第29話 天羽響樹は空気が読めない

 吉乃と過ごす土曜の勉強会は今日で二度目となる。

 いつもと同じように吉乃の前に座り、いつもと同じように微笑んだ彼女と短い挨拶を交わしてからは有意義で得難い無言の時間。

 静かな図書室の一番奥、誰も来ない静謐な空間に流れる空気には僅かな緊張感が漂う。それは真剣な吉乃と響樹が作り出すもので、大変に居心地が良かった。


 それでいてなのか、だからこそなのか、はわからないが時間の経過がやはり早く、響樹が時計を見ると既に半分ほどが過ぎ去っていた。


(そろそろかな)


 あまり吉乃の方を見ないようにしている響樹だが、最近になって彼女が時間を区切っての勉強をしている事に気付いた。恐らくきっちりと計画を立てて何分でどこまでを終わらせる、と意識づけているのだろうと推測できた。

 だからこそ普段の勉強会もほとんど同じ時間で終わっていて、今日の休憩も間も無くなのだろうと予測が立つ。


 そう思ってペンを置くと、「そろそろにしますか?」と澄んだ声が聞こえた。

 顔を上げるとニコリと笑った吉乃が僅かに首を傾げているのが目に入り、一瞬で響樹の集中力が霧散する。「ああ」と応じるしかなかった。


 響樹としては別に気を抜いていた訳ではないので見られても困らなかったのだが、吉乃としては先週の借りを返したつもりなのか、満足そうな笑顔を見せて立ち上がった。


「今日は私が先に行きますね。天羽君は何を飲みますか?」

「向こうに着いてから決めたい気分だな」

「優柔不断なのは良くないと思いますよ?」

「臨機応変に柔軟な思考ができると言ってくれ」


 肩を竦めてみせると、吉乃が唇を尖らせた。

 先週のもう一つの借りを返したかったのだろうが、さすがにこちらは響樹に分がある。


「ほら、時間は貴重なんだろ?」

「そうですよ。だから、天羽君も早く来てくださいね」


 ふいっと顔を逸らして歩き出した吉乃を見送り、響樹は苦笑した。



 吉乃から遅れる事数分、響樹が自販機コーナーに向かって歩いていると目的地付近に一人の男子学生がいるのが遠目から見える。そしてもう少し近付くと、それまでは陰になって見えなかったがその男は椅子に座った吉乃に話しかけている事がわかった。


「明日がダメなら来週とかでもいいしさ」

「お誘いはありがたいのですけど、試験が近付いていますので勉強に力を入れたいと思っています」


 自販機に辿り着いてみるとそんな会話がなされていた。

 相手の男子のかなり緩められたネクタイは藍色なので二年生、ネクタイに加えて制服もだいぶ着崩していて、ナンパという行為と表情も相まってかなり軽薄に見える。

 一方の吉乃は完全に猫被りモード。穏やかな笑みに穏やかな澄んだ声、しかしほんの少しだけ困った様子も作っている。恐らくこういう事はよくあるのだろうし、これが彼女の対処法なのだろう。相手はまるで気付いている様子が無いが。


「えー。いいだろ? 一日くらい、君なら余裕だろう」

「すみません」


 自販機に硬貨を入れている最中に聞こえてきた次の会話に少し、いやかなり腹が立つのを自覚した。遊びのお誘いくらいは吉乃ならば当然いくらでもされるだろうが、彼女が一度断ったのだから大人しく引き下がってはどうだろうか。

 それに言いようも気に入らない。吉乃がしている努力を知りもしないくせに、軽々しく一日くらいなどと発言した事にも怒りが湧く。


 八つ当たりだとわかっていても自販機のボタンを勢いを付けて強く押す気持ちを抑えられなかった。幸いにもそのおかげで二年生が発していた「たまには息抜きも」の言葉を途中で切る事には成功したが。

