第21話 夜の歌

 畳張りの和室、十二帖。


 部屋を四分割したとき、上座の上座はベッドで占められている。


 その隣には木目調の本棚があり、中は書籍やCDで満たされている。


 あとはちゃぶ台を模したテーブルくらいか。


 そのテーブルの前後に、座布団が対になって敷かれている。


 彼が用意してくれたのだろう。


「お客さんは上座へどうぞ」


「え、失礼じゃ?」


「どうぞ、どうぞ」


 真田虎太郎さなだ こたろうにいざなわれて、ウツロは上座側の座布団へと座った。


 ちゃぶ台の上には、陶器の皿に盛りつけられた、茶色っぽいものが置いてある。


 甘く、いい香りのする円盤状のものが二つ。


「これは、お菓子かな?」


「どら焼きというんです。どうぞ、お召し上がりください」


「あ、ありがとうございます」


 この子がまさか毒など盛るわけはないだろう。


 それに、断るのは失礼だ。


 ウツロは初めて目にするその「どら焼き」を口に含んだ。


「う……」


「ウツロさん?」


「おいしい……」


「よ、よかったです」


 なんだろうこれは?


 ホクホクした柔らかい生地と濃厚なこしあんが絡まって、口の中に無上の幸福をもたらす。


 あまりの美味にウツロはつい、ほおばってしまった。


「こんなにうまい食べ物があるんだね」


「どら焼きとは、そういうものです」


「どら焼きか、まるで魔法のお菓子だね」


「麦茶もご一緒にどうぞ」


「ど、どうも」


 行き届いたもてなしを受け、ウツロは恐縮した。


 しかし、ただ食べているだけというのも違う気がする。


 ここは何か、話を切りだそう。


「さっきはありがとう虎太郎くん。俺を守ってくれて」


「いえいえ何にもです。柾樹まさきさんは悪い人ではないので、嫌いにならないでください」


「ん、虎太郎くんがそう言うのなら……」


 あの気に食わない男の、一挙手一投足が脳裏をよぎる。


 しかしほかならぬ虎太郎くんがそう言うのならと、ウツロはとりあえずのみこむことにした。


 実際は腹にすえかねているのだけれど。


 うーん、何か話題はないのか?


