21時

 初めて吉乃の部屋を訪れた時、大変緊張した事をよく覚えている。当時は無自覚だったが好きな女の子が一人暮らしをする部屋にお呼ばれした訳で、今思い出せばよくあの程度の緊張で済んだものだとすら思う。

 その後も恋人として何度も立ち入らせてもらった吉乃の部屋。やはり緊張はあったのだと思うが、彼女に会える喜びや高揚がそれを響樹に気付かせなかった。


 だが今日はそうもいかない。なんとか平常心を保ったフリをしてオートロックを開錠してもらい辿り着いた吉乃の部屋の前、響樹は自身が提げたスポーツバッグを見下ろして深く息を吸う。そしてそれを吐き出しながらインターホンを押すと、目の前の黒い扉がゆっくりと開かれた。

 その陰からやわらかく笑った吉乃が顔を覗かせ、響樹の荷物をじっと見つめた後で誤魔化すようにはにかみを浮かべた。


「……こんばんは、響樹君」

「こんばんは、吉乃さん」


 緊張しているのが自分だけではないのだなと、そんな当たり前の事を改めて思うと少し気持ちが落ち着く。


「どうぞ。上がってください」

「ああ、お邪魔します……それから、お世話になります」


 スリッパを履いてから向き直り軽くではあるが頭を下げると、吉乃は一度まばたきを見せた目を細め、口の端を優しくほんの少し上げた。


「どうしました? 改まって」

「親しき仲にもってな。何てったって今日は、泊まらせてもらう訳だし」


 理由など当然分かっていただろうに、とぼけてみせた吉乃が響樹の言葉でほんの少し頬を染める。

「はい」と囁くような声で小さく頷き、首を傾けた吉乃が可愛らしくしなを作った。


「響樹君の家だと思って寛いでください」

「それは無理だろ」


 また少し緊張がほぐれた。吉乃の方もきっとそうなのだろう、いつものようにふふっとやわらかく笑い、「どうぞ」と響樹を促す。


「響樹君、いい匂いがしますね」

「風呂入ってきたからな」


 部屋の隅に荷物を置いた響樹の後ろから吉乃がそっと抱き着きながらそう口にした。声音からは少し不機嫌、と言うよりもいじけたような印象を受ける。


「言っただろ? 風呂まで借りるのはハードルが高いんだよ……まだ」


 吉乃は当初、「せっかくなので響樹君がくれた入浴剤を使いましょう」と楽しそうに口にしていた。曰く特別な日を選んで大切に使いたいとの事で、彼女にとってはうってつけだったようだ。

しかし響樹としては想像しただけで無理だろうという気持ちでいっぱいだった。一緒に入るというのは当然あり得ないが、順番を考えれば響樹が吉乃の後になる訳で、多分色んなことを強烈に意識させられてしまうはずだ。

 結果何とか吉乃に折れてもらった訳なので、響樹としてはその辺りの恥ずかしい内心もばっちり語らされた。今の言葉でそれを思い出したのか、吉乃はくすりと笑い、響樹を抱きしめる腕にきゅっと力を入れる。


「『まだ』なんですね」

「ああ、『まだ』だよ」


 吉乃の手に自分の手を重ね、いずれはという意思を示す。


「言質、とりましたよ?」

「とられたよ」


 吉乃は響樹を抱きしめていた腕をほどき、小悪魔の笑みを浮かべて正面に回った。

 いつになるかは分からないが、と心の内で付け足しながら響樹はお手上げだと両手を上げてみせ軽く首を振る。


「お茶をご用意しますので、ソファーで待っていてください」

「ああ、ありがとう」


 その言葉に従い少し待ち、いつものように出してもらったお茶を飲み干すと、隣の吉乃が響樹の肩に頭を預けた。

 そして響樹も、いつものように吉乃の髪に触れて撫でていく。横目で窺う彼女の方も、いつものように心地良さそうに目を細めている。


 特に言葉を交わさないのも珍しい事ではない。ただ、その理由はいつもとは少し違うのではないかと、時計に目をやった響樹は思う。

 響樹が自宅で風呂に入ってきた事もあって、普段であればもう夕食後だいぶ時間が過ぎた頃、別れている時間だ。二人で過ごす初めての、夜の時間だ。


「こんな時間に一緒にいるのは初めてで、不思議な感じがします」

「そうだな。ちょうど同じ事考えてた」


 吉乃の顔がこちらに向き、響樹も手を止めて彼女の方へと顔を向けた。ほんの少し眉尻を下げた吉乃は僅かに頬を染めており、「緊張します」とはにかんだ。

「俺もだよ」と告げて頬に手で触れると、吉乃は少し顔を上向かせ、まぶたを閉じた。

 そのまま唇をそっと触れ合わせて離すと、吉乃はぱちりと開いた目を優しく細め、今度は彼女の方から響樹の唇を奪う。


「響樹君……お風呂に入ってきますね」


 はにかみながらそう言い、「……ああ」と応じた響樹の頬にそっと口付けを落とし、吉乃はいたずらっぽい笑みを浮かべた。既に湯上りのように赤い顔の上で。


「待っていてくださいね」

「……ああ」

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