横浜駅SF/柞刈湯葉


  <バブルの図書館>



 図書館と呼ぶには、あまりに雑然とした部屋だった。

 人間社会の――つまり、人間がまだ社会を統治していた時代との類比で考えるなら、製本所の、刷り上がった本を積んでおく倉庫に、大きな嵐が通り過ぎた跡、と形容すべきであろう。床から湧き出してきた同じ本ばかりが、子供の背丈ほどに積まれ、崩れ、小さな山を形成している。

 エキナカ住民はこの奇妙な空間を、「14階層の図書館」と呼んでいた。

 部屋はちょっとした小ホール程度で、積まれている本の種類は、せいぜい数百点といったところだろう。だが、多量の書物がある場所が「図書館」だという知識が、どこかから持ち込まれたようだった。

 不安定な蛍光灯の下に、老婆がひとり。

 折り畳み椅子に腰掛けて、体温の散失を防ぐようにそっと身体を丸めて、小さな本を読んでいる。

 時計のないこの部屋で、その代行をするように、一定のリズムでページをめくっていく。

 開いたままの扉から、人影がひとつ。

 首を動かすのも億劫そうに、老婆は目だけをそちらに向ける。

 それが危険でないことを確認すると、また目を本に戻す。一歩一歩、相手の近づく音がする。

「お久しぶりです、司書さん」

 と、若い女の声が聞こえる。下に向けられた老婆の目線に、ジャージのような服が見える。

「久しぶりなァ、眼鏡さん」

 老婆は半分ほど空気の混じった声で、煩わしそうに話しかけた。

 眼鏡さんと呼ばれた彼女――二条ケイハは、部屋のなかを歩き回って、そのへんの山を見ては、タイトルを一瞥して次の山へと歩いていく。普段、117階層の「根付屋」にいる彼女が、ここの現れるのは三ヶ月ぶりだった。

 既に不正認定された Suika を持ち、直交座標偽装によって自動改札の目を欺いているケイハにとって、低層は、あまり気軽に近寄れる場所ではない。

「何か使える本がないかな、と思って来たんだけど……」

 と、ひとりごとのように声を漏らした。

 14階層は、かつて人工物のビルが到達していた高さだ。そこに蓄積されていた書籍が、構造遺伝界によってこの部屋で、際限なく複製されている。

「前と同じね。司書さんはここにいる間、新しい本が出るのを見たことある?」

 と尋ねた。

 老婆は、誰が呼ぶともなく「司書さん」と呼ばれていた。図書館に普段いる人間を司書と呼ぶという、やはり断片的な知識がそこに引き継がれている。

 返事はない。

 右手でページをめくり、左手で何かを噛んでいる。老婆の手の一部のような皺だらけのそれは、何かのドライフルーツのようだった。

 読み終わったとおぼしき本が、折りたたみ椅子の脇に積まれている。

 どれも同じ背表紙だ。

〈現代語訳・方丈記〉と印字されているが、このタイトルを刻んだ者がいつを指して「現代」と呼んだのかはわからない。あらゆる時代の人間に、それぞれ別の現代がある。

「同じ本をいくつも読んでるの?」

じゃあ、ないよ」

 老婆はドライフルーツを口に入れて、積まれた山のいちばん上を取って開いた。

「ほれ。こことここが、違っとる」

 と、最初の行を指した。

「川の流れは絶え間ないが、水は常に人れ替わり続け、もとの水がとどまることはない」

「川の流わは絶え間ないが、水は常に入れ替わり続け、もとの水がとどまろことはない」

 ケイハがそれをじっと見ると、文字が少しだけ置き換わっていることに気づく。両方の文がそうなっているので、どちらがどちらを複製したのではなく、オリジナルの本が構造遺伝界によって複製される際に、それぞれ別の箇所が変異したのだろう。

 構造遺伝界による複製はかなり不完全であり、ある構造が似た別の構造に置き換わる。それが普遍的な現象であることは、エキナカを長く歩けば誰でも気づく。河川や海峡に、連絡通路を渡して飛び越えるためには、そのような変異能力が必要になる。

 だから、内装の不連続的な変化があれば、そこは自然の川を飛び越えた跡なのだ、とわかる。

 京都から長くエキナカを歩いてきたケイハは、それを経験からよく知っている。

 ケイハは老婆の開く本の少し先を見た。

「貴い、あるいは卑しい人の家は、不変のようにも見えるが、昔からある家というのは稀だ」

「貴い、あるいは賤しい人の家は、不変のようにも見えるが、昔の家がそのまま残ることは稀だ」

 この文の末尾は少しおかしい、と直感する。

 形の似た別の文字ではなく、意味の似た別の文に変わっているのだ。

 これはつまり、構造遺伝界が単に文字の形状を認識しているのではなく、書かれた言葉のを理解している、ということを示唆する。

 駅構造に芽生えつつある、意思のようなものが、そこに見え隠れしているようにも見える。

 ケイハが老婆に何かを言いかけた、その時――

 かんかんかん、と、開いたままの扉をノックする音が背後で響いた。

 制服と制帽を被ったひとりの男が、ドアの前で直立している。 

「先日、上層部で本都市の情報統制に関する意思決定が行われまして」

 駅員だった。

 エキナカの住民の一部で、駅の管理者を勝手に名乗っている組織だ。彼はふたりに向かって、書面を読むように声をあげた。老婆は顔も上げずに、本を読み続けている。

「こちらの図書館を、本日付で廃棄させていただくことが決定しました」

 と言って礼儀正しく頭を下げると、背後から大勢の駅員たちが、どこから用意したのか、リアカーの列を持って部屋に入ってきた。

 砂糖に群がる蟻のように、あちこちの山に寄っては、中身をリアカーに積み上げていく。

 ケイハはそれを黙って見ていた。不正な手段で滞在している彼女は、駅員と揉め事を起こすようなことは極力避けている。

 司書と呼ばれた老婆も、あまり関心なさそうに、本が運ばれていくのを見ていた。

 駅員たちは人海戦術で、あれだけ積まれていた本を、老婆の脇に積まれていた〈現代語訳・方丈記〉も含めて、あっという間に搬出してしまった。長らく本が乗っていた床は、電灯による退色を受けなかったせいか、まわりの床とわずかに色が違う。

 部屋ががらん堂になってしまうと、壁に張り巡らされたケーブルやパイプラインがいやに目立つ。そんなものがこの部屋にあったことを、ケイハは今になって気づいた。

「ああ、困ったねぇ」

 と、老婆はあまり困ってなさそうに言った。

「また出てくるのを待たないと」

 と袋に手を入れて、まだ残っていたドライフルーツを噛みはじめた。きっと明日もそうしているのだろう、とケイハは思った。

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