14


 目を開ける。

 空は殆ど藍色に染まっていて、わずかな極白の光が山間から漏れ出ていた。

 その僅かな光まで吸い込まれるように消えていくのを見ながら、声をかける。

「――本当に来ないのかと思ってヒヤヒヤしたよ」

「悪い、寝坊したんだ」

「その状態で言われるとなんでも許したくなっちゃうのズルいね」

 洛陽の寸前に現れた弟子に、シオンは立ち上がって笑いかける。

「さて、本題に入る前に何か聞きたいことはある?」

「大人しくやられてくれる気は?」

「私にあったとしても私の中身にはないから無理だよ」

「そうか……じゃあ、〈黒の使徒ベクター〉ってどんな気分なんだ?」

「……全くもってデリカシーのない質問だらけだね。けど答えてあげましょう」

 シオンは誠実に、けれどように慎重に答える。

「〈黒の使徒〉になるとね、まず破壊衝動に思考を支配されるんだ。めちゃくちゃだよ。目に映るもの全てが憎くて堪らなくなる。なんでアレは綺麗なままなんだろう、私はこんなにも黒く染まってるのに、って」

 頭の中はずっと、嵐が吹いていた。

「衝動を抑えるために自分で自分を殺してみても手応えがない。そうしてすぐに再生したら飢餓感はさらに増している。無間地獄だよ」

 心の中はずっと、渦を巻いていた。

「――それでも耐えたんだよ、五年間も。どうしても耐えられない時は自分で自分の身体を弄くった。景色を見ないために頭蓋を砕いて、心を鎮めるために心臓を握りつぶして、飢えを消すために臓物を掻き回した」

 シオンは笑う。

 けれど、気づいていない。

 その目尻から、

 鼻腔から、

 口端から、

 耳朶から、

 黒い泥が浸み出していくことに。

 外套の下からも泥は垂れ流され、彼女の足元に黒い染みを作っていく。

 対してヴィルは一歩も踏み出せない。手を伸ばすことすら許されない。

 隔たりは、そのまま二人の距離だった。互いの心の。

「そんな感じかな。他には何かある?」

 ヴィルは先ほどの質問については何も言わず、新たな問いを投げる。

「三週間前、ヒイロにちょっかいかけたのは結局、師匠だったんだよな」

「ああ……まぁね。おかげで二週間以上も棄民街ネクロポリスで自制するハメになったよ」

「いや、実を言うとこれ以上ないってくらいのグッドタイミングだった。なんせ監視の目が機能停止してる最中だったからな。今もまだ停止中だし」

「へえ、正直見つかってからの正面突破も考えてたのに拍子抜けだなとは思ってたけど、そうだったんだ」

「それも領主が俺とメリーたちをもう一回くっつけるために職権乱用したせいでな」

「あっはは、なにそれ」

 心の底から笑い、拭った涙が黒いことを、シオンはもう気にしなくなっていた。

「ああ、楽しいなぁ。本当はもっと旧交を温めたいところだけど、そろそろ本題に入ろっか」

「ん。何か言い残すことは?」

「こっちのセリフだよ、それ」

 軽口をたたき合いながら、どちらともなく円を描くように歩き出す。

「これでもここまで長旅をしてきた師匠を労ってるんだ。だから――」

「確かに道のりは長かったけど、あと少しで終わるんだ。だから――」

 杖の先に取り付けられた〈制玉〉が光を放ち、風を起こし始める。

 足元の影が広がっていき、指向性を持った泥が這いずり出でる。

 日没。

 藍の帳が落ちる時、五年越しの邂逅に、二人は告白をした。

「――――私と同じモノになって」

「――――せめて俺が殺してやる」

 

 花の魔女と、風の王が激突した。


 ◇


 同時刻。

「待っ……てっ……こらぁぁぁあっ!」

 薄闇の中、木々の陰を縫うようにして走り回る黒影を追い、捉えると同時にぶった切る。

 何匹を泥に還したかも覚えていないけれど、ヒイロはただ叫ぶ。

「めっちゃくちゃ、数がっ、多いんですけどぉ!」

 ヒイロたちは一足早く、怒涛のように襲い来る〈泥被り〉を相手にしていた。

 主戦場は領の関門と居住区のちょうど境目。人の営みがギリギリ感じられる程度の自然環境だった。【大侵蝕】でも特に被害が少なかった区画のため、ほとんど何も整理されていない森や畑が乱立しているのだ。戦いにくいことこの上ない。