 彼が考えあぐねていると――


「音楽、聴きましょう!」


 右手をひょいと上げて、真田虎太郎はウツロを誘った。


「え、音楽かい? 俺はそんな難しいの、わからないよ?」


「音楽は、難しくないです」


「そう、なのかい? じゃあ聴こうか、音楽」


「聴きましょう、聴きましょう」


 真田虎太郎は本棚から、一枚のCDとプレイヤーを取り出してきた。


 プレイヤーをコンセントへつなぎ、上部のトレイを開ける。


 CDをケースから取り出すと、そこにセットしてふたを閉める。


 見たこともない道具の数々と一連の行動に、ウツロはただただポカンとしていた。


 自分は何も知らないんだなという困惑である。


「グスタフ・マーラーという人の曲なんです」


「はあ、マーラー、ですか……」


 真田虎太郎は閉じたCDケースを両手でひょいと差し出した。


   グスタフ・マーラー 交響曲第7番ホ短調「夜の歌」


 裏面にはそう記述されている。


「こちらがマーラーの資料になります」


 彼はちゃぶ台の下から、もそもそとA4サイズのコピー用紙を取り出して、ウツロに手渡した。


 紙面には作曲家の基本情報と、くだんの曲目を簡単に解説した内容が、パソコンで記述して印字してある。


 真田虎太郎が書籍やネットなどを参考として自分用に作成してあったものを、今回ウツロのために突貫工事でまとめなおしたものだった。


 しかしそこには触れないところが、彼の謙虚な性格を物語っていた。


   *


 グスタフ・マーラー


 旧オーストリア領、現チェコ領の村カリシュト出身の指揮者、作曲家


 未完の作品も含め、番号つきの交響曲を10曲、ほか歌曲やカンタータなどを作曲。


 交響曲第7番ホ短調は、第2および第4楽章を作曲者マーラー自身が「夜曲やきょく」と呼んだことから、「夜の歌」と通称される。


   *


「タイトルが気に入ったので、姉さんに買ってもらったんです」


 資料に目をとおすウツロの思惑に、真田虎太郎はドキドキしている。


 いっぽう肝心のウツロはチンプンカンプンだった。


 きっと、おそろしく難解なものに違いない。


 せっかくの誘いではあるが、さて……


 彼は内心どうしたものかとうなった。


「聴いてみましょう」


 戸惑う彼を尻目に、真田虎太郎はプレイヤーの再生スイッチを入れた。


 いったい何が飛び出してくるのかと、ウツロは息をのんだ、が――


 何かが聴こえる、音だ。


 何なのだこれは?


 この音の洪水は?


 これが音楽というものなのか?


 静かな管弦楽がゆっくりとしたテンポで、しかしひどく重い旋律を奏でている。


 大太鼓のかすかな響きは、まるで地鳴りか遠雷のようだ。


 誰かが鋼鉄製の棺桶かんおけを引きずりながらとぼとぼと歩いていて、ときどき硬い地面にその端っこをこすりつけている――


 そんな音楽だ。


 しかしウツロの所感は違っていた。


 本質は同じでも表現が違う、という意味であるが。


 森、これは森だ。


 深く暗い森。


 彼はそう感じたのだ。


 テノール・ホルンの主題が陰鬱いんうつに鳴り響く。


 当然ウツロは、楽器の名前など知るよしもない。


 しかし聴覚へ働きかける情報から、彼は脳内でマーラーの精神構造を分析し、その表現しようとする映像をイメージする。


 虫、虫だ。


 この楽器が奏でる旋律は、まるで虫が這っているように聴こえる。


 つまりこれは、この音楽は……


 暗い森の中を、一匹の虫がさまようように這っているわけだ。


 それはまさに、俺のことではないのか?


 お師匠様やアクタと切り離され、たった独りで森の中をさまよい、恐怖におびえていた自分。


 いや、あのときの特定的な体験だけではない。


 もっと広い意味を含んでいるのではないか?


 自分の存在を疑い、その意義を手に入れようともがいている。


 そんな俺の存在そのものにも、当てはまるのではないか?


 ひいては人間自体の存在について、いや、存在するとはどういうことなのかについて。


 その気になれば無限に一般化できる命題なのではないか?


 そうだ、これは音による命題なのだ。


 マーラーという作曲家はきっと、音楽による哲学者なのだ。


 思索を音楽に昇華し、またその音楽によって、聴き手に問いかけているのではないのか?


 われわれはいったい、何者であるのか?


 と。


 なるほど、「夜の歌」とはよくいったものかもしれない。


 「夜」とはメタファーであって、作曲者マーラーが存在そのものに対する懐疑を投影し、それを比喩ひゆとして表現しているのではないだろうか?


 そしてそれは、決して明けることのない「夜」なのではないか?


 ウツロは音楽を鑑賞しながらこのように思索した。


 この共感は能動ではなく、彼の思考回路とマーラーのそれがリンクしたことによる、受動的な現象だった。


 鏡越しに自分自身と対話をしているような親和。


 それはまさに「双方向に響き合うシンフォニー」以外の何物でもない。


 音楽は次第に盛り上がっていく。


 毒虫は打たれ、嘲笑ちょうしょうされ、あえぎ、うめきながら、それでも果敢に突き進んでいく。


 人生――


 これは人間の人生なのだ。


 樹海の奥底に突然視界が開けて、巨大な花園が出現する。


 隠された天国の色香いろかに誘われて、極彩色ごくさいしきの蝶たちが群れ遊んでいるようだ。


 ウツロはあの魔王桜まおうざくらがいた原を想起した。


 怪しくも美しかったあの場所を。


 ここはマーラーが封印した楽園なのか?


 ため息すら出す暇もない。


 彼はすっかり打ちのめされてしまった。


 人間の表現の力にだ。


 鑑賞した第1楽章は時間にして三十分程度だった。


 だが、長さはまったく感じなかった。


 むしろずっとひたっていたい、永遠に音楽が終わらなければいいのに。


 ウツロはそう考えた。


 しかしながら曲の結びには少なからず驚かされた。


 大団円に終わっていたからだ。


 マーラーは森に出口を見出したようだ。


 この暗く深い森に。


 彼は愛読書である「リヴァイアサン」の備忘を思いだした。


 あの備忘者も、あるいはこのマーラーも、見出している。


 暗闇の中に光明こうみょうを。


 俺は見出せるのか?


