桜の朽木に虫の這うこと

第３０話 星川雅の恐怖

　医務室のドアは開いていた、まるでウツロを招（まね）き入（い）れるように――

　彼は少しためらったけれど、意を決して中へと足を踏み出した。

　星川雅（ほしかわ　みやび）は奥のデスクに、いつもの様子で腰かけていた。

「あら、どうしたの？」

「いや、別に。ひとりでいるよりはと思って」

「ふうん、心境が変化したの？」

「よく、わからない……」

「まあ、いいよ。立ち話もなんだし、こっちへ来て座りなよ」

　ウツロはいざなわれるまま、彼女へ向かい合う椅子に、ゆっくりと腰を下ろした。

「どう？　『人間』の世界は」

　星川雅はウツロをはぐらかすように皮肉を言った。

　彼女は頭を少し傾（かたむ）け、のぞき込むようにウツロを見ている。

　まるで観察されているようだ。

　心の中まで侵入して、彼をしゃぶり尽くそうとしているようにも見える。

　目の前にいる得体（えたい）の知れない少女に、いや、少女の姿を借りた魔物か何かではないかと思わせる存在に、ウツロは味わったことのない恐怖を、恐怖と表現するのが適切かどうかさえもわからないそれに、じわじわと精神をむさぼられるような感覚を得た。

　クモは獲物（えもの）を生きたまま溶（と）かして食らうというが、それと似ているのではないかと考えた。

「難しいね、『人間』は」

「また言ってるし」

　切迫（せっぱく）した状況を打破（だは）するため、ウツロは意趣返（いしゅがえ）しをしたつもりだったが、星川雅に「あきれた」という口調（くちょう）でそらされた。

　どうやら小手先（こてさき）ではこの少女を御（ぎょ）することはできないようだ。

　ここは時間を稼（かせ）ぎつつ、突破口（とっぱこう）を見出（みいだ）す必要がある。

　たとえどんな奸計（かんけい）であろうとも、駆使（くし）しなければならない。

　そうしなければ、こちらがやられる。

　鍛（きた）えられた肉体だとか、磨（みが）き抜かれた技だとか、そんな瑣末（さまつ）な話ではない。

　経験によるところは同様であるものの、彼女が使うのは心理攻撃だ。

　山ではクマとでも渡（わた）り合（あ）える自分だが、このような戦闘は経験がない。

　キツネとの化（ば）かし合いなどとは、次元が違うのだ。

「また何か、考えてるでしょ？」

　表情を緩（ゆる）め、ニヤニヤとウツロの顔を見つめている。

　これも作戦の内なのか？

　俺はすでに、この少女の術中（じゅっちゅう）にはまっているのではないか？

　トラの穴に潜（もぐ）り込（こ）んでなお、「ここはどこだろう？」などと抜かしている間抜（まぬ）け。

　ひょっとしたら、いまの自分がそうなのではないのか？

　星川雅はウツロの一挙手一投足（いっきょしゅいっとうそく）から、まるでその全情報を吸い出しているかのようだ。

　いけない、このままではのみ込まれてしまう。

　ここは虚勢（きょせい）であっても、冷静に振る舞わなければならない。

　彼は必死で自分を落ち着かせた。

「何かな？」

「いえ、ごめんなさい。癖（くせ）でついね。精神科医の両親を持ったせいか、観察癖（かんさつへき）がついちゃってるんだ」

「頭が、いいんだろうね……」

　ウツロは先に彼女からかけられた言葉を復唱してみせた。

　心を見透（みす）かされたのは正直いって屈辱（くつじょく）であったし、何より彼女の意図（いと）のようなものを確かめたかったからだ。

「まあね。医学部って、基本的にどこの大学もレベル高いんだよ？　お父さまもお母さまも、学生時代に知り合って意気投合（いきとうごう）したクチだしね。医学って興味ある？　ウツロくん。ああ、ちなみに二人とも赤門（あかもん）の同窓生だよ。赤門って意味わかる？　東京大学のことだね」

　星川雅はウツロをさらにはぐらかすため、あえてイメージしえないであろう会話を切り出した。

　彼は心の中で感じる圧倒的な敗北感、自分の知っている世界がどれほど小さいものであったかということと、彼女の手玉（てだま）に取られているという明白な事実に、すっかり意気消沈（いきしょうちん）してきた。

「つらくなってきた？　ごめんね。君がかわいいからつい、いじめたくなっちゃって。でも勘違いしないで。これもウツロくんのためなんだよ？」

　彼女の言いたいことはいっこうにわからないし、どこか猟奇的（りょうきてき）ともいえる精神への仕打（しう）ちに、返す言葉が見つからず、ウツロはただ黙りこくっている。

「わたしは医者の娘だからね。医者の仕事は患者に現実を見せることなんだ。これから君は、およそ想像もつかないことを次々と経験するはず。だからはじめから、厳しくしつけておかなきゃと思ってね」