 そして〈泥被り〉はただ剣で斬るだけでは死なず、魔法をぶつけるくらいしか有効打がないため、囮役の剣士ととどめ役の魔法使いでペアを組んで当たるしかない。

 だが、この暗闇に〈泥被り〉の量。

 群と当たれば十歩歩かないうちにぶつかるような場所に何匹もいる。

「これじゃ取り決めた役割も配置もぜったい意味ないって!」

 ヒイロ自身は〈黒の侵蝕〉特攻とも言える〈不毀ノ器〉を持っているため一人で遊撃を続けられていたが、流石にまずい状況なのではと思ってしまう。

 けれどできるのは〈泥被り〉を倒すことのみ。

 人の怒号と獣の咆哮が混じり合う中、耳を澄ませて浮いた標的を狙い、走り出す。

 段々と慣れてきた夜目で眼前を横切る僅かな輪郭を見逃さず、研ぎ澄まされていく聴覚で柔草を踏む足音の種類を聞き分ける。

(もっと、もっと速く……)

 一匹斬り捨てれば消えるのを確認することもなく次の獲物へ向かう。

(ししょーはもっと速かった!)

 大混戦も大混戦、流石にまずい状況なのではと思いながら戦っていたヒイロだが〈泥被り〉の量は着実に減っていた。

 それもそのはず。

 元よりここにいるのは冒険者。統率が取れる方がおかしい。

 個々の力、想い、欲望に任せて戦った結果、混沌とした状況でも攻勢に傾いていた。

 だが、異常事態イレギュラーは冒険者の依頼において常なるもの。


『GAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!!!』


 轟く咆哮に大気と木々が、鳴らす脚に大地が揺れる。

「《電果よ実れエレクトロベリー》!」

 メリーがとっさの反応で空に雷の光球を放ち、闇の帳が裂かれた。

 そこにいたのは

 泥に塗れた異様が威容を誇って吼えている。

「二体目が見つからなかったのはそういうこと……」

 ヒイロは思わず頬を引きつらせるが、一秒後には地竜めがけて駆け出していた。

 アレは普通の人にどうにかできるものではない。

 ヴィルとやった時のように《ソーマ》を切り裂いて一撃で沈めるしかない。

 ただ目前の敵を倒すため、ほかには何も考えていなかった。

 あの時倒せたのがシャリゼの〈赫刃の腕〉で動きを止めていたことと、意識外からの一撃であったことはヒイロの思考に含まれていなかった。

 地竜の左後方、死角から一気に躍り出て《ソーマ》を狙う――それが最大の誤算だった。

 地竜は地中での生活がほとんどであり、視覚機能をほとんど使わず他の機能で外界の存在を知覚していた。

『GUGAAAAA!!!!』

 地竜が吼えて低く腰をひねる。

 見る者が見れば、その動きは蠍を連想したことだろう。

 次の瞬間、ヒイロは地竜の背後から突如現れた尻尾に真正面から叩きつけられていた。

「がっ――――は」

 地面を何度もバウンドし、転がっていく。

「ヒイロ――――――――!」


 遠のく意識の中、自分を呼ぶ誰かの声が残響のように聞こえた。


 ◇


 少し遡り、ガルジャナ山の麓。

『GAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!!!』

 地竜の咆哮はこちらまでも届いていた。

 ビリビリと鼓膜を震わしたが、ヴィルの脳内ではなかったことになっているだろう。

 人間、認識の許容量には限界がある。

「あっははははは! ほらほら、もっと近くで見てもいいんだよ?」

「その花クサイんだよ! もっとマシな造花持ってこい!」

 姿が霞むほどの高速でヴィルが飛行する。

 対照的にシオンはその場から一歩も動かず、代わりに影から伸びる茎や蔦が追随する。

 躑躅ツツジ蓮華レンゲ三角草ミスミソウ百合ユリ薔薇バラ――その他にも多種多様な花が次々に咲き乱れては風に煽られ散っていく。

 散った花弁が地面にはらりと落ちれば、それはドロリと液体のようになり消える。