 発言を遮られた二年生は振り返って舌打ちをしたが、どんな顔をしているかは見なかった。タイミングを合わせてこちらを向いた吉乃が、大丈夫とでも言いたげに優しい笑みを見せていて、響樹の視線を奪った。


(大丈夫、なんだろうな)


 先ほども思ったが、吉乃ならば今まで散々こういう事態を捌いてきたのだろうし、今回だってきっとそうだろう。

 響樹が吉乃の知り合いとして割って入っても、下手をすれば彼女に迷惑をかけるかもしれないし、ここでは静観するのが最良だとわかっている。

 吉乃にしてみても自分で何とかできる問題にわざわざ響樹を巻き込みたくなどないだろうし、こんな考えは合理性を欠く。それでも、少しでも困っているのなら頼ってほしかった。


 そんな事を考えながら自販機から飲み物を取り出し、響樹は吉乃から一つ間を開けた椅子にドカっと腰を下ろした。椅子が三つしかないのだから、座りたければここしかないのだと自分に言い聞かせながら。

 二年生がまたも舌打ちをして響樹を睨み、吉乃はほんの少し目を細めて口元を押さえた。

 空気の読めない奴だと思われた事だろうが、今更そんな評価は怖くない。せいぜい邪魔をさせてもらうつもりでいる。


「えーと、そうだな、それじゃあ――」


 しかし二年生は中々めげないようで、良く言えば挫けず、響樹の本音で言えばしつこく食い下がる。吉乃の細く綺麗な手の中にはピンクの紙パックが収まっており、早くあれに口をつけさせてやれと心の中で思った。

 それでも吉乃は穏やかな笑みを絶やさず上手に一つずつ躱していく。相当慣れている事がわかり、彼女の今までの苦労が察せられる。しかし――


「そんな勉強ばっかしててもつまんないだろ? もっと色んな事を経験しないと」


 お前は何のために県下有数の進学校この学校に来た? と言ってやりたい台詞だったが、視界の端で吉乃の肩が僅かに震えた。ほんの一瞬だったが、響樹はそれに気付いた。

 横目で窺ってみても吉乃の穏やかな笑みそのものに変わりはない。感情を隠すいつもの笑みにはしかし、少しだけ寂しさの色が滲んでいた。少なくとも響樹はそう思った。


(適当にボタン押したけど買ったのが紙パックの烏龍茶で良かったな)


 そんな事を思いながら、響樹は吉乃がいる方と反対の左手に持ち換えた紙パックを握りつぶした。

 心情に反した間抜けな音の少し後にびちゃびちゃと液体の滴る音がして、伝った烏龍茶がワイシャツの肘の辺りまでを冷やしていく。ついでにスラックスも少し濡れた。


「大丈夫ですか!?」


 すぐに椅子から立ち上がった吉乃が目を丸くしながら響樹に近付き、ポケットからティッシュを取り出し、手渡してくれる時に二年生を背にしながら、囁くような声で「もう」と言って少し喜色を滲ませた呆れ顔を見せてくれた。

 それだけで十分、制服を濡らした価値があったというものだ。


「雑巾を借りてきますね」


 それだけ言って優しく笑った吉乃は職員室の方へ走って行ってしまった。


「てめえ何やってんだ! 邪魔しやがって!」


 貰ったティッシュで制服と床を拭いていると、呆気に取られていたらしい二年生からの怒声が飛んで来た。

 まだいたのかと思いながらも一応「すみません」と頭を下げておくと、彼は「クソ!」と自販機を蹴って歩いて行ってしまった。

 ここに残って後片付けを手伝った方が吉乃への点数稼ぎになるだろうに。まあ、それをする人間ならば彼女に対してああまでしつこく食い下がりはしなかっただろうが。


「八つ当たりは良くないと思いますよ」


 響樹が言えた義理ではないが、背中を見送りながら小さくそんな言葉を口にした。

 だいぶ濡れてしまった左半身は気持ち悪いが、気分は悪くない。そう思った後で吉乃に後始末を手伝わせてしまうであろう事を考えると、やはり気分の方も悪くなった。

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