蜂を飼う少年
「コスティ少年」
鞍を置き、ベルトを締めるために馬の腹の下に手を回しているコスティ少年に、わたしは手を挙げて呼びかけた。
「……あのさ、その少年て、なに?」
コスティ少年が屈んだ状態で、ジロリと見上げる。
「なんとなく。流れで」
「ハァ。普通に名前、呼べよ」
溜息を吐きながら、少し苛立たしげに言う。
「じゃあ、コスティ。わたしはアキだよ。でも、あんまり名乗らないことにしてるの」
「……はぁ?なんだよ。呼ばれたくないなら別に名乗らなくていいよ」
わたしの自己紹介に、コスティの機嫌が更に急降下するのが分かる。額に浮かぶ青筋が見えるようだ。俯いてるから見えないけど。
「呼ばれたくないわけじゃないんだけど、ちょっといろいろあって……」
アキという名前は珍しい。穀倉領を出て間がないし、回り回って王都にまで届いてしまうかもしれない。町中ではあんまり自己紹介しないことにしていた。
「でも、怪しい者じゃないよ」
「いや、怪しさしかないだろ。なんだよ、いろいろって」
「う~ん、詳しい説明はできないんけど、わたし、悪い人じゃないよ。いい人仲間候補に入ったことがあるくらいだもん。安心していいよ」
「……意味、分かんねぇ」
……そりゃ、そうだよね。
穀倉領でのことを話せないのがもどかしい。自慢できることや人がいっぱいなのに。
わたしだって、領都の出店のおじさんに負けないくらい、穀倉領のことを自慢したいのに、わたしの経験のほとんどは糠漬けに結びついている。やたらなことは、口に出せない。
「…………」
「……まぁ、クリストフさんの知り合いだからな。別に疑ってはいない」
詳しく説明できなくて黙り込んだわたしに、コスティは立ち上がりながらぶっきらぼうに言う。気遣いなのか事実を言っただけなのか分からないが、わたしはホッとした。
「クリストフさんって、有名な人なの?」
「さぁ?ただ、父さんの昔からの知り合いで、仕事を無くして村からも追い出されて路頭に迷ってたところに、あの人だけが手を差し伸べてくれたんだ」
仕事も住まいも追われるなんて、ただ事じゃない。詳しく聞きたかったが、コスティの冷めた表情を見ると、躊躇われた。
……何かを掘り起こしてしまいそう。
わたしにだって、触れられては困るものがある。きっと、コスティにも同じような経験があるのだろう。機会があれば、クリストフさんにでも聞いてみればいいや。
ハミを噛ませて準備を終えた馬を、コスティが台の横に連れて行く。わたしもコスティも背が小さいから、地面からは乗れないのだ。
「お前が前だと前が見えなくなりそうだな……お前、後ろに乗れ」
コスティが先に乗り、わたしが後から後ろに跨る。
「ゆっくり行くけど、落ちると死ぬからな。しっかり掴まってろよ」
わたしは、穀倉領を出る時に乗ったことを思い出し、コスティにギュッとしがみ付いて、口をしっかり閉じた。
「……あんなに揺れるもの?前に乗った時は走ってたけど、あんなに揺れなかったと思うよ?」
「ああ、前の方に乗ったんじゃないか?馬は後ろが揺れるんだよ」
わたしの恨み節をさらっと流してコスティが答える。
「……帰りは前に乗る」
「いいけど、それなら上体を倒していろよ。前が見えなくなるからな」
「むー……」
とりあえず、いろいろ試してみるしかない。わたしも自分で乗れればいいのに。
「ほら、行くぞ」
馬を繋いだコスティが連れて行ってくれたところは、少し開けた土地になっていた。近くに小さな小屋があり、その小屋から離れた木の下に、何やら箱のようなものが置いてある。
コスティは、小屋を指さした。
「まず小屋に入る。けど、あの箱の中には蜂がいるんだ。絶対に大声を出したり走ったりするなよ。刺激すると襲ってくるぞ」
「えっ襲われるの!?蜂さんと仲良くしてるんじゃなかったの!?」
「あのなぁ……仲良くするったって言葉が通じるわけじゃないんだぞ。こっちがあっちに合わせるしかないんだよ」
小声で驚く私にコスティは呆れたように小声で返した。なるほど、もっともだ。
わたしは、足音を忍ばせて、そーっとコスティに付いて行った。
「で?お前は何を見たいんだ?蜂を見たいだけなら、ここからでも十分見えるぞ」
「箱の中が見たいの。あの箱の中に蜂がいるんでしょ?」
「……見てどうするんだ?」
「え?見たことがないものを見たいと思うのに理由がいるの?」
「…………」
コスティはおかしなことを聞いてくる。むしろ、ハチミツなんてものの存在すら知らなかったわたしが、蜂を見てどうするつもりだと思うのか。
お互いに怪訝な表情でしばらく見つめ合っていたが、コスティの方が先に目を逸らした。
「まぁ、いいけど……じゃあ、この笠をかぶって手袋をするんだ」
コスティは、肩幅よりも大きな、大皿をひっくり返したような帽子を差し出した。だが、帽子の淵から網が垂れ下がっていて、それをどうすればいいか分からない。
