第77話 人間論

「お師匠様ししょうさま、最高の勝負を、ありがとう、ございました……」


 ウツロの目から一筋ひとすじなみだしたたちた。


 たおんだ大きな山犬やまいぬの体がどんどんちぢんでいって、もとの似嵐鏡月にがらし きょうげつの姿へともどった。


「……なぜ、なぜだ……」


 彼は薄れた意識の中、まだそう問いかけていた。


 ウツロもまたもとの姿へと戻り、その場にしゃがんで、りんと正座をした。


かせをはめられ、くさりにつながれていることに立ち向かうからこそ、自由の大切さがわかる。存在を否定されることに向き合うからこそ、自分を肯定こうていできる。矮小わいしょうな自分を認めるからこそ、勇気をしぼることができる。悪を思うからこそ、善に向かうことができる」


 星川雅ほしかわ みやび南柾樹みなみ まさき真田虎太郎さなだ こたろう、そして真田龍子さなだ りょうこ――


 みんなはウツロが自分たちへ向けて、それぞれ言ってくれたことを理解した。


 そしてそれは、ウツロが自分自身へ向けて言ったことでもあり、無理やり言いきかせているのではなく、本心からそう思えたことだった。


 ウツロはこのとき、すべての存在を肯定することができたのだ。


 自身をのろう父までも。


「お師匠様、俺は毒虫だってなんだっていい。毒虫が自分のみにくさを呪ったら、本当に毒虫になってしまう。立ち止まっている毒虫ではなく、俺は、いつづける毒虫になりたい。きっとそれが、人間になるということなんです。それが俺の、『人間論』です……!」


 ウツロはこのように、決然として言い放った。


 似嵐鏡月は少年時代の自分を思い出した。


 思索しさくぐ思索の果てに形成された「人間論にんげんろん」。


 その解答を必死で見出みいだそうとしていた。


「……どうやらわしは、もうひらこうとして、逆にしずんでいたようだのう……」


 鏡月、この能なしが!


 貴様は似嵐の面汚つらよごしだ!


 くすくす、鏡月、またお父様にしかられて。


 本当に、ダメな弟よね。


「わしはただ、ほめてもらいたかった……親父に、姉貴に……それだけなのに……」


 ウツロは悲痛な気持ちになった。


 自分の人生をもてあそんだ父。


 だが、彼もまた、弄ばれた存在だったのだ。


「ウツロよ、わしは自分に負けた……だがお前は、お前というやつは……」


 似嵐鏡月の顔が次第しだいおだやかになっていく。


 うまく言えないけれど、いい気分だ……


 彼は心の中のくもりが晴れていくのを感じた。


「ウツロよ、わしにとどめをすのだ」


「……!」


 その言葉にウツロは衝撃を受けた。


「それだけのことを、わしはお前たちにした。人としてあるまじきこと、生きている価値などない……さあ、ウツロよ、頼む……!」


 ウツロはアクタのほうを見た。


「……ウツロ、お前にぜんぶ、任せるぜ……」


 兄の委任いにんを受け、ウツロも覚悟を決めた。


「されば、お師匠様……!」


 彼は立ち上がり、師に向けてびかかった。


「お覚悟!」


 似嵐鏡月は目を閉じた。


 だが、土をえぐにぶい音を首の横に聞き、再び目をけた。


 ウツロの黒刀こくとうは師をとどめてはいなかった。


 歯を食いしばって涙をこらえる息子の顔が、眼前がんぜんにある。


「……お師匠様、あなたがここで死を選んだのなら……いままであなたに踏みにじられた者の存在は、なんだったというのでしょうか……?」


「……」


「あなたがなすべきことは……生きて、それらへのつぐないをする……それしかないのではありませんか……?」


「ウツロ……」


「生きてください、お師匠様……! そしてまた、アクタと三人で、隠れ里で暮らしましょう……!」


 これを聞いたアクタは、満足そうに落涙らくるいした。


 似嵐鏡月も同様だ。


「……完全に、わしの負けのようだな……そして、強くなったな、ウツロよ……」


「……」


「お前はもう、毒虫などではない……はばたけ、はばたくのだ、ウツロ……!」


 ウツロはこらえきれずに、涙をこぼした。


 その場にいる全員が、泣いていた。


 いままでバラバラだったものを、ウツロがひとつにつなぎ合わせた。


 みんながみんな、それがうれしくてしかたがなかった。


 夜空よぞらが少しずつしらいでくる。


 もう夜明けか。


 しかしそれは、特別な意味での夜明け。


 みんながそう思っていたとき――


「……!?」


「な、なんだ、この音は……!」


 星川雅と南柾樹はあたりを見回した。


「地震……いえ、違うわ……!」


「姉さん、何かがおかしいです……! 気をつけて……!」


 真田虎太郎は姉・龍子を守った。


「いったい、なんだってんだ、こんなときによ……!」


 アクタも満身創痍まんしんそういながら、身を守るしぐさをした。


「この感じ……まさか、まさか……!」


「お師匠様、お気をつけください……!」


 ウツロも地面にしている師をかばった。


 地鳴じなりはどんどん大きくなり、地は割れ、桜の森はけていく。


 そして鎮守ちんじゅ一本桜いっぽんざくら一同いちどうを残して、すべてが粉々こなごなくだった。


 暗黒の世界と化したその空間。


 一本桜がにわかにうごめきだす。


 みるみるうちに巨大化し、アクタ以外の全員が知る、忘れもしない、いや、忘れることなどできない、あの異形いぎょうの王の姿へと、変貌へんぼうげた。


「これは、魔王桜まおうざくら……」


(『第78話 降臨こうりん』へ続く)

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