第121話 負けるな

 喫茶店に入って抱いた印象はやはり高そうな店というもの。

 天井からは花弁を模し傘を三つ備えた小型のシャンデリアが吊られており、床には深紅の絨毯が敷かれていてアンティークな雰囲気を感じさせる。

 そしてその絨毯の上には店構えと同じく黒褐色の木材を使用した重厚な角テーブルが並び、同じ色の椅子の四脚とセットで一つの卓になっている。

 店内はそれなりの広さがあるにもかかわらずテーブルの数は十にも満たず、隣の卓との間隔は十分以上にとられている。先客が二人しかいなかった事も相まって経営は大丈夫なのだろうかと、ここでも無粋な事を考えてしまう。それが逃避なのだろうと自分でもわかった。


「好きな物を頼んでいいよ」

「……ありがとう、ございます」


 奥側の席に案内され、宗介が勧めてくれたメニューを内心渋々と受け取った。表面には出さなかったつもりでいるが、現状彼のご馳走になるのは大変抵抗がある。

 隣の吉乃は相変わらず穏やかな笑みをその整った顔に貼り付けたまま何も言わない。


たけえよ)


 時間を無駄にする訳にもいかないので仕方なく開いたメニューだったが、今度は顔に出た自覚があった。それもそうだ、コーヒーが一杯千円するメニュー表など初めて見た。ケーキとセットで千八百円、余計にご馳走になどなりたくない。

 しかしここで問答などしても全くの無意味どころか、それで済めばいい方だろう。


「僕はブレンドを、お願いします」

「私もブレンドをお願いします」

「ああ、わかった」


 メニューを手渡すと、吉乃は開く事も無くノータイムで響樹と同じ物を頼み、そのまま宗介にメニューを渡した。両手できっちりと、丁寧に。

 宗介の方も受け取ったメニューをそのまま脇に置き、店内に控えていた店員に向けて軽く手を挙げた。


「ブレンドを一つと、チーズケーキのセットを二つ」


 白いシャツに黒のスラックスと同じ色のベストとサロンを身に着けた店員は「かしこまりました」と伝票にペンを走らせた後、綺麗な礼をして去って行った。吉乃の姿勢ほどではないと感じたが、それでも質の高い教育をされている事が見て取れる。しかし――


「ええと……」

「チーズケーキは嫌いだったかな?」

「いえ、そうではありませんが……」

「遠慮、と言う訳でもないのだろうがね。気にしないでほしい」

「……ありがとう、ございます」


 横目で窺ってみた吉乃が小さく頷いたので、響樹は諦めて宗介に頭を下げる。


「本日は」


 気にするなと言わんばかりに宗介が響樹に手のひらを向けた後、短い沈黙を経て吉乃が口を開いた。透き通った声に良く似合う穏やかな口調で、やはり穏やかなままの笑みを湛えて。


「お時間を作ってくださり、お足元の悪い中ご足労までいただき、ありがとうございます」


 そう言ってきっちりと、しっかりと伸びた背筋のままで頭を下げる。濡羽色の髪がさらりと流れ、大変に美しい姿であると思う。やはり先ほどの店員と比較しても、贔屓目抜きで彼女の方が洗練されている。

 しかし、それがどうして実の親に向くのだろう。言葉遣いにしてもそうだ。他人行儀どころではないではないかと、胸が痛くなる。


「それこそ気にしなくていい。私の義務だろう」


 響樹に向ける穏やかな顔から一転して吉乃に対して表情が消える。

 そんな表情のせいなのか、義務という言葉のせいなのか、吉乃の細い肩が一瞬だけ震えた。それなのに、彼女は穏やかな笑みを崩さない。もう一度「ありがとうございます」と浅めに頭を下げる。


 今の言葉は間違いなく吉乃を傷付けた。今度こそ罵倒の言葉をぶつけてやりたい気持ちを抑え、響樹はテーブルの下で拳を握って怒りを抑えた。

 しかし目の前の宗介は冷たいという雰囲気ではなく、ただ事務的な対応に思えた。それがどうしても、あの夜に電話で話した彼の印象と重ならない。吉乃の近況に安堵の声を吐き出した宗介は何処へ行ったのか。


「さて、本題は注文の品が来てからにするとして、近々で何か必要な手続きや不足している物はあるか? あるのであれば手配させよう」

「ご配慮ありがとうございます。直近ではありませんが、修学旅行の際には同意書にご記入いただく必要がありますので、年度が変わりましたら改めてお願いさせていただきます」

「そうか、わかった。冴島さんにも伝えておこう」

「ありがとうございます」


 本当にただの業務連絡としか思えないやり取り。吉乃はずっと表情を変えないが、どんな気分でいるだろうか。

 横顔を窺ってみると、吉乃は視線に気付いたのか目を細めてほんの僅かだけ首を傾けた。大丈夫ですと、そう言われた気がした。そんなはずなどある訳が無いのに。


 結局響樹が言葉を挟む事もできずに二人の会話は進む。会話と言っても本当にただの近況報告で、そこに吉乃の感情は加わらない。ただ起こった事を話すだけ。


 そうこうしている内に注文の品がテーブルに並んだ。

 宗介に「いただきます」と断りを入れて口を付けたコーヒーとケーキだが、正直なところ味の違いはよくわからなかった。舌のせいだけではないだろう。


 そして、コーヒーとケーキに手を付けた後も、吉乃は「本題」を切り出そうとはしなかった。ただただ取り留めのない話題が続くだけ。初対面の人間同士が気まずい沈黙を避けるために無理やり会話を続けるようなこちなさを覚えてしまうというのに、二人の表情はそれを感じさせない。

