12
ガルジャナ山の麓。桜の絨毯が敷かれたその道で。
五年という歳月など無かったかのように、それは微笑を浮かべてそこにいた。
舞い落ちる花びらの中、片手を上げて僕たちを出迎える。
「久しぶり、少年」
小さな顔の両側と背中に無造作に垂らされた黒髪は、けれど夜半の清流のような艶やかさを持っていた。髪と同じく黒い大きな瞳と小さくも通った鼻梁、その下に咲く形の良い花弁の唇。異国の相貌は華麗というより可憐で、決して大きくはない体躯も相まって少女と間違えられることすらあった。
けれど生き様というやつは嫌が応にも立ち昇るもので、如何なる時、場所であろうと出で立ちには戦士の強さと女の美しさとが同居していた。おかげで目の前に立つそれを見た僕は師匠と出会った頃に味わった畏敬にも似た感情を思い出した。
時の流れを示すのは、様々な汚れを吸い込んでそうなったのだろう、ねずみ色のくたびれた外套だけだった。
僕は師匠の贈り物である羽織の襟元を一度握って、それからなんでもないように明るく問いを投げた。
「アンタと僕は久しぶりって間柄なのか?」
「少年がそう思ってくれるならきっとそうだよ」
「そうか……じゃあ五年ぶりだな、
僕の言葉に、それが笑う。
花が咲くように。
懐かしい笑顔だ。
「そうだっけ。私には昨日ぶりくらいに感じられるよ。時が経つのは早いね」
「今さっき久しぶりとか言ってたのはどこの誰だ」
「あはは、さてね。そんな昔のことは覚えてないよ」
どうやら人を喰ったような発言も昔のままらしい。
「……シーちゃん、なんだよね?」
メリーさんが震える声音で師匠に話しかけた。
きっと見るのも辛いだろうに。
「そうだよ。むしろそれ以外に見える?」
「じゃあ……なんで魔力が真っ黒なの?」
ああ、言ってしまった。
師匠は困ったように頬をかいて苦笑する。
「――言わなきゃダメかな」
「っ……!」
その返答に、メリーさんが一歩退いた。
今にも泣き崩れそうなところをヒューゴさんが背中を押して支える。
「なぜ今になって現れた。あなたのことだ、何か理由があるはずだ」
ヒューゴさんの問いかけに師匠は微苦笑を浮かべて頷く。
「もちろんあるよ。ただ、用があるのは少年だけだし、二人きりで済ませたい用事なんだ」
「…………なに?」
怪訝そうな表情で目を眇めるヒューゴさんをよそに師匠は「でも」と付け加える。
「夜中に頑張って依頼をこなしてきた弟子を休みもなしに引きずり回すほど私も鬼じゃない。だから、今日の日没までに来てくれればいいよ。それまでたっぷり休んで、元気を取り戻してから会いに来て。ね?」
師匠は綻ぶような笑みを浮かべて、小さく首をかしげた。
お願いをするときのポーズ。五年前はされるたびにまたかと嘆息していたのに、それだけで懐かしい日々が脳裏を過る。
今にして思えば、僕も師匠のお願いを聞くことを楽しんでいたんだろう。
けれど、それとこれとは話が別だ。
「言っておくけど、僕たちはもう【勇者隊選抜】の条件は満たした。ここに留まる理由はないぞ」
「あ、そう? 別に逃げたかったら逃げてもいいけど、ここで止めないと私も王都に行くからね」
「…………は? なんでだよ、おっかけか?」
予想外の返答に思わず昔のノリで返してしまった。
「なわけ。これも〈黒の侵蝕〉の本能らしくてさ、あるいは前任者の残留思念かな。私は自分の意思と関係なく、気づいたら王都に向かってるんだ。道中で別の行動を取ったり今みたいに寄り道したりはできるけど、最終的には王都に辿り着く」
長旅だよ、と師匠が笑う。
こちらとしては少しも笑えない発言だ。
「……それが真実だとして、王都に行って何をするんだ」
「さあね。もう一回【大侵蝕】でも起こすんじゃない? わかんないけど」
与太話をするみたいに、他人事みたいに。
何気なく放たれたその言葉に、僕らは表情をこわばらせた。
師匠は自分に向けられる視線の色が変わっていることに気づいたらしく、少し慌てたようにして続けた。
「で、でもそんなのは嫌でしょう? 私もそんなことしたくないし! だから逃げ出されないように、ここで終わらせられるように保険をかけておいたよ」
「保険……? なんだ保険って」
