第120話 穏やかな笑み

 雨音すら感じさせない弱い雨はしかし、予報の通り止む気配を見せない。


「予報だと日が変わるくらいまでって言ってたっけ?」

「ええ。零時付近から傘マークが消えていましたね」


ところどころへこんだ路面に溜まった水を避けつつ吉乃とゆっくり歩き、駅に辿り着いたところで尋ねてみた。

 因みに駅付近では流石に人が多いため、腕は組んだままであるが吉乃の頭は響樹の肩から離れている。それでもだいぶ視線を集めるのはやはり吉乃故なのだろうと、響樹は彼女から見えないように苦笑を浮かべる。そして、この場所は誰にも譲らないと背筋を伸ばして顔を引き締めた。


「格好良くてとても頼りになりますね」

「……お上手な事で」

「本心ですよ?」


 一瞬弛みそうになった頬を再度引き締めて肩を竦めたが、吉乃は照れ隠しだという事はお見通しらしく、ふふっと笑いながら「行きましょう」と響樹の腕を優しく引いた。



 途中で腕組から手繋ぎに変えて、駅から数分で目的地の喫茶店に辿り着いた。面会場所に選ばれた事からも想像は付いていたが、店はチェーン店ではなかった。白い壁面に黒褐色の木材で飾り付けられた店構えには品の良い高級感を覚え、高校生が気安く立ち入るような場所でない事を如実に感じさせた。


「高そうな店だな」

「ええ。お高いですよ」


 屋根下に入り、傘をたたみながら店を眺めていると吉乃が優しく笑う。


「入った事あるのか」

「ええ。例の、父の部下の方とお会いする際はここですので」

「なるほどな。そういう経緯か」

「はい。元々落ち着いた静かなお店ですけど、打ち合わせやモーニングで利用する社会人の方が主な客層ですので、夕方以降はとても空いていますね」


 確かに今は学生の帰宅時間。小さな通りから聞こえる足音もほとんどが彼らのものだ。


「儲かるのか?」


 メインストリートからは外れているが店の立地としては駅近くで相当な好条件だろう。賃貸であれば家賃も高そうであるし、購入したのであれば減価償却にも時間がかかるだろうと、少し無粋な事を思う。

 しかし吉乃は似たような事を考えた経験でもあったのか、「どうでしょう?」とくすりと笑った。


 待ち合わせ時間までは30分弱、会話が途切れた。互いに正面の喫茶店に視線をやり、少しの無言が続く。握った吉乃の手には一瞬力が入り、静かに息を吸う音が聞こえた。横目で窺ってみた彼女はまぶたを下ろしており、ゆっくりと、やはり静かに息を吐き出す。

 そんな動作をもう一度繰り返してからぱちりと目を開いた吉乃が響樹に顔を向けた。やわらかな、見惚れるほどに綺麗な微笑み。ゆっくりと開かれた唇からは「響樹君」と優しい声音が聞こえた。


「行ってきます」

「ああ。さっきも言ったけど、頑張れ」

「はい。頑張ってきます」


 ニコリと笑って丁寧に腰を折った吉乃が姿勢を戻し、そして彼女の顔から笑みが消えた。大きく見開かれた瞳は響樹の方を向いているが、焦点を結ぶのはその後ろ。


「どうかし――」

「お父さん……」


 吉乃の口からぽつりと漏れた声に慌てて振り返ると、歩いて来たのは黒い傘を差した長身痩躯の男。暗灰色のスーツを身に纏い、首元をボルドーのネクタイで彩り、足元は目の前の店のものとよく似た黒褐色の革靴。

 顔の印象から年齢は響樹の父と同じか少し上ほどの印象を受けるが、髪に白い物は混じっておらず、それを加味するともう少し若く見えた。


 元々母親似であると聞いていたが、烏丸宗介は吉乃と似ていない。宗介も吉乃同様シャープな印象の顔立ちではあるが、男女の違いと年齢差のせいで顔の系統はまるで違う。吉乃に感じるやわらかさを宗介からは感じない。