 それは花、茎、蔦、葉、根、種、そのいずれもが黒い泥で構成された狂気の花園。まさに〈花〉という二つ名を体現するような芸当。

「っ……《風穿ペネトレイア》!」

 けれどヴィルは花々の網をかいくぐり、針穴のような隙をついて風の槍を放つ。

 ヤワな花など食い破ってシオンの心臓に到達しようとしたその瞬間、黒い壁に阻まれた。

「惜しかったねぇ。それじゃあ、こっから本番だよ」

 遊びのように笑うシオンの周囲を、大きな六つの黒塊が舞う。

 壁だと思われたのはこの黒塊だった。

「《イデア》でもねえのに自前の魔法まで使うんじゃねえよ」

 ヴィルが苦い笑みを浮かべながら吐き捨てる。

「《イデア》はこの身体になった時どこかに行っちゃったよ。それに〈黒の侵蝕〉だって虚式とはいえ本質的には魔力塊なんだから、使えない道理の方がないでしょ?」

 そう言って、笑みを深めるシオンの目尻と口端から黒い泥が溢れるのを見て、ヴィルは目を眇めた。

 本来、これこそシオンが〈花〉と呼ばれた所以。

 先ほどの泥で作ってみせた花々は生前の技ではないし、これに比べれば児戯に等しい。

 あの黒い塊は生前の物なら陽に透けて虹色に光り、幻想的な花弁のように見えていた。

 その本質は魔力が実体を持つほどに濃く集め、それを六つまで分割し、己が意のままに操る技能。舞う魔力塊が花弁のように見えたからこそ〈花〉という異名がついた。

 シオンの魔法を見た魔法使いは皆口を揃えて『人間業じゃない』と言った。最終的に人間でないものになってるのだから妥当だなと、ヴィルは心の中で笑う。

 花弁は瞬きより速く動き、意匠の剣より鋭く切れ、城郭よりなお堅い。

 ヴィルはシオンとの手合わせで、三枚以上に太刀打ちできた試しがなかった。

 けれどそれは五年前の話。

「それなら俺も本気を出さないとな。――魔力充填・全速発進ブースター・イグニッション!」

 ヴィルの声に呼応して〈制玉〉の光が極限まで上がり、シオンの視界を純白に灼く。とっさに花弁を前面に重ねて視界を塞いだ次の瞬間、横薙ぎの一振りで花弁が破壊された。

 砕け散る花弁の合間からこちらを見据えるヴィルにシオンの表情が驚きと喜びで染まる。

「まさかそれ、ヴェストリカの星霜結晶? すごい、ホンモノは流石に初めて見た……じゃあんだ」

「この日のために貯めておいた物だ。お望み通り、出し惜しみなしの全力でやってやるよ」

 不敵に笑うヴィルにシオンは子どものように笑み、恐ろしいことを言ってみせる。

「じゃあそれ破壊したら少年は大ピンチってことだよね」

「……っ!」

 ヴィルはほとんど反射で上空に飛んだ。

 花弁が頬を撫ぜていき、鮮血が流れ出るのも気に留めず、ヴィルは極限状況で引き延ばされる時間感覚の中、思考する。

(……〈制玉〉が狙われているのなら、狙っているところを狙い返せばいい!)

 他者が何かを狙っている時こそ狙い目、勝負事に生きる者なら誰でも知っていることだ。

 狙うは後のカウンター。ヴィルは再び刹那の世界に身を投じ、生死の狭間で踊り続ける。

 上下左右も無く、限界に挑み続けるように花弁をいなす。

 どこからどう飛んでくるかなど、もはや読んですらいない。シオンと過ごした四年間の間に無数に手合わせした際のクセの感覚を無意識で引き出し、対応していた。

 それでも身体能力と反射神経の限界により少しずつ、だが確実に切り傷を負っていく。

 安静にしていればどうということはない程度の傷。けれど、高速で動き続ければ血煙を上げ続けることになる。

 無限にも思える攻防を続けた果て、ついにシオンが動いた。

「ここッ!」

 杖が視界から外れるタイミングで身体を逆に回転させ、杖を胸元に手繰り寄せた。

 そのまま反撃に――

「はい、引っかかった♪」

 腹部に衝撃。痛み以外の感覚が吹き飛び、気づけば山の中の方にまで吹っ飛ばされていた。うずくまり、血へどを吐きながらヴィルは愚かすぎた自分の過ちに気づく。

(……〈制玉〉狙いだと読んで逆回避したところを狙って来やがった)

 後の先カウンターではなく対の先さきよみ。シオンはヴィルが読んでくることなど当然と判断して、そのさらに先を行っていた。

 身体のどこかしこも痛すぎてどこが折れているだとかわからない。全部折れていると言われても信じてしまう痛さだった。

 動けないヴィルに対し、シオンは悠々と大きな黒薔薇の中に乗って運ばれてくる。

「ほら少年! 深呼吸、深呼吸ー!」

 遠くから声を上げるシオンの言葉通り反射的に息を吸って、ヴィルは口元を押さえた。

 強い酩酊感に襲われる。

 それから十秒もしないうちに今度は頭痛と目眩がやってきて、血混じりの咳が出始める。

「あっはは、魔花の世界へ行ってらっしゃい。起きたら一緒だよ、少年」

 視界がぼやける。いったいどんな憎たらしい顔をしているのかすらわからない。

 そして、ヴィルは成すすべなく意識を暗闇へと手放した。


 ◇


 温かな光を感じて、ヒイロは目を覚ました。

「んぁ……あぇ……? はっ⁉︎」

 とっさに飛び起きて、理解する。

 そこはいつだかに訪れた真っ白な空間だった。

「早く戻らないと……!」

 立ち上がろうとして、目に入った影に思わずうめき声が出た。

「うっ、うっすい」

 足下の影は信じられないほど色味が薄い。

 今にも消え入りそうで、灰色を通り越して空間の白と同化しかけていた。

 この影がある限り死んではいないといつだったかモヤの人は言っていたけど――

「うん……?」

 ずっと遠く、黒い円の近くに誰か人が立っている気がする。あれは――

「ししょー……? と、もう一人?」

「気のせいだろう。気にすることはない」

「おわぁっ⁉︎」

 声のする方を見れば以前と全く変わらない様子でモヤの人が立っていた。

「ひ、久しぶりですね……」

「そうだな。こんなにも早く再会するとは俺も流石に予想できなかった。俺個人としては嬉しくもあり、悲しくもある」

「いや全く感情のこもってない表情かおと声でそんなこと言われても……ってそうだ! あの、わたしのこれっ、この影って」

「察しの通り、君は今死にかけている。《イデア》でなければ確実に死んでいただろう」

「あの、ここから出してくれませんか。わたしすぐにでも戻らないと……って、ん? イデアって言いました?」

「言ったとも。君は《イデア》では無くなっている」

「――――――――はい?」

「先ほど、君を衝撃から守るために魔力を使いすぎた。俺の残存魔力では君を《イデア》に維持ことができない」

「えっ、いやちょっとまっ……色々分からない! ちょっと待って! 《イデア》に維持ってどういう意味ですか!」

 混乱して頭をかかえるヒイロに、モヤの人は変わらず諭すように語る。

「そのままの意味だ。君の《イデア》俺の残存魔力で維持している。素の君は臆病で内気で優しい性格だ」

「な……何をおっしゃっているんです…‥?」

 ヒイロが怪訝な顔で訊ねると、モヤの人は考え込むような素振りを見せ、それから問いを投げかけてきた。

「もし、今すぐ自力で《イデア》になれる可能性があるとしたら、君は試すか?」

「え、そりゃ、はい」

「ではもう一つ。君は以前、俺の正体を知りたいと言っていたが、今も変わらないか?」

「変わらないですけど……」

「わかった。ならば俺に託された最後の役割を全うするとしよう」

 突然モヤの人が不穏な言葉を口にした。

 同時に、空間そのものが白み始める。

「最後の役割? っていうかその二つの質問にいったい何の関係性が?」

「その問いに俺が答える必要はない。代わりに、俺の正体を君に明かそう」

 白む世界の中、そこで初めてモヤの人がモヤの中から現れた。

 ガッシリとした体躯を守る白の甲冑に、赤を基調とした荘厳なマント、そして腰に佩く見覚えのある剣。絵に描いたような、そしてヒイロが憧れたそのままの騎士の姿だった。

 騎士はマントを払い、右手を胸の前に置き、正体を明かす。

「告げる。我が名はコーネリウス・ガルベリアス。現レント領の領主にして、君の父親だ」

「――――――――は?」

「約束を果たせなくてすまない、ヒイロ」

 次の瞬間、ヒイロの世界は暗闇に落ちた。


 別の景色が近づいてくる。

 そこは、豪奢な部屋の一室だった。

 中くらいのベッド。大きなテディベアのぬいぐるみ。飴色の机の上にはラクガキのされた何枚かの紙と、綺麗なジュエルストーンがいくつか転がっていた。

 そこの入り口では小さな女の子と父親らしき男の人が話していた。

『いいかヒイロ、父さんか母さんが戻ってくるまで絶対に部屋から出るんじゃないぞ』

 ――――お父さん。お父さんだ。なんで忘れてたんだろう。

 ヒイロは呆然と、けれど食い入るように見つめる。

 お父さんは険しい顔をしていた。そんな顔を見るのは初めてだった。

 そしてお父さんに小さな肩を抱かれている八歳の自分は今と違って柔らかそうな黒髪で、今より健康で美味しそうなほっぺたをしていた。

 宝石のような瞳に、今にも溢れそうな涙をためている。

『そんな顔をしないでくれ。約束を守れたらなんでも一つ好きなことを聞いてあげよう』

『だったら、ずっと一緒にいてよ……』

『ああ、わかった。ずっと一緒にいてやる』

 そう言って、お父さんは出ていった。

 ヒイロはベッドに戻り、テディベアを抱きしめる。

 瞳からは一筋の涙が流れ、ポツリとつぶやく。

「『今、一緒にいて欲しかったのにな……』」

 過去の記憶と、今のヒイロのつぶやきがリンクした。

 それでもお父さんの言うことを聞いてしばらく待っていると、足音が聞こえてきた。

 タタン、タタタン、タタン、タタ……

 明らかにリズムがおかしい。普通の歩き方じゃない。

 けれど過去のヒイロはパァッと顔を輝かせてベッドから飛び降り、ドアの方へ向かう。

「ダメッ! 開けちゃダメ!」

 ヒイロが悲痛に叫ぶ。だが、過去は変えられない。

 ドアを開けてカーペットの敷かれた廊下に飛び出した過去のヒイロは、そこにいるのが真っ黒な魔獣だというのを理解するのに数秒という致命的な時間を要した。

『GUGYAGUOOOOOO』

 言葉ですらない濁音を発しながら、〈泥被り〉は幼いヒイロへと飛びかかった。

 未知の恐怖に竦んだ八歳の少女がとっさに動けるはずもなく、あっけなく捕まった。

『イヤァッ! お父さん助けっがっ……』

 バキボキという、自分の喉仏が噛み砕かれる音を聞いた。

 それだけでは収まらず、〈泥被り〉は幼いヒイロの顔面を蹂躙し続ける。

 ヒイロは自分が目の前で喰われているという光景に、へたり込むしかなかった

『――――ヒイロッ!』

 お父さんが全速力で駆けてきて、真っ白な剣を抜き放つと同時に〈泥被り〉の首を跳ね飛ばした。

〈泥被り〉の首は黒い体液を撒き散らしながらてんてんと廊下を転がり、身体と共に溶け消えた。〈泥被り〉を斬ったのは今ヒイロが持っている〈不毀ノ器〉だった。

『ヒイロ……ヒイロ……』

 お父さんが、瀕死の自分を抱き上げる。

 上唇と鼻の頭がかじられて無くなり、左目は抉られていた。それでも息はあるようで、か細く息をするたびにヒューと穴の開いた喉から空気が漏れる音が鳴る。

 もはや自分のように思えなかった。けれどお父さんは名前を呼び続ける。

 瀕死の自分が、まだ焦点の合う右目でお父さんを見上げる。そして、不完全な口でパクパクと言葉を発しようとする。

 

