5


 師弟の契りも結び、ヴィルとヒイロは初依頼へいざ向かわんと出発した。

 そして現在、ふたりはすでに山の東側を降っていた。あと数十分もしないうちに山を降りきるだろうというところで――

「ししょー遅いですよー! 早くしないと日が暮れちゃいますってばー!」

「まだ正午にもなってないわ! ヒイロが早すぎるんだよ!」

 ヒイロは小指ほどに小さく離れたヴィルから返ってくる弱々しい声に肩をすくめて、頭上の桜並木を見上げた。桜の枝から覗く青空を花びらがひらひらと舞う様は、海原を征く幾つもの小舟を遥か上から眺めているような気持ちになる。

 ヴィルはこの景色が好きだから竜車も使わず依頼の度に毎度歩いて行くのだというが、ヒイロからすれば毎日イヤでも視界に入っていた景色だ。

「正直見飽きちゃってるしなー……」

「そりゃあ悪かった。退屈させるのは良くないよな」

「うおぁぁ⁉︎」

 いつの間にかヴィルが隣に立っていて、ヒイロは素っ頓狂な声を上げる。

「えっなんで? さっきまであんな遠くにいたのに……」

「そりゃ魔法だよ。普段は魔力がもったいないから使わないんだけどね」

 そう言って、ヴィルが杖を大きく振る。

「《薫風来たれり、我らを運べ――風の旅人エアロ・タクス》」

 呪文を唱えると杖をヒイロのつま先へあてがい、そして離す。

 何も起こらないことに首をかしげたヒイロだが、言い得ぬ違和感を感じて足元を見てみると、地面から数十センチほど浮いていた。

「んぇっ!?」

 再び素っ頓狂な声を上げるのもつかの間、ヴィルが同じようにふわりと浮かび上がる。

「少し飛ばすぞ」

 どこか楽しげにヴィルがそう言った次の瞬間――景色がぶっ飛んだ。

(は、速っ!?)

 視界に映る桜並木は高速で後ろに流れていき、打ちつける風は痛いほど。

 激しく顔面に打ちつける桜吹雪のせいでまともに目も開けていられない。

 凄まじい速度で山を下っていく二人は、文字通り風となっていた。

 確かにこれならあっという間に移動できるだろう。

 だが、ヒイロからしてみればハイペースの山越えが突然フリーフォールに変貌して恐怖でしかなかった。

「ししょっ……ちょっと速度落としてぇっ!」

「あーなんだってーーーーーーーーーーーー

 ヒイロが懇願するも、ヴィルにはまるで聞こえていない。

(しっ、死ぬ死ぬ死ぬ!)

 このままだと気絶か失禁する――ヒイロの精神と膀胱が限界を迎えようとしたその時、ふいに速度が落ち、そのまま完全に停止して地面に降ろされた。

(た、助かった……)

