ダンの戸籍

「アキちゃん、ちょっといいかい?」


 『ゾーラの口』へ糠漬けの納品に行った後、頂いたまかないのお皿を片付けていたらゾーラさんに呼ばれた。ゾーラさんが小声で話すなんて珍しい。


「ちょっとダンのことで聞きたいことがあるんだけどね」

「ダン?」


 わたしは首を傾げてしまう。ダンとは、以前挨拶がてらの食事に来てから何度か訪れているが、女将さんとは割と良好な関係が築けていると思っていた。こそこそ聞かれるなんて、なんか疚しいことでもあるみたいだ。ダン、何かしたのかな?


「ああ、あんたたち、3年前に別の領地からやって来たんだろう?戸籍はどうなってるんだい?」


 ダンが聞いたら、お前と一緒にするなと怒られそうなことを考えていると、聞き慣れないことを聞かれた。


「こせき?」

「そうだよ。戸籍だ。ん?戸籍、知らないかい?」


 ……全く聞き覚えがない響きだ。


「王様や領主様が、領民がどこで生活しているのかすぐに分かるようにするために、戸籍っていうもんがあるんだよ。子どもが生まれたらすぐにその領地の戸籍に登録しなきゃならないんだ。あんたは他所の領地で生まれただろうから、きっと戸籍はそっちで登録されてるだろう?こっちに来る時に戸籍は移したのか聞きたかったんだがね」


 ……どこで生活しているか?生まれたらすぐ登録?戸籍を移す?


 何のことだか全く分からない。領地に住む人を管理するための制度とかかな?


 わたしは王都で生まれて、今は穀倉領で暮らしている。でも穀倉領で暮らしていることは王都の人たちには隠している。ダンは戸籍のことなんて何も言ってなかったけど、どうなってるんだろう?


「戸籍って必ずどこかに登録されてるものなの?」

「そりゃ、そうさ。どうやって調べてるのか知らないが、浮浪児なんかでもお役人が調べ上げて登録しにくるって話だよ」


 少なくとも、わたしはお役人に何か聞かれたことはない。警邏のお兄さんたちも、不審そうにしている様子はなかった。でも、ここにいることを隠そうとしているダンが、戸籍の登録なんてするだろうか?


「戸籍がないと、何か困る?」

「普段生活する分には困らないよ。仕事や家の貸し借りは雇い主や大家との契約だし、税金は雇い主がまとめて払うからね。だが、家を買ったり結婚したりしようと思うと戸籍が必要なんだ。本格的にここに落ち着こうと思うんなら戸籍を移さなきゃならないよ」


 ……知らなかった。


 ダンが幸せになるためには結婚相手を探さなきゃいけないと思っていたのだが、思わぬ壁があった。ダンはこのままでは結婚できないんじゃないだろうか。


 ……わたしのせいだよね。


 ダンに恋人ができないのは、もしかしたらわたしのせいじゃなかったかもしれない。でも、戸籍の問題があるとしたら、それは間違いなく、わたしのせいだ。


 ……わたしのせいで、ダンは幸せになれないかもしれないんだ。


 今まで敢えて直視しないようにしてきた事実が確定しそうになって、わたしは、逃げ場をなくしたような気持ちで途方に暮れる。


「どうしたんだい?顔色が悪いよ?悪かったね、具合が悪い時に難しい話して。あんたなら戸籍のことなんかも知ってるんじゃないかと思ったんだ。知らないならいいんだよ。ちょっと休んだら今日は帰りな」


 ゾーラさんが心配そうに言ってくれた。わたしも、ちょっと混乱気味な自覚があるので、今日は余計なことはせずに家で大人しくしていることにした。





「ただいま」


 ダンが帰ってきた。家に帰ってから少し考えてみたのだが、とにかくダンに確認してみなければ何も分からない。何も分からないのに暗く悩むのは時間がもったいないので、鉄と塩と空気で糠床を温められないか考えることにした。もしかしたら焼き石灰よりも安くできるかもしれない。


「あ、おかえりー」

「……何やってたんだ?」


 ダンが呆れたように聞く。聞かれて初めて自分の周りを見回したら、ザルトに頼んで工房から少し拾ってきてもらった鉄くずと、塩と水と壺が散乱していた。まさに、足の踏み場がない。