 ご・め・ん・な・さ・い


 涙が流れていた。抉れた左目は血涙と混じり、お父さんの手を濡らしていく。

 けど、ヒイロの顔の方が濡れていく。お父さんの涙が顔の上にとめどなく落ちる。

『謝るな。そんな顔をしないでくれ……約束しただろ。父さんはずっと一緒だ』

 お父さんがヒイロの手を握ると、眩い光が放たれた。

 廊下を明るく照らし、ヒイロは思わず目を瞑る。目を開けた時にはお父さんはどこにもいなかった。ただ、お父さんのいた場所に相当量の灰のようなものが溜まっていた。

 幼いヒイロは顔の造形はすっかり元どおりになり、髪と肌の色は真っ白になって灰の中に埋もれていた。

 ヒイロが言葉も出せないまま、景色だけが遠のく。

 次に近づいてきた景色は、桜並木の坂道だった。

 さっきよりもおぼろげで、ただ鼻歌を歌っている女の人におぶられていることしかわからない。女の人は木造建築の前で立ち止まった。マグノリア孤児院だ。

 中から白髪混じりの女の人が現れる。おばあさんだ。

 二人はやり取りをして、ヒイロをおぶっていた女の人がおばあさんに小袋を渡した。なんとなく、アレが宝石類なんじゃないかと、そんな気がした。

 今度は遠のくことなく、浮上していく感覚がある。

 そして次の瞬間、ヒイロの視界は真横に傾いていた。

 薄暗い。前髪にかかる髪の色が違う。頬が冷たい。地面に寝っ転がっているらしい。

 一つ一つ思い出したところで、声が聞こえてきた。必死な、いっそ本人より悲痛な叫び。

「ヒーちゃんっ! 起きてっ!」

 意識が覚醒する。

 自分がさっき何を見てきたのか、覚えてる。

 自分が今から何をやるべきか、わかってる。

「――――ずっと、一緒だったんだ」

 身体を起こす。軋んでギシギシ言っているのがわかる。まるで故障寸前の機械みたい。

 前に視線をやれば、地竜がこちらへ向き直るところだった。時間はそれほど経ってないらしい。

 お父さんはわたしを臆病な性格だと言っていた。けど、今は全く恐怖を感じない。だって、お父さんが一緒だったから。

「《汝、真なる心を捉えよイディアル》」

 ――――、――――、――――。

 傍らに転がっている〈不毀ノ器〉を手に取り、地竜へ向かって歩き出す。

 重かった身体が軽くなっていくのがわかる。髪を手元に持ってみれば白く染まっていた。

(……《イデア》になるたびに身体と髪色が変わるのって変かな)

 そんなことまで考えていた。

『GUGOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO!!!』

 地竜が咆哮をあげ、突進してくる。けれど、

「――――」

 ヒイロはダンスのステップを踏むように軽やかな足取りで、地竜の《ソーマ》を叩き斬った。

 地竜が声もなくくずおれ、泥に還っていく。

 けれど、ヒイロはそんなこと気にも止めず、奥へ走り出していた。

「ヒーちゃん⁉︎ どこにいくの⁉︎」

「行かなきゃ……行かなきゃいけないんです!」


 ヴィルとシオンの元へ、ヒイロは満身創痍の身体を引きずって向かう。


 ◇


「おーい、起きろ寝ぼすけ。このままだと死ぬぞお前」

「んはぁっ⁉︎」

 跳ね起きる。とっさに辺りを見回せば砂埃の舞う空に、どこまでも荒廃した大地、そして後ろの方には巨大な黒い円があった。

「ああ……また来ちまったのか」

 ため息をつきつつ、反対側を見回す。僕も昔はあの辺にいたはずなのに――

「ん……? ヒイロ……? ――と誰かいる?」

「気のせいだろ。それより私のことナチュラルに無視すんなよ」

「うおあああああああああ⁉︎」

 真後ろから声が聞こえたと思って振り向いたら、師匠が立っていて心臓が飛び出かけた。

「なんで師匠がここにいるんだよ! さっきまで殺し合ってたはずだろ!」

「気づくのおっそいなおい……足元見てみろ」

 言われた通りに見てみたら、師匠の足元には影がなかった。それによく考えてみたら口調も違う。つまり、

「イ、《イデア》ってことですか……?」

「そ、理解が早いのは相変わらずで助かるね」

 師匠が座ったから僕も座る。もちろん二人ともあぐらだ。

「でも、なんでここに?」

「ヴィルを助けにきたのさ、ってカッコよく言えればよかったんだけど。まあ単なる偶然に偶然の巡り合わせだろうなぁ」

 師匠は顎をさすりながら適当なことを言う。ほんとに《イデア》の時は男みたいだな。

 僕が懐かしい感覚にしみじみとしていると師匠が親指で後ろの円を指さす。

「ところでヴィル、この門とのありえねー近さはなんなんだ。お前何したよ」

「毎日夢に出てきたんですよ、ここ。最初のうちは殺風景な夢だなあって思ってたんですけど一週間連続で見るのは夢じゃないだろって気づいて、いろいろ調べたら魔力の根源って結論にたどり着きました」

「……ぷっ、あっははははははははは! なんだそりゃ! 毎日精神的に死にかけてたってことじゃんかよ! 棺桶に上空十メートルからダイブするような真似毎日続けてよく生きてんな!」