 思わず下腹部を抑えて下着が無事かどうか確認してしまう。

 ヒイロの状態に一切気づいていない様子のヴィルが杖を背中に掛ける。

「着いたぞ。ここが魔境連野、第一の〈園〉だ」

 ヒイロは顔を上げる。

 そして、目の前の景色に息を吞んだ。

「――――わぁ」

 緩やかな平原がどこまでも続いている。

 空の青と草の碧が鮮やかなコントラストを描き、世界を二分していた。

 ふいに柔らかな春風が吹き、髪を引きながら頬とうなじを撫でていく。

 同時、訪れるのはむせそうなほど濃い草と土の匂い。

 一見すると魔獣の姿は見えないけれど、生命の気配が満ちているのがわかる。

 さらさらという葉擦れの音に混じって生き物の呼吸いきづかいが聞こえてくるようだった。

 ヴィルは予想通りの反応を得られたとばかりに笑い、歩みを再開する。

「すごいだろ? 〈桜魔ヶ刻〉の依頼は四割が魔境連野ここに関するものなんだ。今日は行かないけど、もっと奥には第二の〈階段峡谷〉や、第三の〈飛天河〉もある」

 ヴィルが魔境連野について語っている間も、ヒイロは言葉を奪われたままだった。

 目の前の光景に、否、見えないものの多さにまで総毛立つ。

 命が躍動するこの場では、自分は要素を構成するひとつにすぎない。

 ただの自然風景であるはずなのに、どこか幻想的ですらあった。

 頭上を通り過ぎていった野鳥の影を眺めながら、ヒイロはようやく言葉を吐露する。

「山ひとつ隔てた先にこんな場所があるなんて……魔境なんて言うくらいだから、てっきりもっと殺伐とした場所なのかと」

 本当にピクニック気分が味わえてしまっている現状に拍子抜けしてしまう。

 ヴィルはヒイロの言葉に短く笑いを零した。

「九割五分、六割、三割五分」

「な、なんの数字です?」

 突然謎の割合を口にし始めた師匠にヒイロは困惑の表情を向ける。

 対して、ヴィルはまだ何も知らぬ弟子に魔境連野の真実を伝える。

「〈園〉、〈階段峡谷〉、〈飛天河〉――それぞれまで行って戻ってきた冒険者の割合だよ。〈園〉までならほとんど危険はないけど、〈階段峡谷〉、〈飛天河〉まで行くとその距離に比例して生還率が下がっていくんだ」

「てことは、〈飛天河〉まで行ったら半分以上の確率で戻ってこられない……?」

 数字の低さに身震いするヒイロに、ヴィルが苦笑する。

「この一ヶ月で〈飛天河〉まで行くことはないだろうから、そう怖がらなくていいよ。……っと、あっちだ」

 右方、ヴィルが示した先にあるのは深緑の森林。

 ここに来る前に伝えてもらった依頼場所だ。

「あれがカヴァスの森ですか?」

「そう。ゴブリン並みの数がいて、ゴブリン並みの速度で増えてる。〈園〉の要所だよ」

 魔犬カヴァス――群れで狩りを行うというその習性上、見つかる時は五〜十匹ほどの比較的まとまった数で観測される。一匹一匹の脅威はさほど高くないため並のパーティでも処理できるが、この森の魔犬は桁が違う。

 現在、森にいるカヴァスの総数は数千をくだらないと言われており、〈園〉での依頼に失敗するのは森の中でカヴァスの大群に出くわしてしまった場合である。

「大遠征の際には必ずと言っていいほど草原まで湧き出てきて邪魔をしてくるし、あんまり増えすぎると山を越えてくる時もあるから時々狩りにいかなきゃいけない」

「ということはカヴァスの狩りが今日の依頼ってことですね!」

「ああ。そういうことで今から森に入るけど、少しでも怪しい気配があったら逐一報告してくれ。出会うのがカヴァスだけとも限らないからな」

「わかりました!」

「ん、それじゃ行こう」


 ◇


 そうして森に入り、他の冒険者らしき影を見つけることはあれど目的のカヴァスには出くわすことなく数十分が経過した。

「いないな……いつもは向こうからやってくるレベルなんだけど」

「さっきいた人たちが狩っちゃったんじゃないですかね?」

 森に入ってから二回ほど見かけた四人パーティも同じ依頼を受けているのではと推測したヒイロだが、ヴィルは納得しきれないようで目を眇める。

「いや、それにしても一匹も見当たらないのは初めてだ。――ところでヒイロ、一応聞いておきたいんだけど魔法は使えるか?」

「使ったことないからわかりません!」

 竹を割ったような素直さで答えるヒイロに、ヴィルは危うく転びかける。

「よくそれで騎士になりたいとか言ってたな!?」

「いーじゃないですか別に! 誰がどんな夢持つかは自由ですよ!」

「それは確かにそうだけど……まあいいか。じゃあ質問内容を変えよう。思い出したくもない辛い思い出はあるか? 忘れられないくらい苦い経験でもいい」

「思い出か経験ですか?」

「ああ、魔法を使う上で重要な要素なんだ」

 どうしてそんなことを聞いてくるのか甚だ疑問なヒイロだが、ひとまず質問に答える。

「うーん、特に思い当たらないです。八歳より前の記憶にはあるかもしれませんけど」

「八歳より前、というと? なにかあったのか?」

 聞き返してくるヴィルに、そういえばまだ話していなかったことに気づいたヒイロは己の素性を明かす。

「わたし、八歳以前の記憶がないんです。なんでも父がわたしを助けてくれた際、この見た目になったのと一緒に記憶まで抜け落ちちゃったみたいなんですよね」

 何気なく笑うヒイロだが、ヴィルにはその笑いが様々な思いを呑み込んでのものと理解できてしまう。そんな境遇でよく性格が捻くれなかったものだ、と感心すら覚える。

「なるほどな、その様子だと母親のことも覚えてなさそうだね」

「覚えてないです。わたしを孤児院に預けた人、ということしかわかりません」

「……そうか。それなら魔法を使っても大丈夫そうだな」

「? 記憶喪失だと魔法を使えるんですか?」

「いや、人格形成に影響しうるだけの出来事――要するに心的外傷トラウマが無ければいい」

「それはつまりどういう――」

 言葉の真意が掴みとれず首をかしげるヒイロに、ヴィルは先んじて問いを出す。

「魔獣がどうして魔法を使えるのかを知っているか?」

「えぇっと……魔法を使うための器官が存在してるから、でしたっけ?」

 孤児院で魔法に関する本を漁っていた時の記憶を手繰り寄せながら答える。するとヴィルは微笑み頷いた。

「ああ、《魔臓ソーマ》だな。人間にはない、魔力を生成することのできる器官で、同時に奴らの致命的な弱点でもある」

 間違っていなかったことにホッと一息つくヒイロだが、すぐに次の問いが飛んできた。

「もうひとつ問おう。僕ら人間は《ソーマ》がないのにどうして魔法を使えると思う?」

「えっ。どうしてって……どうしてだろ」

 どのようにして魔法を使うのかは知っている。

 魔法の源――魔力と呼ばれる見えないものがこの世にはあり、なんでか分からないが魔力はあらゆる場所、物に存在していて、それを集めて形にすると魔法になるのだ。

 だが、どうして魔法を使えるのかは知らない。考えたこともなかった。

 思わず腕組みして考え込むヒイロに、ヴィルは答えを示す。

「魔法を使う際、僕らは《魔人イデア》になる」

「《イデア》? 変身でもするんですか?」

「魔力を纏うから多少なりとも身体能力パフォーマンスは上がるけど、髪がいきり立ってオーラを発し始めるとか、そういう劇的な変化はないよ。少なくとも見た目にはね」

「見た目にはってことは、中身にはあるんですか?」

「ご明察。に変化するんだ」

「魔力を操れる人格……?」

「そう。なんでかは分からないけど《イデア》になると自分が心の中で思い描いている理想の人格か、ひた隠しにしている弱い人格のどちらかが現れるんだ」

「へええ……純粋な気持ちになるってことなんですかね?」

「面白い考察だな。『獣は外に、人は内に魔を見出した』――僕の師匠はそう言ってたよ」

「……なんだか、すごく壮大ですね」

「ああ、魔法の神秘ってヤツだ」

 魔法を扱うための手段が人と獣で違う、というのはすごく興味深かった。いったいどうしてなんだろうとしばらく歩きながら考えてみたが、答えが出る前にヴィルが足を止めた。

「ようやくのお出ましみたいだな」

「えっ、カヴァスですか。どこにもいませんけど……」

 辺りを見回してみるが、鬱蒼とした緑があるばかりで獣のケの字もない。

 だが、ヴィルはとんとんと自分の耳元を叩いてみせる。

「耳が良いんでな。時間を喰ったけど僕の《イデア》を見せるにはベストタイミングだ」

 そう言うとヴィルは背中にかけていた杖を素早く手に取り、ヒイロの頭上に構えた。

「《揺蕩たゆたおおいて、我が子を隠せ――風の紗幕エアロ・ヴェール》」

 首筋を冷ややかな風が撫でた、と思えば周囲の景色が微風に合わせてゆらゆらと揺れていることに気づいた。心なしか色も薄い。

 紗幕の向こう側にいるヴィルは満足げに「よし」と呟くと、こちらに背を向けて歩き出してしまった。

「そこから絶対に動かないように。それと僕から目も離さないように。百聞は一見にしかずだからな」

「えっ、ちょっ、ししょーっ⁉︎」

 ヒイロが置いていかれたことに驚愕した次の瞬間、カヴァスの群れが姿を現した。

「ひっ……⁉︎」

 全身を覆う黒々とした体毛、闇夜に浮かぶ満月のような力強い瞳。いくつもあるそれは全て、ヴィルを獲物としてその視界に捉えている。

 遠くからの足音が途絶えないのを鑑みるに、増えていく一方だろう。

「し、ししょぉ……!」

 唸り声を上げ、今にも飛びかからんと犬歯を剥き出しにするカヴァスの群れを前にして、ヒイロは縋るようにヴィルの背を見つめる。

 その後ろ姿はあくまで自然体で佇んでいた。

 双方睨み合いの状態で、わずかな静寂が生まれる。

 緊張に固唾を吞んだ時、ヒイロはヴィルの口元に獰猛な笑みが浮かぶのを見た。

「さあ――狩りの時間ドッグ・ハントだ」

 次の瞬間、その姿がかき消えた。

 

 ◇


 音が遠くなり、時間の流れが緩やかになっていく。

 視界の端で梢の葉が一枚、宙に遥と舞う。

 その瞬間にも、の脳は思考を続けていた。

 どう狩るべきか。どう狩るのが一番効率的か。

 殺戮の順番、確殺に至る行動と必殺に足る方法を脳内で瞬時に組み立て――

「さあ――狩りの時間ドッグ・ハントだ」

 周囲に満ちる唸声てんじょうを肌で感じ取りながら、第一の標的めがけて地を蹴った俺は放たれた矢より速く目前まで迫り、俺を認識すらできていない一匹を蹴り飛ばす。

 蹴り飛ばされたカヴァスは背後にいた二匹諸共吹っ飛んでいく――が、俺はそいつらが散る様を見届けることはなく、すでに次の標的へ向かっている。

 仲間が吹き飛んだことにようやく気づいたそいつに向かって渾身の力で杖を突き出す。

 形成イメージするのは矛。――全てを穿ち、喰らい尽くせ。

「《風穿》(ペネトレイア)!」

 杖の先端から打ち出された魔力は森をつんざく超速の空砲となり、カヴァスを貫く。それだけでは飽き足らず、同直線上にあった木々や他の魔犬をもぶち抜いていった。

 その背後で三匹のカヴァスが僕に飛びかかって来ていたが、僕は《風穿》を打った反動を利用して地を滑るように三匹の下を潜り抜ける。そうして一瞬で後ろを取ると、横薙ぎに杖を振り払う。

 形成するのはかぎ爪。――全てを切り裂き、抉り取れ。

「《風閃》(エアリア)!」

 三匹は横合いから飛んできた暴風に攫われ、遥か彼方まで飛んでいった。

 この間わずか数秒。

 葉の一片ひとひらが落ちるよりも先に十匹以上の魔犬を処理したが、その間も同類が増え続ける一方で――「足りねえよ」

 腹の奥底から湧き上がる感情のまま、言葉を吐く。

「俺を殺すつもりなら百倍の数で来い」

 左手で杖を構え、右手を振るい、詠唱を開始する。

「《携えしは我が旅路》」

 杖の周りでとぐろを巻く魔力が風となって拡がっていく。

「《ここにべしは牙を持つもの》」

 風は木々を巻き込み、遠雷にも似た音を立てながらその身を肥大させていく。

「《もたらされるはすべてをべし天断風あまつかぜ》」

 形成イメージするのは暴嵐テンペスト

 それは通り過ぎるだけで大地を壊滅させ、大空を叫喚させる暴威そのもの。

 暴嵐が周囲を取り巻くカヴァスを攫いきった瞬間、俺は最後の一節を叫ぶ。

「蹴散らせ――《激風の大瀑布カタラクト・ウィンド》!」

 全てを飲み込み、破壊せよ。

 

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