「確かめたければさっさとギルドに報告に行くこと! ほら、行った行った! 私はここで待ってるから!」
師匠はそう言うと自分は道端の木まで駆けて行き、その根元に腰掛けた。どっしりと座り込んであぐらまでかいている。どうやら動く気はないらしい。
「ししょー……」
ヒイロが不安そうに僕を見上げる。他の面々も僕を見ていた。
「はぁ……」
ため息をつきながら、ガシガシと頭をかく。
青天の春雷にしては衝撃過ぎて、感動の再会にしては穏やか過ぎる。
なにからなにまで師匠のペースだ。けど、
「……行こう。行くしかない」
師匠に促されるまま、僕たちはギルドへと向かった。
後ろからは「日没までだよー!」という声が聞こえた。
僕は黙って手をあげた。
◇
ひとまず未だ目覚めないシャリゼを宿に叩き込んだ後、僕はパーティを代表してギルドへ報告しに行った。
領主様は誰もいないギルドのギルド長室で僕を待っていた。
そして僕が室内に入るや否や、開口一番にこう言った。
「『少年が日没までに来なければ〈泥被り〉と化したカヴァスを二千匹けしかけるから、そこんとこ把握よろしく』……以上がシオン君の伝言だ」
「…………………………はい?」
「見たところ壊滅級の方は特にこれといった失敗は無かったようだね。〈泥被り〉の地竜も退けられたのかな。本当に凄いことだ」
感心したように頷く領主様に僕は片手をあげてストップをかける。
「ちょ、ちょっ、ちょっと待ってください! どういうことです? なんで領主様がそのことを? っていうかカヴァス二千匹ってなんですかそのアホらしい数字は」
思わず矢継ぎ早に質問してしまった。
領主様は椅子の背もたれに深く背中を預けてから、
「ヴィル君たちが出て行った後、真夜中にドアをノックされてね。こんな時間に誰かと思ってドアを開けてみれば、五年前と少しも変わらないシオン君がドアの前に立っていた。『こんばんは』と、とびきりの笑顔を添えてね」
「それは……ホラーですね」
想像するだに恐ろしい光景に思わず頬を引きつらせてしまう。
「ああ、彼女いわく『誰かに見られるとめんどくさいから誰にも見られないように配慮した』そうだが。呆ける私に彼女はヴィル君が今どこにいるのかを聞き、それからヴィル君への伝言を言い残して去っていった」
「……それだけですか? 師匠がそんなあっさり済ませるとは思えないんですけど」
僕の率直な疑問に、領主様は苦笑しつつ左右に首を振る。
「私も同じ事を言ったさ。ただ、目の前に人がいると間違いを起こしそうであまり話したくなかったらしい」
「間違い?」
「本能とも言っていた。例えるなら『喉が渇ききった状態で目の前に清らかな水の入った杯を差し出された気分』だそうだ」
「あぁ……そういう」
話を切り上げたのも、間違いが起こらないようにするためだったってことになる。察するに、本能というのは師匠自身のそれを指しているわけじゃないらしい。つまり、
「止めて欲しいのだろうな、彼女は」
同じ結論を口にした領主様に僕は頷く。
「殺し合いになるでしょうね。それが
「半分はあるんじゃないか? 『私が来たこと、そして少年が来なかった場合のことを領民に伝えるかどうかは好きにしたらいい』とも言っていたしな」
その発言に思わず顔をしかめてしまう。
「それ僕が行っても行かなくてもけしかけてくるやつじゃないですか」
「ああ、邪魔者対策もバッチリというわけだ。全く……要らぬサプライズは嫌われると百万回は聞かせたはずなんだが」
「嫌われるくらいであの人が自分を曲げたことなんてないですよ。それでどうするんですか?」
「シオン君のことは伏せつつ、少なくともカヴァスのことは伝えて備えるしかないな。そうでないと九年前の二の舞、あるいはもっと
領主様はそこで言葉を止めると、瞳を眇めて僕を見た。
「ヴィル君こそどうするつもりなんだ。厄災に見舞われた恩師が奇跡的に帰ってきたと思えば厄災そのものになっていたわけだが……それでも行くのか」
「まあ、僕にとっては元から厄災みたいなモノですし」
進むは地獄、退いても地獄。止まれば待つのは破滅のみ。
なら進むしかないだろう。
「そうか……それならせめて今は休みなさい」