「ちょっと糠床の管理をね」

「なんでもいいが、やり過ぎるなよ。鉄と塩水は熱を出すからな」


 ……おお、さすがはダン。


 知っていたらしい。初めからダンに相談すれば良かった。


「その熱が欲しいんだよ。何か知ってるなら教えてよ」

「ああ、後でな」


 ダンは着替えるために、散らかっていない端の方を縫うように歩いて自室に入って行った。




「ねぇ、ダン。ゾーラさんに聞かれたんだけどさ」


 着替えて自室から出てきたダンにお茶を出しながら、わたしはさりげなく話を振った。


「ダンの戸籍ってどうなってるの?」

「は?戸籍?」


 ダンが怪訝そうに問い返してきた。


「うん。なんか、引っ越してきた時に戸籍を移したのかって聞かれたの」

「……ハァ、まさかお前の方から聞いてくるとはな」


 ダンがため息をつく。何か心当たりがあるのだろうか。


「なんでもない。お前は気にしなくていい」

「良くないよ。これからも聞かれるかも知れないでしょ?なんて答えたらいいか分からないじゃない」


 わたしはムッとして言い返す。だって、絶対わたしが関わって、ややこしいことになっているのだ。気にするなと言う方が無理だ。


「知らないって言っときゃいいだろ。実際、お前の年で戸籍の事なんか詳しく知ってる奴なんてそういないんだ」

「じゃあ、わたしの戸籍は?」


 ダンのことは教えてもらえなくても仕方ないかもしれないが、わたし自身のことなら知っておきたい。


「…………まだ王都にある。たぶんな」


 ダンが盛大に顔をしかめて教えてくれる。


「たぶん?」

「ああ、役所に近づかないようにしてたからな。正確には分からねぇ。だが、余程のことがない限り、まだ残ってるはずだ」


 ……余程のことってなんだろう?


「……こっちに移すことは、ないんだね?」

「まぁ、今はまだ、な。心配するな。お前の成人までには考えるさ」


 わたしのことは、分かった。死んだと届けられていないから、王都にそのままの状態で放置されているということなのだろう。これは予想の範疇だ。詳細は分かってないけど、納得も理解も一応している。でも。


 ……ダンは、どうなるの?

 

 わたしの成人までにはということは、逆に言えば、何年かは今の状態が続くということなのではないのか。


 わたしはまだ子どもだ。成人するまで8年もある。8年の猶予が、わたしにはある。でも、ダンは今でももう充分過ぎるほど大人だ。これから何年もわたしに付き合って、戸籍が移せない状態が何年も続いたら、結婚することも家を買うこともできない。それは、ダンが幸せになれる未来がどんどん遠くなってしまうということではないだろうか。


 わたしは服の胸元をギュッと握った。

 なんだろう。胸がドクドクして、少し、息が苦しい気がする。


「そんな顔すんな」


 ダンがわたしの頭にポンと手を乗せた。


「オレはお前も知ってる通り、変わり者だ。そもそも結婚する気もねぇ。別に今の状態が何年続こうがオレは全然かまわねぇんだよ」


 顔を上げると、ダンが片眉を上げて、何でもないことのようにいつもの調子で軽く言う。


 ……本当に、そうだろうか。


 わたしは、ここに移ってきて3年になる。初めは宿の部屋から全く出られなかった。食事すら、ダンに部屋まで運んでもらっていた。でも、女将さんはドアの外から毎日声をかけてくれた。たぶん、手が空いた時にわざわざ部屋の前まで来て、何かのついでを装って声をかけてくれていたのだ。あまりのしつこさに、わたしの方が根負けして部屋から食堂まで出るのにかかったのは、一月だった。


 ダンがヤダルさんに紹介してもらえた時、わたしはほとんど口がきけなかった。声を出そうと思うと、途端に心が塞いでしまって、言葉が消えてしまうのだ。そんな、俯いて、無口な、気味の悪い子どもの元に、ヤダルさんはザルトを連れてきてくれた。ザルトはまだ働いていなかったので、それこそ、毎日顔を見に来てあれこれと世話を焼いてくれた。全くしゃべろうとしないわたしに飽きることなく話しかけてくるザルトに、一言だけでも返事をするようになったのは、出会ってから二ヶ月後くらいだったと思う。


 それから、わたしは少しずつザルトに言葉を返すようになり、神呪を描くことを思い出し、子どもが喜びそうな動具を考え、顔を上げて話せるようになり、家から出られるようになり、宿屋の女将さんに連れられて、市場にも行けるようになった。


 農家の手伝いに行って庄屋さんの奥さんとおしゃべりしたり、ゾーラさんに糠漬けの自慢をしたり、市場のおじさんおばさんに質問攻めするようになったり。わたしが変わるのに、実は3年もかかってない。


 ……人は、変わる。


 わたしの場合は元の性格に戻っただけとも言えるので、ダンも同じように変わるわけではないと思う。でも、人はいつまでも同じではないと思う。わたしだって、王都にいた頃と全く同じになったわけではない。


 ダンが変わった時に、ダンが自分の幸せを望んだ時に、わたしが足を引っ張らないように準備しておかなければならない。


 わたしの8年の猶予は、ダンがくれるものだ。


 わたしの成人までは8年あるけど、ダンが変わるまでは何年あるか分からない。数ヶ月かもしれないし、数日かもしれない。


 ……わたし、できることを増やさなきゃ。


 わたしに猶予をくれる、ダンの足を引っ張ってはいけない。

 いつまでもダンに甘えて、目を瞑って手を引かれているわけにはいかない。


 そう思った。





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