校長先生の異常な愛情

 放課後、教室の掃除を終えた有栖川達也ありすがわ たつや雪村翔吾ゆきむら しょうごは、夕日の差す窓辺で、とりとめのない会話に興じていた。


「あ」


 雪村は教室のドアの陰に、杖をつくひとりの老人の姿を見つけた。


 その老人はなにやら、小脇に薄い本の束をかかえている。


「なんだ?」


 有栖川もそちらへ首をひねった。


 老人はニコニコしながら、ゆっくりと口を開いた。


「お掃除かね、精が出るのう。ふぉふぉ……」


 老人は細いまなざしでほほえんでいる。


「誰だ?」


「さ、さあ……」


 有栖川と雪村は顔を見合わせた。


「なに、なに?」


 教室の後ろで掃除用具をしまっていた宇佐木眠兎うさぎ みんとがやってきた。


「あの人」


「え?」


 有栖川が差した指のほうへ顔を向けると、老人はやはりニコニコと笑っている。


「校長先生、お散歩ですか?」


 宇佐木はそう言った。


「校長」


「先生……」


 雪村と有栖川はまた顔を見合わせた。


「おお、宇佐木くん。元気かね?」


「あったりまえですよー。校長先生こそ、お元気そうでなによりです」


「ふぉふぉ。そう言ってくれるのは君だけじゃて」


 有栖川と雪村はマジマジとその「校長先生」のほうを見た。


「うちの学校に、校長先生なんていたんだな……」


「本当、僕もはじめて知りましたよー」


 そんなことを口走った。


「ふぉふぉ、えらい言われようじゃのう。わし、涙目……」


 老人は鏡のような頭を光らせて言った。


「こら、二人とも! 校長先生に向かって失礼な! この方は教育者の鑑のような人なんだよ!?」


 「かがみ」のようなのはと、有栖川と雪村は思った。


「宇佐木くん、それはほめすぎじゃよ。わしはただ、だらだらと教師をやってきただけじゃから」


「ご謙遜なさって! さすがは稀代の名教師でいらっしゃる!」


「いやいや、なんだか照れくさいのう。ふぉふぉ……」


 宇佐木は校長先生が携えている薄い本の存在に気づいた。


「先生、またコレクションが増えたんですか?」


「ああ、これかの? 最近、年がいもなくネットっちゅーのを覚えてのう。ふぉふぉ、困った性分じゃて」


「ショーペンハウアーいわく、本は読んでも読まれるなだそうですよ? 読書もいいけど、本に読まれないようにしてくださいね?」


「ふぉふぉ、さすがは宇佐木くん。プラトンも言っておるが、肉体は魂を縛る牢獄じゃでのう。人間の肉体というのは、おしなべて解放を求めるものなのじゃよ。ふぉふぉ……」


「あはは、校長先生にはかなわないなあ」


「いやいや、君もじゅうぶんにやりおるよ、宇佐木くん」


 二人は湿ったまなざしを互いに送りあった。


「それじゃあわしは、この辺で失礼するよ。このあと来客があるのでのう」


「きっとそのお客さんが帰るのには、ずいぶんと時間がかかるんでしょうねえ」


「ふぉふぉ、やりよる、やりよる……」


「備品の使い過ぎはダメですよ?」


「やりよる、やりよる。ふぉふぉ、それじゃあのう……」


 校長先生はカタツムリのようなかっこうで、その場をあとにした。


「いったい何の話だったんでしょう?」


 雪村は有栖川に問いかけた。


「さあな。この世の終わる日がいつか知らねえように、そんなこと知らねえ」


 有栖川は崩れた泥のような顔で答えた。


「でも校長先生、はじめて知りましたけど、すごいいい感じの人ですね」


「いい感じの人、ね……」


「どうしたんですか、有栖川先輩?」


「いや、くだらなすぎて死にそうでよ……」


 こうして有栖川は机の中へ沈んでいった。


 彼らを照らし出す赤い夕日が、ゲラゲラと笑っているかのようだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る