第10話 試験後の約束②
「ああ、そう言えば。はいどうぞ。差し上げます」
吉乃が鞄から一冊のノートを取り出し響樹に差し出す。彼女がくれると言っていた約束の品物である事は分かるが、中身の想像がつかない。
「何だこれ?」
「天羽君のお役に立つと思いますよ?」
質問の答えになっていないのだが、中身を見ろという事らしく、受け取らない響樹を促すように水色のノートが突き出される。
渋々受け取って見てみるとそれなりに使い込まれている事がわかる。しかし保存状態は悪くなく、吉乃はやはり几帳面なのだなという感想を抱いた。
「俺、まだ順位上がったって言ってないんだけど?」
「でも、上がったでしょう?」
吉乃が言うところのご褒美はこの中身にあるようなので開く前に一応尋ねてみたのだが、彼女は当然の事のように、何をおかしな事をと言いたげに首を傾げた。
「なんでわかるんだよ?」
「天羽君の事でしたらわかりますよ」
異性に、それも抜群に容姿の優れた吉乃にこんな事を言われれば多くの男子は飛び上がるほどに嬉しいのだろうし、本来なら響樹だって多少は嬉しかったはずだ。
しかし残念ながら、吉乃の表情があまりにわざとらしいのでそんな気持ちは一切生まれない。「高く評価してもらって嬉しいよ」と肩を竦めながら答えると、彼女が口元を押さえてくすりと笑う。
「じゃあ見せてもらう」
「はい、どうぞ」
吉乃の手のひらに促されてノートを開くと、定規を使ってきっちりと描かれた表、そしてその中には日付と曜日、朝昼晩に別れて料理の名称。一目見て献立表だというのがわかった。
一ページに一週間分の献立と二回分の買い物内容が記載されており、各日毎に使う食材や注意点などのメモ書きもある。それに加えて改善点なども赤字で追記されており、吉乃の工夫や試行錯誤の様子が見える。
パラパラとページを進めてみれば、後半になるにつれて追記やメモ書きの量が減っていき、丸一年分の献立表からは慣れが見て取れた。
今でこそ軽々とこなしているように見えた買い物だったが、その影にはやはりこのような努力があったのだなと感心し、響樹の口から自然と言葉が漏れる。
「凄いなこれ」
ノートから視線を上げてみれば、目の前には僅かに広がった唇の両端と細められた目で示された彼女の喜色。ほんの少しだけ頬を弛ませた吉乃がいた。
「参考になりそうですか?」
「なるってレベルじゃないな。作れなさそうな料理と給食分もあるから丸パクリは無理そうだけど。ありがとう、助かる」
「どういたしまして」
「でもいいのか? こんな物貰って。大事な物じゃないのか?」
「いえ。別に大した物ではありませんし、私にはもう必要ありませんから」
何でもない事のように吉乃は言う、口調も表情も。だが、響樹にとっては違和感しかない言葉だった。
このノートに記された日付と曜日は三年前のもの。中学一年生の吉乃が懸命に書いたのだという事がわかる。
そんな頃からこれを作る必要があった吉乃の境遇が気になりはするが、今覚えた違和感はそれではない。
必要無いと言うくせにノートは綺麗に保存されていた。ほぼ全ページに多くの書き込みがされているので使用感は強いが、三年前に丸一年使ったノートという事を鑑みればかなり状態がいい。
不要な物で響樹にくれてしまってもいいと言うのなら、何故吉乃はこれを捨てずに、しっかりと保存していたのだろうか。
「要りませんか?」
「いや!」
響樹が断る口実にしているとでも思ったのか、吉乃の声は平坦だった。表情には目立った感情は現れておらず、穏やかな笑みが浮かんでいる。だがやはり、いつかと同じようにその顔はどこか寂しそうに見えて心臓に悪い。
だから慌てて彼女の発言を否定したのだが、自分でも思った以上に大きな声が出てしまい、吉乃が体をびくりと震わせた。
「……悪い」
目を丸くする吉乃に気まずさを隠せもせず謝り、ノートを鞄にしまった。ありがたく頂戴するという意思を示して彼女を窺うと、くすりと笑った吉乃が口元で人差し指を立ててみせた。