　彼女はますます穏（おだ）やかではない単語をわざわざ選びながら、ウツロの反応を楽しむように言い放った。

「ま、ゆっくり、少しずつ慣れていけばいいよ。まだまだ人生は長いんだから」

　その所作（しょさ）はすっかり精神科医の診察のようになっている。

　この奇妙（きみょう）な問答（もんどう）はいつまで続くのか？

　まるでアリジゴクに捕（と）らわれた気分だ。

　おそらくこれも策略（さくりゃく）なのだろう。

　俺はもう、この少女の虜（とりこ）なのか？　

「ウツロくんて」

「？」

「ほんと、かわいいよね」

　食い殺される――

　そう思った。

　この女が食らうのは、人の心なのだ。

　獲物を気づかせぬまま罠（わな）にかけ、食らい、骨までしゃぶり尽くす。

　そうされた者は文字通（もじどお）り骨抜（ほねぬ）き。

　生きながら死人のようになって、彼女の意のままに動く人形にされるのではないか？

「おびえているのに必死で隠（かく）してる。そこが、たまらない……」

　なんだ、この感覚は？

　心が、安らぐ……

　真田（さなだ）さんといるときとは別次元の安らぎ。

　支配されたい、この少女に――

　枷（かせ）でも鎖（くさり）でも何でもいい、俺をつなぎ止め、隷属（れいぞく）としてくれ……

「うふ。こっちへおいで、ウツロくん」

　体が吸い寄せられる。

　自分の意思に反して。

　いや、俺はすでに、彼女に服従（ふくじゅう）する意思なのか？

　わからない……

　そんなことは、どうでもいい……

「座ってごらん」

　彼女の「命令」は犬に対する「お座り」と一緒だった。

　しかしウツロはその「命令」にしたがう。

　床（ゆか）に両膝（りょうひざ）をつき、その横に両手を置いた。

　その光景はまさに、人の姿をした「犬」である。

「顔を上げて」

　もはや彼は星川雅の意のままだ。

　上げたその顔は恍惚（こうこつ）に満ちていて、眼孔（がんこう）はすっかりぼやけている。

　もう彼女しか見えていないのだ。

「いい子だね、ウツロくん」

　ウツロは黙（もく）して次の「命令」を待つ。

　この少女に支配されていることが、うれしくて仕方ないのだ。

　奪われたい、すべてを……

「名前、呼んで。わたしの」

「星川、さん……」

「雅でいいよ」

「みや、び……」

　これではまるで腹話術（ふくわじゅつ）だ。

　しかし現実でもあった。

　ウツロは人形になった。

　その繰（く）り糸（いと）は、彼を見下ろす少女がしっかりと握（にぎ）っている。

　南柾樹（みなみ　まさき）もおそらく、こんなふうに懐柔（かいじゅう）され、手なずけられているのだろう。

　しかし、気持ちはわかる。

　なんという快感だろう、精神を征服されるというのは。

　俺は自我（じが）を保（たも）ったまま、いっぽうで他人任（まか）せにしているのだ、自分という存在を。

　それがこんなに、気持ちのいいことだったなんて……

「頭、撫（な）でてあげるね」

　星川雅の手が、あやしくうねるその指が迫（せま）ってくる。

　次の瞬間、俺は完全に、彼女の奴隷（どれい）に成り果てるのだろう。

　かまわない。

　それほどの快楽、圧倒的な安心感。

　ああ、俺はすべてを奪われ、すべてを与えられるのだ。

　この女の思うがままに、作り変えられるのだ。

　その存在を……

「――っ！？」

　ウツロは反射的にのけぞった。

　床（ゆか）を蹴（け）って後方（こうほう）へ跳（と）び、距離を取った。

　師である似嵐鏡月（にがらし　きょうげつ）から叩（たた）きこまれた、危機回避（ききかいひ）の習性（しゅうせい）。

　本能に近いレベルでこびりついていたそれが、発動したのだ。

「面妖（めんよう）な術（じゅつ）を、けがらわしい！」

　ウツロは怒（いか）りに燃える顔で、星川雅をにらんだ。

　体勢を整え、戦闘の構（かま）えを取る。

「失礼だね、女性に対して」

　だが彼女はいたって涼（すず）しい顔だ。

　椅子に座った状態で足を組み、手のひらを「うちわ」のようにして、顔をあおいでいる。

「何が精神科医だ。いまのは医学だとか、心理学だとかじゃない。明らかに忍（しの）びの術の類（たぐい）、そうだな？」

「だったら、どうするの？」

「口を割（わ）って、正体（しょうたい）を現してもらおう。お前はいったい、何者だ？」

「教えてあげてもいいよ。君がわたしの『ペット』になってくれるのならね」

「気色悪（きしょくわる）い、不気味（ぶきみ）な女だ。とうてい正気（しょうき）とは思えない。人間を家畜（かちく）に変えるのが趣味（しゅみ）なのか？」

「そうだよ。だって、楽しいじゃん？」

　両手の指を噛（か）み合わせて、前のめりの姿勢（しせい）を取る。

　実験動物を前に舌をなめる、気の触（ふ）れた学者のように。

　その表情は自分自身に陶酔（とうすい）しきった笑顔（えがお）だ。

