第21話 支度



 重ね世界を見てみたいと、元気な声を上げるソフィアとマリィに対し、キャロラディッシュはこくりと頷き、髭を撫でながら言葉を返す。


「よしよし、であれば重ね世界を見に行くとしようではないか。

 ……とは言え、だ。今から行くというのは時間的に無理があるのでな、行くのは明日……しっかりと準備を整えてからにしよう。

 出立は朝食後。移動手段は儂が用意しておくので、外出に適した格好をして、グレースに頼んでランチボックスでも用意して貰っておくと良いだろう。

 こちらの魔術に関してのレッスンは……重ね世界を見てからの方が弾みが付くだろうからな、それからにするとしよう」


 そう言ってキャロラディッシュは、その手を軽く叩き合わせることでレッスン終了の合図を鳴らす。


 合図を受けたソフィアとマリィは、キャロラディッシュに礼を言いながら立ち上がり……互いの手をしっかりと握り合って、ヘンリーとアルバートを伴いながらサンルームから駆け出ていく。


 早速グレースにランチボックスのことを頼むつもりなのだろう、その足音は明るく弾む声と共に遠ざかっていって……キャロラディッシュは「ふう」と小さなため息を吐き出す。


 そうしてから立ち上がり、地球儀を片付け椅子を片付け、サンルームの中を元あった景色へと戻していく。


 元に戻し終えたらその光景をゆったりと眺めて、満足そうに再度のため息を吐き出し……自らの席へと戻ってペンを握り、ソフィア達が来る前のようになんとも楽しそうな様子でペンを走らせ始める。


 ペンは淀みなく動き、キャロラディッシュの思考を紙に書き記していって……段々とその動きが軽快で力強いものになっていく。


 そうやってキャロラディッシュがその気持ちを盛り上げていると、ソフィアとマリィとグレースの、楽しげな笑いが屋敷の奥から響いてくる。


 明日のランチボックスについてを話し合っているのか、服装についてを話し合っているのか、まるでピクニック前日かのように楽しげで、賑やかで……そんな声を受けてキャロラディッシュは軽い困惑をその胸に抱く。


 いつものキャロラディッシュであれば論文執筆中にそんな笑い声が響いてくるなど……到底受け入れ難いことであり、耐え難いことであり、怒鳴り声の一つも上げたくなるものであったはずなのだが……そういった気持が全く、わずかも湧いて来なかったのだ。


 それどころかソフィア達の笑い声は、キャロラディッシュのペンに更なる力強さと、軽快さを与えてくれて……耳障りであるはずの笑い声の中で、すらすらと文字を書き上げていく。


 そんな事態を受けて一体何が起きているのかと困惑するキャロラディッシュだったが……その事態を解明するよりも、今はこの軽快に走り続けるペンと共に論文を仕上げる方が、いつになく良い出来上がりとなっている論文を完成させることが最優先だと考えて、走り続けるペンに全てを任せるのだった。




「キャロラディッシュ様、夕食のお時間ですよ」


 ふいにグレースの声が聞こえてきて、キャロラディシュの意識が覚醒する。

 一本の論文を仕上げて、二本、三本と取り掛かっていた状況での突然の覚醒に、キャロラディッシュは軽い目眩を覚えながら、グレースの方へと振り返る。


「……もう、そんな時間か。

 夕食……ああ、そうだな、見ればすっかりと夕刻を過ぎているな」


 サンルームに降り注いでいたはずの暖かな太陽の光は既に無く、黄昏時の茜色が周囲を包み込んでしまっていて……キャロラディッシュは顔をこすり、背筋を伸ばし……全身をゆっくりと解しながら大きなため息を吐き出す。


「久しぶりの一人の時間で少しばかり羽目を外しすぎてしまったようだ。

 ……ソフィア達はどうしている?」


「食堂でキャロラディッシュ様のことをお待ちですよ。

 明日のお出かけの準備をしっかりと整えて、ランチボックスに詰め込むお料理達の下拵えまで手伝ってくれて……二人共とっても良い子にしていましたよ」


「ん……そうか。

 ……ああ、そうだ、明日の準備と言えばグレース……例のあれのことだが……」


「はいはい、ちゃんと確認しておきましたから、大丈夫ですよ。

 それと、お食事が終わり次第にキャロラディッシュ様にマッサージしてあげるようにと、ヘンリーに言い付けておきましたので、ちゃんと受けてくださいね。

 明日になって体が動かないなんてのは、ソフィアちゃん達が悲しむから絶対に無しにしてくださいよ。

 もしそんなことになったら私は許しませんからね」


 何かに付けて準備の良いグレースにそう言われて……キャロラディッシュは素直に頷き、その言葉を受け入れる。


 そうして椅子から……硬くなった体を気遣いながらゆっくりと立ち上がったキャロラディッシュは、振り返り、食堂へと足を向けるグレースの後をゆっくりと追いかけていくのだった。

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