第31話 天羽響樹にとっての烏丸吉乃

「また来週からいつも通りでいてくれますか?」


 表情を見せてはくれなかったが、響樹の制服の裾を摘まんだ吉乃が懸命に発した縋るような声だった。翌日になってもまるで頭から離れない。

「当たり前だ」と響樹は応じた。本当はそうではないのに、でき得る限り吉乃に寄り添って彼女が思う「からっぽでつまらない自分」を否定したいのに、そうとしか答えられなかった。


「集中できねえ」


 誰が見ている訳でもないのに、響樹はわざとらしく手に持ったペンを放り投げて椅子の背もたれに体重を預けた。

 集中などできるはずが無かった。朝起きて朝食をとってしばらくは動く気も起きずボーっとしていて、散歩がてらに制服をクリーニングに出しに行っても、それから昼食までの間も、昼食後の今も、響樹の頭は吉乃に占領されている。


 初めて見た目に涙をためる吉乃の姿、自らを傷つけるような言葉の数々、そしてその理由。何度も何度も頭の中をぐるぐると巡り、その度に胸が痛む。

 そして吉乃に言葉を届かせる事ができなかった自分自身への苛立ちと無力感が募る。


「クソッ!」


 机に拳を叩き下ろすと、鈍い音から少し遅れて痛みが走る。

 八つ当たりの対象が自分の体になった格好だが、鈍痛が少しの間だけ冷静さを与えてくれるので、胸の痛みから逃げるために時々こうやって体にそれを与えていた。


 そしてそれがまた情けなかった。吉乃が耐えてきた痛みはこんなものではなかっただろうに、こんな風に逃げている自分が。

 吉乃はあれだけのものを抱えていながら、そんな事をおくびにも出さなかった。時折寂しそうな顔こそ見せたものの、響樹の中にいる彼女はいつも笑顔だった。

 感情を隠す穏やかな笑みだけではない。楽しそうに、嬉しそうに、優しく、やわらかく、自慢げに、時には響樹をからかうように、吉乃は笑っていた。どれを思い出しても綺麗で可愛らしい、彼女の笑顔。そんな当たり前の事を、響樹はようやく思い出した。


「そうだよ。笑ってただろ、いつだって」


 あれが嘘だったとは言わせない。

 吉乃がからっぽだなどと、そんな事はある訳がない。

 何度考えても、どんな風に考えても、響樹の中でそれだけは絶対の事実だ。たとえ吉乃本人がそう思おうが言おうが、響樹は絶対に認めないし譲らない。そう決めた。


 歌う事が好きだと響樹が指摘した時、確かに吉乃はそれがわからないでいた。響樹に指摘されたから自分は歌う事が好きなのだと、そんな事を言っていた。

 だがそうではなく、吉乃はしっかりと歌う事が好きだったと響樹は思っている。


 他の事に関してもそうだ。吉乃が好きな事、したい事はきっとある。彼女自身が気付いていないだけで絶対に。そうでなければ楽しそうに笑うものか。


 だから天羽響樹のすべき事は吉乃に言葉を届かせる事だ。

「烏丸吉乃はからっぽでつまらない人間なんかじゃない」と、昨日届けられなかった言葉と思いを、今度こそ必ず。

 そのためならば、どんな事だってしてやろう。



 翌日の月曜、約束の通り吉乃はいつも通りだった。少なくとも表面上は。

 いつもと同じように短い挨拶の後でいつもと同じように無言の時間をともにした。


「待ちましたか?」

「今来たとこだよ」

「良かったです」


 門を出たところでいつものやり取りを済ませた時、吉乃は本当に嬉しそうに笑った。いつも通りの彼女ならば満足げにふふっと笑ってそのまま響樹に帰りを促すのだが、今日は違う。

「帰りましょう」と口にした吉乃の頬がその段階でも弛んでいる事に響樹は気付いていた。


(なんでそんなに嬉しそうにするんだよ)


 わかっている。いつも通りでいられる事がそれだけ嬉しいのだろう。

 勉強会の最中、何度か響樹の方に目を向けていた事も知っている。自分がいつも通りにできているか、響樹がいつも通りか、不安で仕方がなかったのだろう。


 いつも通りでいられる事が嬉しい吉乃に反して、そのいつも通りが響樹にとっては辛かった。

 だから、マンションまで送った吉乃の背中に「なあ」と声をかけた。一つの決意とともに。


「次の期末試験、俺と勝負しないか?」

「しょう、ぶ?」


 振り返りざまにきょとんと首を傾げた吉乃は、理解が遅れたのか珍しい事に少し呆けたような顔をしていた。


「ああ、勝負だ。六科目の総合点で点数の高い方が勝ち」

「……それはわかりますけど、その、失礼ですが……」


 完全に体を響樹の方に向けた吉乃は、気まずげに言葉を濁す。

 ほらやはり、いつも通りではいられない。


「わかってる。中間試験48点差だろ? ちょうどいいハンデだ」


 本来なら完全な格下である響樹が言うべき単語ではないので、吉乃は眉尻を下げて曖昧な笑みを浮かべた。

 だがちょうどいいのは事実だ。そのくらいの差を覆す方が、天羽響樹の本気を示す事ができるのだから。


「負けた方が勝った方の言う事を一つ聞く。それでどうだ?」

「どうだ、と言われましても……」


 吉乃の歯切れが悪い。普通に考えてこの勝負で負けるのは響樹だ。彼女にデメリットは無いし、勝つ自信が無い訳でもないだろう。響樹に気を遣っているのがわかる。


「自信が無いのか? 烏丸さんならノータイムで乗ってくると思ったんだけどな」


 安い挑発に加えて卑怯な手段。だがそんなものでさえいくらでも用いるつもりだ。

 負けず嫌いな吉乃が、いつも通りを望む彼女が、これを避けるはずがない。


「……わかりました。負けた後に無かった事にしてくれと言っても聞きませんよ?」


 ほんの少し戻ってきた、僅かに口角を上げた吉乃の笑み。


「ああ、望むとこだ」

「何をしてもらいましょうか」

「もう勝った気でいるのかよ」

「試験に関しては誰にも負けるつもりがありませんので」


 吉乃はそう言って自信を覗かせる笑みを浮かべた。


「知ってるよ。でも俺が勝つ。楽しみにしてろ」

「ええ。天羽君が言う事を聞いてくれる事を楽しみにしています」


 目を細めてふふっと笑った吉乃の表情は響樹が良く知っているもの。多分まだ本調子ではないのだろうが、綺麗で可愛らしい彼女の笑み。


「ああ言えばこう言うな、君は」

「天羽君には言われたくありません」


 今はまだいつも通り。

 それでも、響樹はもういつも通りではいられない。

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