 目元も切れ長ぎみなのは同じであるが、吉乃と違って宗介の目に丸みは無く、響樹ほどではないが鋭さを感じさせる。


「久しぶりだね」

「……はい」


 同じく屋根下に入って傘をたたんだ宗介は、穏やかな声で、しかし感情の無い顔で吉乃に声をかけた。

 対して吉乃は一度伏せかけた顔をしっかりと上げ、小さな声ではあったがしっかりと宗介の顔を見て言葉を返した。しかしその視線がぶつかる事は無く、彼の方の視線は既に響樹に向いている。一瞬、ほんの僅かの間だけ震えた唇を、吉乃がきゅっと結んだ。


「君は? 娘のお友達かな?」


 吉乃に向けた無感情な顔から娘の友人に向ける親としての顔に変わったのだろう、宗介は穏やかな笑みを浮かべる。実際に会ってみて初めて吉乃との血縁を感じさせる笑みだと思った。

 宗介からすればこの場にいる男子高校生が誰かなどは当然承知だろうに、例の約束を守るために質問をしてくれたのだとわかる。それについて響樹は心中で頭を下げたが、どうして親としての顔を吉乃に向けてやらないのかと、相反する感情も抱く。


「ご挨拶が遅れて申し訳ありません。天羽響樹と申します。吉乃さんとは、お付き合いをさせていただいています」

「そうか。娘が世話になっているんだね。お礼を言わせてもらうよ」

「お世話になっているのはむしろ僕の方です」


 お辞儀をした後、やはり知らないフリをしてくれている宗介にもう一度頭を下げた。彼の表情は変わらない。


「すみません。お邪魔になりますので僕は失礼します」

「いや、気にしないでくれ。娘を送ってくれてありがとう」


 穏やかな表情のままの宗介に三度みたび頭を下げて斜め後ろの吉乃を振り返ると、彼女は眉尻を大きく下げて不安の表情を覗かせこそしたが、すぐに口の端を上げてしっかりと響樹に頷いてみせた。

 本当は寄り添っていたいのに、それは叶わない。響樹がいてはいけない場なのだ。それなのに――


「ありがとうございました、響樹君。後ほどご連絡――」

「ああ、そうだ」


 吉乃の言葉を遮った声に振り替えれば、宗介はいい事思い付いたと言わんばかりに笑い、言葉を続ける。


「天羽君、だったね。せっかくだから君も一緒にどうかな? ご馳走させてもらうよ」

「なっ……」


 何を言った。何故言った。そんな思考が頭を巡り、理解が遅れた。理解を拒んだのだとすら思った。


「……いえ。流石にお邪魔する訳にはいきませんので、お気持ちだけ頂いておきます」


 きっとただの社交辞令だと、そう思って、思いたくて固辞した響樹に宗介は続ける。


「娘も君がいた方が喜ぶだろうし、どうだろうか?」


 吉乃が今日の事を真剣に考えていたと、一生懸命だったと先日伝えたはずだ。応えてやってほしいとも。

 その答えがこれかと思うと、響樹は自分の表情を抑えるのに必死で、握りこんだ拳の痛みに気付くのが遅れた。


(どうして)


 一対一の面会に応じてやらないのか。もちろん宗介と鉢合わせる可能性を考えずに吉乃に付いて来た響樹の責任も大きいが、それでもどうしてと憤りが強まる。

 隣に響樹がいてはぶつけられない気持ちもあるだろうに、何故。そんな気持ちが膨れ上がって爆発しそうになったが、肘の辺りにかかるかすかな重みと穏やかな声が、一瞬で響樹の頭を冷やした。


「響樹君。父もこう言っていますので、是非ご一緒してください」


 吉乃が何を思っていたのか、自身の怒りで彼女に寄り添う事を忘れた自分を恥じた。

 響樹が振り返った時には既に、吉乃の顔には穏やかな笑みが貼り付けられていた。

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