「図書室ですよ?」
「……悪い」
ギャップのせいなのか反動のせいなのか、吉乃のやわらかな微笑みがまたも心臓に悪い。普段ならともかくこちらが冷静になれていない時のこういう仕草は、自分の顔の良さを分かった上で控えてほしいものだと切実に思う。
だから本当に、唇に指を添えたまま小首を傾げるのをやめてほしい。
「まあとにかくだ」
仕切り直しに小さく咳払いをし、響樹は今一度吉乃に頭を下げる。
「言葉通り確かに良い物を貰った。改めてありがとう、参考にさせてもらう」
「改めてどういたしまして」
「あー、ところで」
軽い会釈で濡羽色の髪を揺らした吉乃を前に、ようやく平静を取り戻した響樹は約束をした時の事を思い出す。借りが増えると、そう思っていたはずだったのだ。
「何か礼がしたいんだけど。何か欲しい物とかあるか?」
「別に要りませんよ。不要な物をお渡ししただけなので」
「いや、受け取った俺には価値のある物だし」
「……その言葉だけで十分ですよ。本当に」
一瞬ほんの少しだけ見開かれた目を細め、吉乃が静かな声を発した。
「そう言う訳にはいかないだろ」
「そう言う訳にいきます。気にしないでください」
ただでさえも先日のスーパーでの一件に対して、響樹からすれば差し出した代価が釣り合わないのだ。その上今回も言葉だけで済ませてしまうのは流石にどうかと思えた。
「借りを作ったままだと気持ち悪い」
「私は貸し借りゼロだと思っていますので構いませんよ」
「俺だって傘の事は別に貸しだと思ってなかったけどな。誰かさんは借りを返したかったみたいだけど」
「……天羽君も大概ああ言えばこう言いますよね」
困ったように笑い軽く息を吐いた吉乃は、「そうですね」と少し思案する様子を見せたが――
「でもやっぱり、思いつきませんね」
「そんな事……」
ないだろ。そう口にしようとしていた言葉が切れてしまう。
響樹に対する遠慮があるのかと思ったが様子が違う。希望自体はあるが特に親しくもない響樹に言うような事ではないのとも違って見える。吉乃本人が本当に思いつかなかったらしく、眉尻を少し下げて苦笑いを浮かべていた。
「最悪ギフトカードを贈る事になるぞ?」
「学生同士でそれはなんだか嫌ですね」
吉乃が困った顔をしているのを見たくなくて言った冗談だったが、実際のところ本当に受け取ってくれてもよかった。金銭のみで解決というのは嫌な手段――しかも自分で稼いだ訳ではないので――ではあるが、このまま借りを作りっぱなしな状態よりはずっとマシである。
しかしどうも吉乃としては冗談の方に乗ってくれたようで、くすりと笑った後には表情の暗さが見えなくなっていた。
「じゃあ花でも渡すか?」
「悪くありませんね。飾る花瓶が無いのが残念ですけど」
「冗談だ。そういうのは恋人にでも貰ってくれ」
もう一度くすりと笑った吉乃に響樹は肩を竦めてみせた。
(今はやめとくか)
借りを作ったままでは居心地が悪いという考えに変わりはないが、それはあくまで響樹の感情面の話。迷子のように思えてしまった吉乃を急かすような真似はしたくなかったので、今は引き下がる事にした。
「じゃあ俺はそろそろ帰る。邪魔して悪かったな」
「お褒めの言葉をお願いしたのは私ですから、天羽君に詫びていただく理由がありませんよ」
「そっちじゃ……いや、それじゃあな」
軽く頭を振って言葉を切って立ち上がった響樹を、吉乃がどこか嬉しそうに見上げていた。
「残念です。一緒にお勉強でもできればと思ったのですが」
「そう思うならちょっとは残念そうに言えよ」
「社交辞令に対して無粋ですよ?」
「社交辞令なら言ったら台無しだろ」
失言でしたと言わんばかりに目を丸くして口元を手のひらで抑える吉乃の様子はこれ以上なくわざとらしい。
「それじゃあな」
「ええ、また」
対抗してこれ見よがしにため息をついた響樹に、吉乃はどこか楽しげに応じた。
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