一つ頷き、僕はギルド長室を後にした。
◇
「カヴァス二千びっ――もがっ」
ロビーでヴィルを待っていたヒイロたちだったが、いざ話のあらましを伝えられると、ヒイロはやっぱり驚愕の叫びをあげた。けれど予想していたらしいヴィルが超速の反応で口を塞ぎ、塞がれたヒイロは軽くのけぞった。
倒れ込まないよう背中に手を回すことも忘れず、ヒイロの口を塞いだままヴィルは長いため息をつく。
「誰もいなくてよかったな」
「……ほふぇんふぁふぁい」
素直に謝ると解放された。
「二千匹って言ってもさ〜、正直信じられなくない? どこから連れてくるのさ〜」
メリーがぼやくが、ヒイロには心当たりがあった。
「ししょー、その二千匹ってもしかしなくても……」
「ああ、〈園〉でめっきり見なくなったと思ったら
忘れもしない初依頼の日。ヒイロは初めてだったから分からなかったけど、ヴィルはカヴァスの数が明らかに少ないと言っていた。
「ふぇ〜! メリー全然気づかなかったよ〜! でも思い返してみたら確かにハエ叩きの回数減ってたかも〜」
「カヴァスの乱入をハエ叩きって言わないでください」
冷静にヴィルが突っ込む。実際、
「それでオレたちはどうすればいい。ヴィルに助太刀するか?」
ヒューゴの提案にヴィルは首を振る。
「邪魔者は師匠にぶっ殺されますよ。何時頃かはわかりませんけど、ギルドの方から召集がかかると思うので、それに合わせて動いてください」
「わかった」
「大変な一日になるねえ〜」
メリーの言葉にヴィルは首をすくめ、それからヒイロの方を見た。『せいぜい頑張れ』だとかそんな言葉が飛び出すのかと思ったヒイロだが、差し出されたのは貨幣だった。
「ヒイロはすぐに出る準備をしろ。日が暮れる前に王都へ行くんだ。これだけあれば途中で宿も取れる」
「――――なっ、なんでですか⁉︎ わたしだけ逃げろってことなんですか⁉︎」
言ってる意味がわからず、一瞬反応に遅れた。
ヴィルはヒイロの反応をこそわからないというように怪訝な顔をする。
「何でもなにもあるか。ヒイロがやるべきは王都に行って騎士になることで、こんな辺境の領の危機を救うことじゃないだろ」
「そんなことありません! 騎士のやるべきは人を助けることです!」
言葉を交わしながら、ヒイロは違和感を感じていた。
瞳に宿る伝わりきらない思惟、どことなく落ち着きのない立ち姿、一度俯瞰してみて気づく。
(……師匠、焦ってる?)
「確かにそうだな。でも、ヒイロは騎士じゃない」
ヒイロの推察に気づく事なく言葉を重ねるヴィルにヒイロは努めて冷静に返す。
「肩書きがなければ人助けもしちゃいけないんですか」
短い沈黙が下りる。
「頼む。今だけは言うことを聞いてくれ」
両肩にヴィルの手が置かれ、余裕のない瞳で見下ろされる。
どうしてそこまで自分を遠ざけようとするのか、ヒイロにはわからなかった。
「……わたし、そんなに頼りないですか」
「いいや。依頼中、僕たちはヒイロに何度も助けられた」
「じゃあなんで!」
耐えかねて叫んだヒイロは見つめていた新緑の瞳が揺らぎ、中からマグマのような感情が噴き出るのを幻視した。
感情の奔流は迸るままに、両肩を強く掴む布擦れの音と震える言葉に変換される。
「――怖いんだよ。大切な人がいなくなることが」
「…………こわ、い?」
冗談のようにしか聞こえなかった。
ヒイロの中でヴィルが何かを恐れたことなど一度もなかった。
けれど眼前のヴィルは表情を歪め、滲むように、そして一気に言葉を吐き出す。
「ああそうだ。僕はずっと怖かったんだ。これ以上失いたくなかった。既に失っているかもしれない恐怖から目を背けるために五年間走り続けた」
ヴィルが目を瞑り、俯く。ギリギリという歯ぎしりの音すら聞こえてくる。
「本当はヒイロを弟子に取ることすらしたくなかった。……大切な人が増えるから」
それは
大人になる大切さより、大人になる痛みを先に知ってしまい、五年前から時が止まってしまった、あるいは進めることを恐れた少年の、心の奥底に封じ込めていた悲痛な叫び。
ヒイロが初めて触れることのできた、ずっとひた隠しにされていた本心。
想像するだけで辛く苦しい。