「ホントですよ。でもまぁおかげで大抵の事は怖くなくなりましたし、魔力の質も量も五年前とは比べ物にならないくらいなので不便はしてません」

 本心を伝えたつもりだったのに、師匠は笑いを収めてしまった。

「……私がいなくなってからか」

 僕は肩をすくめて、返答の代わりにした。

「……ごめんな」

「え、師匠が謝るなんてどうしたんですかちょっと怖いですよ」

「なんだァテメェ……下手に出ればつけあがりやがっておらっ、こらっ」

「ちょっどつかないで痛いごめんなさい! っていうか普通にどつけるの⁉︎」

「そりゃ物質界じゃないところで物質があるように振る舞うんだからどつけるだろ」

「急に難しい話しないでくださいよ! 調子狂うな! あ、いやいつも通りか……」

 そうして、二人で笑い合う。笑いが収まったところで、師匠が訊ねてきた。

「ヴィル、この後どうすんだ」

「どうするっていうのは」

「お前死にかけてんだぞ。危機感持ってるか? このままじゃ良くて死ぬか、悪くて私と同じになるぞ」

「それはイヤだな……イッタ! イヤじゃないでぇす!」

「真面目な話。お前んだろ? なのに終わらせたくなくて、ずっとマゾいことしてんだ。変態かよ」

「……師匠と少しでも長くいられるなら変態扱いされても構いませんよ」

「アホか。私が構うんだ。弟子は変態でしたなんて死んでも死にきれないだろ」

「死んでないじゃないですか」

「私は死んでんの」

 ため息をはく師匠に、僕は訊ねる。

「師匠、三つだけ聞きたいことがあるんですけど、聞いてもいいですか」

「ん、それが一つ目の質問?」

「んなわけあってたまるか」

「わーってるよ。さっさとやってくれ」

 ひらひらと手を振る師匠に一つ目の問いを投げる。

「……師匠は僕を弟子にとって後悔してますか」

「そりゃしてるさ。やった後悔、やらなかった後悔、人間サマの脳みそは優秀だから両方考えちまうんだ。こんな捻くれたやつに育つなんて露ほども思わなかったしな」

 にししと笑いながら僕の額を小突く。

 僕は息を呑んで耐えることしかできず、なんとか震える声で次の問いを言う。

「……師匠はまだ世界を憎んでますか」

「憎ん……でると思う。憎んでなかった頃の世界がどう見えてたかなんて覚えてないし」

 デフォになってんだなと肩をすくめる師匠に、僕は最後の質問をする。

「……師匠はまだ世界を愛してますか」

「なんなんだよこのくっせー質問三連星は! 遺言じゃないんだからさあ!」

 はーやめやめ、さっさと戻れと言って師匠が立ち上がる。つられて僕も立ち上がった。

「でも僕今魔桜にやられてるから戻っても動けませんよ」

「そこに関しては心配すんな。〈花〉と呼ばれた所以のもう一つを見せてやるさ。だから戻ったらソッコーで終わらせろよ」

 僕が頷くと周囲の景色が朝焼けのように白み始める。

 ……これでお別れなのかと思うとなんだか悲しい気がするし、悲しくない気もする。

 まあこんなもんか、と苦笑してうつむく。と、不意に肩を叩かれた。

 顔をあげると、師匠の顔がすぐ近くにあった。

「ヴィル、さっきの答えだけど――」

 抱きしめられる。もう、二度と得られることのないと思っていた感触。

 白む視界、最後の言葉が耳に届く。 


「――――大好きだよ」


 師匠はやっぱり、桜の匂いがした。


 ◇


「ズルいことするよなぁ……ったく」

 意識が戻ってヴィルの口からまず出たのはそんな言葉だった。

 実際ズルいんだから、ズルい。

 ヴィルは軋む身体に鞭打って起き上がり、傍らに転がっていた杖を取る。

 口元の血を拭って前を向けば、ちょうどシオンが坂を上りきるところだった。

 シオンは血みどろの状態で、けれど己を見つめてくる弟子に首をかしげる。

「遅かったな、師匠。休むには充分すぎたよ」

「そ。よくわかんないけど……とりあえず、続きやろうか?」

「いいや、もう終わらせる。終わらせろって急かされちまったんでな」

 不敵に笑みを浮かべ、杖に再度魔力を込める。

「――魔力充填・全速発進ブースター・イグニッション!」

 ありったけの魔力を〈制玉〉から絞り出す。ヴィルを中心に引き起こされる風はガルジャナ山全体を巻き込み、桜吹雪を巻き起こしていた。

 杖を首元で構え、全力で左に振れる姿勢をとる。

 そして風を足裏一点に集め、今持ちうる全力で――――踏み込む!

 身体への負荷など一切考慮せず、音すら置き去りにせんとする速度でシオンへ迫る。

 だが、ヴィルが踏み込んだ瞬間、意識外から放たれた黒い蔦が〈制玉〉を貫いた。

〈制玉〉は一際大きな光を放ち、砕け散る。

「はい、チェック♪」

「いや――チェックメイトだ」

 ヴィルはそのままの姿勢で杖を腰元まで持っていき、両手に握る。


 六の花弁を止めるに、死力を尽くした。


 五年の歳月を費やし、ここまで至った。


 四度膝をつこうとも、立ち上がった。


 三つの問答を超えて、覚悟を決める。


 二人の視線が引かれ、結び合う。


 そして、













 六の花弁を止めるに 一 死力を尽くした。

           の

 五年の歳月を費やし 刃 ここまで至った。

           が

 四度膝をつこうとも 断 立ち上がった。

           ち

 三つの問答を超えて 切 覚悟を決める。

           っ

 二人の視線が引かれ た 結び合う。


 

 純白の剣筋が完璧な弧を描き、シオンの身体を切り裂いた。

 その手に握られていたのは一振りの刀。

 残心を取り、鯉口に刃をのせて刀を収めるとそれは杖の形をとる。

 肌身離さず握っていた杖は、仕込み刀だった。

 シオンの持っていた二本の〈不毀ノ器〉、その刀の方。

 ヴィルは杖を突きながら、倒れこんだシオンの元まで歩いていき見下ろす。

風花切別ふうかせつべつ――師匠から教わって、唯一まともに身についた技だ」

「あっははは、すごいなぁ。全く気づかなかったよ。それに剣の方も全く見えなかった」

「……どうだか」

「ホントだって。やー、負けた負けた。こんなに清々しい負けなら、うん、納得できる」

 大の字で笑うシオンの首元に刃を押し当てながら、ヴィルは問いかける。

「……何か言い残したことは」

「介錯はサクッとお願い」

 そして刃を一思いに押し込もうとしたその時、

「――――待ってっ!」

 そこには荒い息をつき、ボロボロの状態で剣を抱えたヒイロが立っていた。

 シオンが瞳を見開く。

「間に合った……」

 ヒイロは剣を傍らに、シオンのすぐそばまで近寄る。

 そして、涙をこぼしながら、


「――――お母さん」

 

 ヴィルは何も言わず、ただ天を仰ぎ、気づく。

 月がどこにも見当たらない。

 どうりで暗いわけだと思った。

 

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