「早くかぶれよ」
コスティは、棚から取ってきた手袋を渡しながら言うが、こんな帽子、被ったことがないので、どう頭に乗せればいいのかすらよく分からない。
「ああ、網は顔と首を防護するためのものだ。この真ん中の輪っかを頭に乗せると安定する」
わたしが帽子を裏表とひっくり返して見ているのを見て、何かを察したらしいコスティが帽子を被せてくれた。網が顔の前も後ろもぐるっと囲っているので、前が見辛い。
「いいか。その笠は一つしかないから、オレは付けてない。つまり、お前が蜂を怒らせたらオレが蜂に刺されて死ぬことになるんだ」
「……え?」
真剣な顔で注意し始めたコスティの言葉に、ドキッとして目を見開く。
「もちろん、その時はお前もただじゃ済まない。服の上からだって刺せてしまうんだからな」
「……刺されたら、死ぬの?」
軽い気持ちで付いてきたわたしにとって、突然降ってきた、重い言葉だった。
「ああ。ミツバチの針には毒があるからな。一匹だけなら、一度目は死なないが、数万匹いるからな。まとめて襲って来られたら助からない」
助からないという言葉に息を飲む。喉の奥に何かが詰まったように感じる。
そんなに怖いことをするとは思っていなかった。蜂を使うというから、何かで蜂を動具のように上手く操って、蜜を集めさせるのだと思っていたのだ。蜂よりも人間が上の立場にいて、蜂を支配しているのだと思っていた。これでは、まるで、人間が蜂より下の立場で、蜂のご機嫌を伺って、食べ物を少し分けてもらうようではないか。
「ようではなくて、実際そうなんだ。オレたちは自然からその恵みを分けてもらう立場だ。それをしっかり分かってないと、森の中では生きられない」
「え?わ、わたしは……」
生きられない、という、突然の怖い警告に、とっさに言葉が出ない。何となく、人間が一番偉いんだと思っていた。
……怖い。
数万匹の蜂なんて見たこともない。どんな状態でどんな風に襲われるのか、想像もつかない。
わたしは蜂のことを何も知らない。わたしが精一杯気を付けても、それを蜂が気に入らなければ攻撃されてしまうかもしれないのだ。
わたしのせいでコスティが死んでしまうのかもしれないと思うと、体が竦んで動けなくなる。
「まぁ、そんなに神経質にならなくても大丈夫だ。ミツバチはもともと攻撃的な性格じゃない。ただ、臆病だから、近くで素早く動くものがあると、仲間を守るために襲ってきてしまうんだ」
「……動かなければいいの?」
「ああ。下手に触ったりしなければ大したことはない。あとは、突然素早く動いたり大声を出したりしないことだな。どうする?止めとくか?」
コスティの口調は淡々としていて、からかうような気配はない。
……見たい。
でも、この帽子は一つしかなくて、コスティは顔や首がそのまま晒されている。何かあった時、コスティのむき出しの皮膚を守るものがない。
……やり方を教えてもらって、わたしが一人で……。
ダメだ。何にも知らないわたしが、今ちょっと何か教えてもらったくらいで余計なことをすれば、コスティと二人で行くよりもひどいことになるかもしれない。何より、何か起こっても、わたしでは対処することができない。
穀倉領にいた時にも、虫や草なんかをむやみに掴んで怒られていた。あの頃は、周りに大人がいっぱいいて、何かあっても誰かが何とかしてくれるだろうと、無意識に考えていたのだと思う。
「一応、聞くけど、わたしが一人であの箱の近くに行って、中を覗くことはできる?」
「蓋を開けたらすぐそこに蜂が付いてる。無理だ」
……当然だ。
蜂なんて間近に見たことすらないのに。
素早い動きはダメだというが、蜂がこちらに向かって来たら、咄嗟に逃げ出してしまうかもしれない。見たことがないものを見せてもらうのだ。大声で歓声をあげないとも限らない。
「…………やっぱり今日は止めとく」
「へぇ……」
コスティが驚いた顔をする。だが、そこに軽蔑するような色はない。むしろ感心しているようだ。わたしの方はというと、思いがけず自分の甘さが自覚されて、ちょっと落ち込んでしまう。もっと簡単なことだと思っていた。
「その代わり、また今度来るから。準備が出来たらすぐ来るから。その時は絶っ対見るから!」
「分かった分かった。じゃあ、それまでに馬に乗れる服を用意しとけよ。スカートで馬に跨る女なんて初めて見たからな」
……いや、一応悩んだんだよ?これって横座り?とか。でも、無理だよね。
あの揺れで横座りはとても無理だ。蜂に刺される前に落馬で命が危機に晒される。わたしは、まずはズボンを手に入れることを心に誓った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます