なんとか馬車の扉が向こう側に開いた。


「急いで外へ!」


 ラーテルさんの声が震えている。彼女も本当は怖くてたまらないのだろう。私だってそうだ。一人ならその場で恐慌状態に陥って泣き崩れていたかもしれない。頼れる誰か、大人はいないけれど、でもラーテルさんやレトが一緒にいる。みんなで助かりたい。その思いだけでなんとか動けている。もしかしてラーテルさんも同じなのかもしれない。


 私たちはとりあえず荷物をそのままに、震えるしっぽや両手を必死に使い、身体を支え、外へと這い出した。馬車の側面に乗ったまま辺りを見渡す。


 やはり馬車は森を抜けたようだった。目の前には月明かりに照らされ、木々がまばらに生える草原がずっと向こうまで広がっている。背後には、横倒しになった馬車が引きずられた跡が十数メートル近く、飛び出した私たちの荷物や、割れた窓ガラスの破片を撒き散らし、草原にむごたらしい爪跡を残している。


 二頭の馬車馬も、馬を襲った何かも、周りにはいない。とても静かだ。でも戻ってきたら大変なことになる。一刻も早くこの場から離れないと。


「ここから離れましょう」


 ラーテルさんが言った。彼女も同じことを考えていたんだろう。顔を伏せて震え続けるレトの肩を抱き、


「レトは私がおぶっていきます。アーミーあなたは」


 聞かれて、強く頷き返す。


「私は大丈夫。走れますから!」


 答えると、ラーテルさんがホッとしたような表情でうなずく。それではと立ち上がろうと中腰になった、まさにその時だ。


 ずっと向こうの方から、今まで聞いたことのないような不思議な音が鳴り響いてきたのだ。


 私たちはお互い不安気な表情を浮かべながら、口を閉じたまま視線を合わせる。


 それはまるで調子外れな歌を歌っているような高い五つの音の組み合わせだった。でも楽器の音色ではない。ましてや生き物の鳴き声でもない。感情のかけらも感じない耳障りで不気味な音。


 その音の正体を探ろうと辺りを見渡す私たちの視界を、真っ黒なものすごく大きな塊が、恐ろしいスピードで横切って……馬車から数メートル離れた岩に激突した。耳を覆いたくなるような激突音と共に、塊が悲痛な叫び声を上げる。


「ヒィイ」


 レトが小さく悲鳴をあげて顔を伏せた。私たちも顔を上げられない。だって……確認しなくてもわかる。今のはおそらく、六本の足を持つ大きな馬車馬の変わり果てた無残な姿にちがいないからだ……。


 あのような大きな馬を一撃で吹き飛ばす何が、潜んでいるということ!?


 心の問いに答えるかのように数十メートル離れた馬車道の脇に生えた木かげから、またあの音がした。私とラーテルさんは顔を見合わせて、ゆっくりとそちらを振り向いた。


 そこには月明かりを浴びをぬらぬらと反射させる、見たこともないような大きな巨人がいたんだ。


 大きさはというと、私たちの乗っていた馬車よりも大きい。ちょっとした小屋くらいはありそうな大きさだ。そして奇妙な形をしている。逆さにした円錐形っていうのかな。そう。コマのような形をしている。


 コマの上に乗っているのは頭なのだろうか? 一抱えほどの大きな黒色のボール状のものが胴体の上に浮いていて、肩のあたりから両側に生える腕は奇妙に長く、垂れ下がり地面について折れ曲がっている。


 その手の平に指はない。ただトンカチの頭のような拳がついているだけだ……。


 あれは一体なんなんだろう。そこに存在し、確かに動いているのに、命というものを全く感じない。見たこともない異形の存在に、私たちは声も出せず、ひたすら固まってしまった。


 と、その時。



 騒ぎに目が覚めてしまったらしい。一羽の鳥が、甲高いさえずりを上げ、奇妙な物体のすぐ横の木から、空へ飛び上がった。


 途端! それまで静かに浮いていたその奇妙の物体の頭部に丸い光が点灯した。それはぐるぐると周りだし、垂れ下がっていた腕が、恐ろしい速さで上へ上へと伸びていく。まさか鳥を! 今しがた逃げた鳥を追っている!


 キィイイイイ!!


 私は目を閉じて耳をふさいだ。あっという間に静寂がまた訪れる。


 恐怖にカチカチと歯を鳴らしながら目を開けると鳥の姿はなく、ただ闇の中に白い羽毛だけがひらひらと舞っているのが見えた。


 ひどい、ひどすぎる! さっきの馬車馬も、ハンマーのようなあの腕で、今の小鳥のように殴り殺したに違いないんだ。


「どうしましょう……」


 地面に地響きを立て、だらりと怪物は腕をおろした。その様子を泣きそうな表情で見つめながらラーテルさんがかすれるような声でささやく。私だってどうしたらいいのかなんてわからない。でも、でも……。


 ヤツの頭から虹色の光が消えた。先ほどと同じただの黒い塊となり、静止した姿を呆然と見つめながら、私は、あることに気がついた。


 もしかして。あの怪物は身の回りの動くものに反応している?


「もしかすると、ヤツは動くものに反応しているのかも。走る馬、飛ぶ小鳥……」


 ラーテルさんが私の言葉に、小さく、あっ、と声を上げた。そして深く何度もうなずく。


「確かに、なるほど、言われればそうですね」


「だからここでひたすらじっとして。ヤツが動く何かに反応してこの場から離れたその時、私たちも今来た森を目がけて逃げれば」


 ここは草原。身を隠すような場所はないが、森であれば木の上や木陰など、身を隠す場所はたくさんある。今来た馬車道を振り返る。全速力で走ったとしても五分以上はかかりそうだ。だいぶ怪物と距離を取る必要がある。そんなチャンスが訪れるだろうか。そんなことを思案している私の髪を、草原を吹き渡る夜風がさらった。


 ざあっと一斉に、辺りの木々、草花が音を立てて揺れる。一緒に辺りに散らばった私たちの荷物、メモ帳や、ちり紙、何かの布切れ、そして……小さな古びた冊子を満月の浮かぶう夜空へ巻き上げた。って月明かり映えるあの小さな冊子は!


「あ!」


 ラーテルさんが胸が痛くなるような声を上げた。あれは多分、彼女の形見の刺繍の図案集だ! 夜空に舞い上がりしばらく空を漂ったそれは急降下し、こともあろうか、パサりっとあの怪物の目の前に落ちたのだ。


 もちろん、怪物が反応しないわけがない。虹色のランプが点灯し、先ほどのようにぐるぐると回り始める。


 取り返さなきゃ! という気持ちと、でも怖い! という気持ちが私の胸の中で同時に沸き起こり、お互いを牽制しあった。一度胸に手を当て落ち着いて考える。魔法を使ったら、スーザンの時みたいにまた二人にも嫌われてしまうかもしれない。弱気になる自分に、私はもういちど問いかける。


 もしもあれが私のペンダントだったらどうだろう。私はあきらめられるだろうか? 


 ぎゅっとペンダントを握りしめる。……分かりきっている。答えはNOだ!


「ラーテルさん、レトをお願い!」


 私は抱えていたレトをラーテルさんに押し付けた。


「アーミー何を!?」


 色を失い、今にも泣き出しそうな彼女の肩を一度ぽんと叩くと、私は自分の両手をパチンと合わせて呪文を唱える。


「ライトニング・スピード!」


 びりっとした感触が足を駆け抜けるやいやな、私は馬車を飛び降り怪物に駆け寄った。やはり動くものに反応するようだ。駆け寄る私に反応し、一瞬ヤツの注意が冊子からそれた。今がチャンスだ。この隙に拾い上げられればいいのだけれど!


 って、そうだ! 今さらながらに思いつく。やったことないけれど、何度か魔法をかけ直しつつ走れば、馬車からヤツを引き離すことだって、できるかもしれないじゃないか!


 そのまま回れ右して、逃げ出したい気持ちと戦いながら、私は得体の知れない怪物のすぐ足下へと走り続ける。



 冊子に手が届くまで、後、三秒、二秒、一秒! 



 私は怪物の目の前で立ち止まり、一度軽くしゃがんで。冊子を拾い上げた。


 怪物が先ほどと同じ、私を叩き潰そうと腕を振り上げる。手を振り上げている間に逃げれると、算段をつけていた私は、そのまま右に避けようと身を翻したのだけど……。


 う、嘘でしょ!?


 怪物は振り上げた腕を、振り上げきる前に、急に振りおろした。 え!? しかも速度が徐々に上がってる!?


 これじゃ、逃げきれない!!


 ラーテルさんの叫び声。レトの泣き声。そして何かガチャガチャとぶつかり合うと音?


 でもそれを確かめるすべはもうない。私はこれから訪れる強烈な痛みに恐怖しながら、固く固く目をつぶり、ただただ最期の時を待つしかなかくて……!

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