 「人間論」に。


 暗黒に閉ざされた海を小舟でわたるようなこの人生に、ともしびを――


   *

 

 音楽が鳴りやんでからどのくらいたったのだろうか。


 真田虎太郎は黙っている。


 いや、黙っていてくれている・・・・・・・・・・のだ。


 彼は俺が何かに気づくのを待っているのだ。


 その気になれば肉体が朽ち、むくろとなるまで待っているのかもしれない。


 ウツロはそんなことを考えて、おもむろに彼に語りかけた。


「虎太郎くんは、こんな難しい音楽がわかるんだね」


「いえいえ、ウツロさんのほうがよくわかるかなと思ったんです」


 ハッとした。


 やはりだ。


 この子が俺にこの曲を聴かせたのは、そういう理由があったからなのか。


 待てよ、ということは――


 この真田虎太郎という少年もまた、この音楽に深く暗い森を、その中を這う虫を、あるいはそれと等価な何かを、見出しているというのか?


 たずねてみたい。


 この少年ならもしかしたら、俺の問いかけに解答を与えられるのではないか?


 ウツロにその衝動を抑えることはできなった。


「虎太郎くん、その……人間って何なんだろう? 俺は自分が人間ではない、おぞましい毒虫のような存在であるように思ってしまうんだ。でも、毒虫だって、美しい蝶になりたい。毒虫も、もし這いつづけるのなら、蝶になれるんだろうか?」


 ウツロの口から発せられた問いかけは、真田虎太郎によほどの衝撃を与えたようだ。


 姿勢はエビのように前のめりに反らせ、ひざの上で握るこぶしは強さあまってズボンに食いこみ、全身を小刻みに震わせている。


 ジッとウツロを凝視していたかと思えば、眉間みけんとまなじりがしわくちゃになるほど目をつむり、挙句の果てには目玉が飛び出るのではないかというほど眼孔を見開く。


 彼は何やら嗚咽おえつするようにうなりながら、その解答を必死で探しているようだった。


 真田虎太郎の瞳孔が極限まで収れんしていく様子を垣間見て、さすがのウツロもあわてふためいた。


 このまま彼を放っておいては、いくらなんでもまずい。


「虎太郎くん、落ちついて」


 ウツロは焦りながらも、真田虎太郎の力みを取り除こうと試みた。


 その一言に、彼も何とかわれに返ったようである。


 息づかいは荒いが肩で深呼吸をし、必死で酸素を取りこもうと努力しているように見える。


「ごめん、変な質問をしてしまって」


 やっとのことで彼の吸気のリズムが落ちついてきたので、ウツロはとりあえず安堵あんどした。


「すみません、悪い癖なんです。いろいろ考えちゃうのは」


 なんということだ、この子も俺と同じ苦しみを持っているんだ。


 自分だけではないという事実が、彼に安心を与えるいっぽうで、年齢の下である真田虎太郎が、やはり自分のように苦しまなければならないというある種の悲劇に、背負ってしまった宿命の残酷さを感じた。


 うれいに満たされたその心が、どんよりとした空のようにくもってくる。


「俺もよく言われるんだ、いらないことは考えるなって。考えちゃうものは仕方ないのにね」


 ウツロは少しうなだれる感じで言った。


 真田虎太郎はその告白に驚き、同じ苦しみを抱える者への共感を示した。


「ウツロさんも、考えちゃうんですか?」


「うん、考えすぎちゃってつらくなることもあるんだ。ひょっとして虎太郎くんもかい?」


「はい、頭の中がぐちゃぐちゃになっちゃうんです」


「そうだったんだね、俺もなんだ。いろいろ考えちゃって、頭の中がぐちゃぐちゃになるんだよ。本当にごめんね、くだらないことをきいてしまって」


「いえいえ、何にもです。気にしないでください」


「やさしいんだね、虎太郎くんは。こんなことをした俺なんかを気づかってくれて」


「ウツロさんはなんだか、他人とは思えないのです」


 ウツロはまたハッとした。


 なんて強い子なんだろうか。


 俺と同じ苦しみを抱えていながら、この強さはなんだ?


 いま彼は、自分が苦しんでいながらも、俺のことを気にかけていてくれる。


 それにどれほどの強い精神力を要するというのだろうか?


 やっぱり自分のことしか考えていないのだ、俺は。


 恥だ、恥ずかしい。


 俺はなんて狭量きょうりょうな存在なのだ。


 姉にしても弟にしても、なんて慈愛に満ちあふれた存在なのだろう。


 ウツロは真田姉弟さなだきょうだいへの感謝と、自分への卑下が入りまじった精神状態の中で、うれしさともくやしさともつかない落涙を、必死で隠したのだった。


「はっ、生意気なことを言ってしまいました。すみません」


「いやいや、とんでもない。うれしいよ、こんなにやさしい言葉はないさ」


 ウツロはもっと話をしていたいと思いつつ、彼の領域を侵犯するのもほどほどにと考えて、キリのよいタイミングで退場しようとした。


「そろそろお邪魔するね。ありがとう、いろいろと教えてくれて。マーラー、面白かったよ。よかったら、あとでまた音楽を聴かせてくれないかな?」


「ぜひ、ぜひ」


 彼はおもむろに立ち上がって、改めて礼を述べると、部屋をあとにしようとした。


「あの、ウツロさん」


 真田虎太郎がふいに、背後から話しかけた。


「蝶になることにではなく、這うことに意味があるのではないでしょうか?」


 ウツロは愕然とした。


 自分よりもずっと若い少年が、そよ風がほほをなでるよりもやさしく、そっと言い放ったその一言に。


 何なのだ?


 何なのだ、この子は?


 蝶になることにではなく?


 這うことに意味があるだって?


 這うことにこそ意味がある?


 それは完成することにではなく、そこに至る過程にこそ、意味があるということではないのか?


 人間――


 そうだ、人間の存在とはまさに……それではないのか?


 すごい。


 すごいぞ、この子は。


 あまりの衝撃に、ウツロは体をひねった状態で硬直してしまった。


 何かまずいことを言ってしまったのかと、真田虎太郎の顔面にはまた、脂汗あぶらあせがにじんできている。


 顔を見合わせたまま、しばらく二人は石化したように動けなかった。


「ウツロくん?」


「わっ」


「虎太郎も、どうかしたの?」


 半開きのドアの隙間から、真田龍子さなだ りょうこの首がにゅっとのぞいている。


 口をすぼめてすっとぼけた顔面が突然現れたことにびっくりして、ウツロはひどく間の抜けたリアクションをしてしまった。


 彼女はヘンテコな表情で二人を交互にながめる。


「いや、姉さん。ウツロさんとのお話が楽しくて、つい固まってしまったんです」


「え、そうなの?」


「うん、そうなんだ真田さん。虎太郎くんのしてくれるお話がとても面白くてね。はは」


「お、おう、よかったよ。やるじゃん、二人とも」


「ははは、何にもです」


 真田虎太郎のナイスフォローによって、とりあえずなんとか事なきを得た。


 同時にウツロの張りつめた心も、風船の空気が抜けるように解放されたのであった。


「ウツロくん、部屋の用意が整ったから、ちょっと確認してほしいんだけど――」


「え? あ、ありがとう真田さん。じゃ、虎太郎くん、そういうことで。充実した時間をありがとうね」


「いえいえ、どういたしまして。ははは」


「変なの……」


 変なのはあんたの顔だよと、二人はのどまで出かかっていたが、真田龍子の登場もまたナイスタイミングには違いなかったので、そこは何も触れず、彼女の誘導にしたがうことにした。


「さ、ウツロくん」


「う、うん。じゃあ虎太郎くん、お邪魔しました」


「また、いつでも、いらしてください」


 ウツロがドアを閉めきるまで、真田虎太郎はひらひらと手を振っていた。


(『第22話 パノラマ』へ続く)

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