だからこそ想像を絶する決死行に五年間も身を投じ続けたのだろう。
けれど、ヒイロは言葉をあげねばならなかった。
肩から手を払い、払った手を掴み返す。
あらん限りの力で握りしめ、激情のままに言ってやる。
「じゃあなんであの時、わたしに弟子になれなんて言ったんですかっ!」
視界がぼやけ、頬を熱いものが伝うのも構わず叫ぶ。
「失うのが怖いなら中途半端に善人ぶらないで一生孤独に生きてれば良かったんだ! こんな……こんなこと言われるくらいならっ、その辺で野たれ死ぬ方がよっぽどマシだった! ――――ししょーのばかっ!」
掴んだ手を叩きつけるようにして払い、ヒイロはギルドから飛び出した。
「ヒーちゃんっ!」
ヒイロを追ってメリーが出ていった。
足音が遠ざかっていき、静寂が訪れ、静けさの中から鳥のさえずりが聞こえてくる。
ヴィルは何も言わず、ヒイロに握られて未だ痺れる手を見下ろすばかり。
ヒューゴはヴィルの隣で腕を組んだまま、険しい顔で呟いた。
「……よしんば事が全て上手く運んだとして、このままだと遺恨を残すことになるぞ」
「真実を伝えるよりよっぽどマシですし、弟子には幸せに生きて欲しいじゃないですか」
「弟子は師匠に似ると言うぞ。ヒイロが捻くれたらどうする」
「元から捻くれてますよ。却って反面教師でまっすぐ育ってくれる」
「その受け答えはシオン殿とそっくりだが」
「っ……僕は戻って休みます。シャリゼが来たら事の顛末を伝えてやってください」
「あい分かった。武運を祈る」
ヒューゴの声を背で受けながら、ヴィルはギルドを出ようとして、立ち止まる。
「……ヒューゴさんは何も言わないでいてくれるんですね」
「なんだ、言って欲しいのか?」
「いやそういうわけじゃないですけど……」
「なに、冗談だ。ヴィルもシオン殿も言ったところで止まらないだろう。……はて、弟子は師匠に似ると言ったが、もう一人弟子がいたな」
「ええ、いますね。とびきり捻くれたのが」
「捻くれ者同士、これ以上
「はは、そうします」
ヴィルは片頬に笑みを浮かべ、今度こそギルドを出る。
見上げる空は既に青く、街は目覚め始めていた。
◇
「最っ低! ほんと最っ低!」
ヒイロは無我夢中で石畳の道を突き進んでいた。
「自分からっ、言い出したのにっ!」
どこにも行く当てなどない。
ただ怒りの元凶から離れるため、遠く遠くへと足を延ばしていた。
いつかのように、いつの間にか棄民街へと足を運んでいる。
適当な路地で足を止め、壁を蹴る。
「失うのが怖いってなにさ! 今さらすぎるでしょ!」
どんなに言っても怒りは冷めず、地団駄を踏み、壁に頭をゴンゴンと打ちつける。
「わーー⁉ ヒーちゃん早まらないでぇぇ〜っ!」
そこに、ようやく追いついたメリーがヒイロの奇行を目にして飛びついた。
「もっと楽しいことあるから! 憂さ晴らしなら後でルー君サンドバッグにしてタコ殴ればいいから! メリーも一緒に付き合うよ!」
柔らかい感触に抱きしめられ、胸の圧力で息ができなくなる。
「し、死んじゃう……」
「ダメだよ死んじゃ! ――ってああ⁉︎」
自分の胸で溺死させかけていることに気づいたメリーが慌ててヒイロを離す。
「えっふぉ……別に死のうとしてないですから、そんなに心配しないでください」
「ホントだよね? 死のうとしても電気ショックで無理やり起こすからね? 変な気は起こさないでね?」
金色の
「よかったぁ〜、それじゃ戻ろっか。この辺迷いやすいし何もないから一人だと大変だよ」
「……戻りたくないです。どんな顔して会えばいいかわかりませんし」
今すぐ領を出る気もないけれど、ほとぼりが冷めるまで時間をおきたかった。
そんなヒイロの意図を知ってかしらずか、メリーはクスリと笑うとその手を取る。
「案内したい場所があるの。ここからならそう遠くないから、着いてきてくれる?」
「……?」
メリーに連れられて歩いていくと、開けた場所に出た。
一面の青々とした緑に、白く平べったい石が等間隔に並んでいる。
石には名前と年月が刻まれていて――霊園だった。
「領内でもこの辺は西側だし、来たことなかったでしょ〜?」
石碑の行列の間をずんずんと進んでいくメリーの後を追う。
「まあ、お供えする人もいませんし……」
「うふふ、だよねえ〜」
さもありなんという返事をしたところで、生垣で作られたドームにたどり着いた。
歩みを止めず中へ入っていくメリーに続いて蔦のアーチをくぐると、木漏れ日がそこかしこに溢れて幻想的な光景を作り出していた。
「着いた〜! ここが案内したかった場所だよ。で、お目当てのものはあれ」
あれ、とメリーが指差す先、ドームの中心にあるのは数メートルの巨大な石碑だった。
というより、ドーム内には石碑しかない。
「これって……名前ですか?」
黒く光沢のある石碑の表面にはびっしりと名前が彫られていた。
ぐるっと周囲を回ってみるが、いずれの面にも彫られている。
「そう、〈黒の侵蝕〉に呑まれた人たちの名前だよ。〈黒の侵蝕〉に呑まれると死体が残らないから、名前を彫るしかなかったんだ」
「えっ……」
思わず一歩退く。つまりこれは共同墓碑。
今一度名前の刻まれた石碑を見上げる。いったい何人の名前が彫られているのか。
さっきと少しも変わらないのに、石碑が急に威圧感を放って見えた。
「今ヒーちゃんがいる所の右下を見てみて」
しゃがんでみれば、そこに彫られている名前だけ削られていた。
「えっと……読めないんですけど」
「そこはね〜『シオン・ガルベリアス』って彫られてたんだよ」
隣に来てしゃがみこんだメリーがその跡をなぞりながら言う。
「けど毎月のようにここに来ては石碑のお手入れをして、ついでのようにそこの名前をナイフで文字を削っていく人がいたんだ。誰だと思う?」
「ししょーしかいないですね」
嘆息と共に答えたヒイロにメリーはなぜだか笑みを深めながら述懐する。
「元々この共同墓碑はシーちゃんが提案して、お金もシーちゃんがほとんど出して造られた物だったんだ。あの人意外とお金持ちだったからね」
「へえ……」
「だから〈黒の侵蝕〉でいなくなったシーちゃんの名前を刻むのは当然のことなんだけど……ルー君は反対してた。『普通に死んだかもしれないだろ!』って。シーちゃんが普通に死ぬなんてありえないってこと、一番わかってたのはルー君なのにね」
メリーは削られて読めなくなった名前を慈しむようになぞり、ポツリと吐露する。
「正直なところ、メリーはルー君に賛成なんだ。もしメリーがルー君の立場だったら手足縛ってお布団でぐるぐる巻きにして、その上からもう一回縄で縛って、事が終わるまでギルドの倉庫にでも押し込んじゃう――ってホントにはやらないよ⁉︎ メリーだったらって話! だからそんなじりじり離れないで!」
ヒイロが戻ると、メリーはホッと息をはく。
「ルー君はそんなことしないし、ヒーちゃんがやっぱりわたしもって言って戻ったら背中を預けると思う」
こくりと小さく頷く。
ヒイロだって心ではわかっている。
本当に遠ざけたいのなら、師匠として問答無用の命令を出しているはずだった。
それにね〜、とメリーは髪を揺らしながらにんまりと悪い笑みを浮かべてみせる。
「ルー君だって危ないからって止められても平気で無視してシーちゃんについていったことたくさんあったんだから〜」
「ししょー意外と子どもっぽいところありますもんね……」
「うんうん。ルー君今でこそ沢山の人に慕われてるけど、昔は絵に描いたようなクソガキだったし〜」
「今もですっ。全く、なんでみんなあんな人に良くするんだか」
掴み所も覇気もない、ついでに身長もあんまりないのに。
「ま〜いつの間にか馴染んでたのはヒーちゃんもだけどね〜。似た者同士ってことかな」
「似た者同士……」
「だ〜か〜ら〜、ヒーちゃんだって悪い子になればいいんだよ! もし何か言われても、ししょーだって同じじゃないですか〜!って言い返しちゃえ〜!」
ヒイロはギュッと目を瞑って下を向く。
そして顔を上げた時、瞳には明るい光が宿っていた。
「わたし、戻りますっ!」
ドームから飛び出し、駆けだしていく。
が、少しすると戻ってきた。
頬を紅く染め、頭の後ろをさわさわとしながら言う。
「か、帰り道がわからないんですけどぉ……」
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