 そして時折響樹にも話が振られるものの、本当に当たり障りの無い事しか言えないでいる、そんな無益な時間が続いた。


「さて。申し訳ないが」


 いつか来るのではないかと思っていた言葉を、一瞬腕時計に視線を落とした宗介が発した。

 隣の吉乃は表情こそ変えないものの、膝の上に置いた手をきゅっと握ったのがわかる。


「そろそろ戻らなくてはなら――」

「待ってください」


 考えがあった訳ではなく、ただ引き止めなければと思っただけ。ここで宗介を帰してしまえば、それはただ一時の別れでは済まないだろう。下手をすれば吉乃の生涯に影を落とす。それだけは許容する訳にいかない。


「待ってください。お願いします」


 だからもう一度、今度は言葉とともに頭を下げた。額がテーブルに着くほどに、姿勢も意識せずみっともない恰好だっただろう。ソーサーの上に置かれたスプーンが衝撃でカチャリと音を鳴らす。


「……顔を上げてくれるかな」


 しばしの沈黙の後、落ち着いた声が聞こえる。


「今は他の客がいないからいいが、私が悪者のように見えてしまう」

「……すみません」


 まさしく響樹にとっては悪者そのものであるが、顔を上げた後で苦笑の宗介に再び頭を下げる。


「少し電話をしてくる。10分ほどで済むと思うから、待っていてくれるかな?」


 吉乃ではなく響樹に向けた言葉。窺ってみた彼女の顔からは穏やかな笑みは消えており、じっと響樹を見つめる瞳は久しぶりに見る、迷子になった吉乃のもの。


「わかりました。ありがとうございます」

「なに、構わないよ」


 宗介は穏やかに笑い、そのまま店の外へと出て行った。吉乃はそんな彼の背中をじっと見つめて伸ばしかけた手をきゅっと握り、弱々しく膝の上に戻した。


「響樹君」

「ん?」

「ご迷惑をおかけしてすみませんでした」

「いいって。おかげで美味いもんが食えた訳だし」


 正直味はよくわからなかった。それでも穏やかな笑みを浮かべる吉乃におどけて見せたが、彼女の表情は変わらない。


「そんな顔するなよ」

「暗い顔はしていませんよ?」


 こてんと首を倒した吉乃は可愛らしく映るだろう、響樹以外には。


「暗い顔してくれた方がずっとマシだ」


 こんなに可愛らしく、痛々しい笑顔を見るくらいならば。


「俺の前でだけは、ちゃんと吉乃さんの素顔を見せてくれ」

「……響樹君が困るでしょう?」

「そんな訳無いだろ」


 言葉と同時に椅子を近付けて手を握ると、「ありがとうございます」と吉乃が顔を伏せた。涙を流す訳ではなかったが、眉尻を大きく下げ、いつ泣き出してもおかしくはない表情を見せる。


「辛いなら泣いてもいい。俺しか見てない」

「泣きません」


 かすかに震える声とともに、吉乃は小さく首を振る。そして、響樹のもう片方の手を取り両手をぎゅっと握った。

 響樹のものより小さく薄い手はやはり少し震えていて、それを抑えるために少し強く握り返すと、吉乃は更にぎゅっと力を込める。


「吉乃さんはどうしたい?」


 吉乃は特別な事など何も求めていなかった。ただ娘として父親と普通に接したかったはずだ。不安な気持ちにそんな思いで蓋をして、勇気を出して今日ここに来たはずだ。

 しかし宗介が響樹に同席を求めた事でそれが砕かれてしまった。だがその上で、今の吉乃が何を求めているのかを聞いておきたかった。


「正直に言うと……わかりません」


 顔を上げた吉乃はまた迷子の、響樹に縋るような瞳を見せる。


「私、どうしたらいいでしょうか? 教えてください、響樹君」


 吉乃が最も傷付かずに済む選択肢を一緒に考えたい。今すぐ抱き締めて、ただただ優しい言葉だけをかけたい、本当は。

 しかし、天羽響樹が何よりも大切な烏丸吉乃のためにする事はきっとそうではない。

 だから響樹はできる限り優しく笑ってみせ、ゆっくりと首を横に振った。


「覚えてるか? 期末試験の後に俺の部屋で話した事」

「……覚えて、います。全部」


 弱々しい声で、吉乃はそれでもしっかりと見つめた響樹から目を逸らさない。


「俺の大好きな烏丸吉乃は、からっぽな人間でもつまらない人間でもない。自分のしたいことをちゃんと自分で考えられる、強くて綺麗で、可愛くて愛おしくて、尊敬できる素敵な人だ」

「…………厳しいんですね」


 しばらく目を丸くしていた吉乃がくすりと笑い、ほんの少しだけ眉尻を下げた。


「吉乃さんの事を信じてればこそだぞ」

「ずるい言い方ですね。そんな事を言われたら……本当に、もう」


 小さく息を吐き、再度「もう」と吉乃は呆れたように、優しく目を細めて笑った。


「やっぱり響樹君は、私の事をよくわかってくれていますね」

「ああ。大好きな人の事だからな」

「もうっ」


 握ったままの手には指圧するかのような動きとともに痛みが加えられたが、吉乃の照れ隠しだと思えば可愛いものだ。


「私の事が大好きな、私の大好きな響樹君」

「……ああ」


 響樹の反応を窺うように見ていた吉乃がゆっくりと手から力を抜き、ふふっと笑った。

 温かな頬の上にある潤んだ瞳がまっすぐ響樹を捉え、首が可愛らしく倒される。


「信じてる。頑張れ。負けるな」

「はい。ありがとうございます」


 ニコリと笑った吉乃はしっかりと頷き、店の扉へとゆっくり視線を移した。

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