「狂（くる）っている……お前の目的は、いったいなんだ？」

「だから、君がペットになってくれるのなら――」

「黙れ、黙れ！　頭が痛い……また、術をかけようとしているな！？」

「うふふ。そのとおりだよ、ウ・ツ・ロ・くん？」

「う……」

「柾樹も龍子（りょうこ）も、とっくにわたしの支配下（しはいか）なんだよ？」

「な……に……？」

「虎太郎（こたろう）くんは若いから見逃（みのが）してあげているけれど、柾樹と龍子はもう、ね？」

「く……なんて、ことを……」

「弱みを見せた人間を食らいつくすこの術でね。ふふ、ウツロくん、わたしが二人に何をしているか（・・・・・・・）、知りたくない？」

「う……あ……」

「かわいいんだよ、あの二人。遊んであげるとね。わたしの命令なら何でも、喜んできいてくれるんだ。君も仲間に入りなよ、ウツロくん？」

　ウツロが完全に彼女の術中に落ちようとした、そのとき――

「雅い、ウツロくん見なかった？」

　真田龍子の伸（の）びのある声が、医務室の中にこだました。

「うっ……」

「あれ、ウツロくん、ここにいたんだね。雅と話してたの？　ごめんね、邪魔しちゃって」

「いや、いいんだ、真田さん……」

「大丈夫？　顔が青くなってるよ？」

「ああ、たぶん……しばらくぶりに栄養を取ったから、血が一気に脳へいったんだ。少しふらふらしたから、星川さんに診（み）てもらってたんだよ。もう落ち着いたから、安心して」

「そ、そうだったんだね。落ち着いたのなら、何よりだよ。でも、無理しちゃダメだよ？」

「う、うん……ありがとう」

　面倒事（めんどうごと）は避（さ）けたほうがよいし、何より真田龍子へ危険がおよぶことだけは回避（かいひ）しなければならない。

　そう判断して、ウツロはとっさに場（ば）を繕（つくろ）った。

　それは結果的に、星川雅を擁護（ようご）する形（かたち）だった。

　彼女はそれが屈辱なのか、苦々（にがにが）しい顔つきをしている。

「龍子、どうかしたの？」

「あ、いや、布団（ふとん）を敷（し）こうと思ってウツロくんの部屋に行ったら、いなかったからさ。ごめんね、会話の途中（とちゅう）に」

「いや、いいんだよ。適切（てきせつ）な処置（しょち）は終わったから、もうオーケーだよ。ウツロくん、何度も言うけれど、くれぐれも安静（あんせい）にね？」

「あ、うん。ありがとう、星川さん……」

「布団は敷いておいたから、横になってるといいよ」

「うん、そうだね。ありがとう、二人とも（・・・・）。気をつかってくれて……」

「さ、肩（かた）を貸（か）すから。雅、ありがとうね」

「何にもだよ龍子。ウツロくんを、お願いね……」

　身を寄せ合いながら退室する二人の背中を見つめながら、星川雅はペロリと舌をのぞかせた。

「やれやれ」

　事務用チェアに体重を預（あず）け、ため息をつく。

　ギシッという椅子の軋（きし）む音が、医務室の沈黙（ちんもく）を一瞬（いっしゅん）、切り裂（さ）いた。

　彼女の表情が次第（しだい）に、まがまがしいものになってくる。

「親友だと思い込んで、調子に乗りやがって……メス豚（ぶた）のくせに、生意気（なまいき）なんだよ……」

　その存在そのものが狂気（きょうき）。

　彼女を形容（けいよう）するのに、これほどふさわしい表現は見つからなかった。

　星川雅は真田龍子へ怨念（おんねん）を向けるかのように、呪詛（じゅそ）の言葉をそらんじた。

「次に術をかけたとき、どうしてやろうか……ガチで豚にするか？　そうだ、それがいい。手も足も切り落として、豚に変えてやる。わたしのウツロを奪った罪は重い、重いぞ、豚女（ぶたおんな）……！」

　くるっと回したシャーペンを、信じられない怪力（かいりき）をこめてへし折った。

　強く握りしめたその拳（こぶし）から血が滴（したた）る。

　そしてハッと、われに返った。

「ああ、いけない……私としたことが、久しぶりにやらかしてしまった。てへえーっ！」

　ひとりで滑稽（こっけい）なノリツッコミを披露（ひろう）する。

　血迷（ちまよ）ったとき精神を落ち着かせるための、自己暗示（じこあんじ）だった。

　彼女は目いっぱい伸びをして、さらに気持ちをリラックスさせた。

「ふう……」

　デスクの引き出しを開け、手のひらサイズの黒光（くろびか）りする機器を取り出す。

　ラジコンの操縦桿（そうじゅうかん）のようなそれの、スイッチをオンにした。

　盗聴器（とうちょうき）――

　食事のあと、ウツロの部屋に仕掛（しか）けたものだ。

　彼女が最初に席を立ったのは、それが目的だったのだ。

　深々（ふかぶか）と椅子に腰をかけなし、星川雅はその受信機（じゅしんき）を、手の上でひらひらともてあそんだ。

「龍子なんかに、渡さないんだから……」

（『第３１話　告白（こくはく）』へ続く）