第35話 表屋虚のとある暴走 - 1
俺という存在がいつ生まれたのか、俺はよく覚えていない。
ただ、いつのまにか苦しげにむせる空の隣に立っていた。
俺は、空のために生まれたのだと、最初から知っていた。
だから。
恐ろしいほどの空腹。
生臭い臭いのする部屋。
むせ返るような香水の香り。
痩せた細い首。
巻き付く両手。
悲鳴と苦悶の声が聞こえる中、たしかに聞こえた笑い声。
そして、死の匂い。
いけない。
いけない。
覚えていてはいけない。
そう思った。
だから、俺は勝手に蓋をした。
お前の記憶の中から悪夢が消えるその時まで、鍵をかけた。
俺が変わりにその鍵をうけとった。
なのに。
「ねえ」
そんな言葉から始まる恐怖を誰が知り得ようか。
雨の中、におい立つ女の匂い。
まとわりつく、香水と化粧と、それからすこしのタバコの香り。黒い髪は
クラクラとするその強い香りに
伸ばされた指先の赤が目に入ったその時。
揺れる視界。
かけめぐる情景。
──思い出してはいけない──!
だから、お前が叫び声を上げるより前に、俺は女を殺した。
∴∴∴∴∴∴∴
大事に守ってきた物が、壊される気がした。
階段を転げ落ちるように駆け下り「僕じゃない!」と進士に詰め寄った空に、進士はタブレットにうつる写真を見せつける。
幼い唇から紡がれる罪の証。
「アンタが殺したのは、先月発見された真山美穂だけじゃない。最近だと先月——2018年月の4月×日、アンタはその日大学の連中と隣駅の飲み屋街に行ってる。名目は大学の新入生歓迎コンパ」
「……たしかに、行ったけど──それが……」
と空が戸惑いながら答える。
やめろ。聞くな。
「アンタの通う大学の文学部歴史学科の新歓、実がキャバクラに行くのが毎年の恒例らしいね」
「キャバクラ?」
毒島一笑が怪訝そうに繰り返す。
でも、そちらをみる余裕は空にはない。
「そう、毎年同じ店。そこでその日、一人女が行方不明になってる」
だめだ。
空、聞いちゃだめだ。
「その女を殺したのも、お前」
指を突きつけられて、空が首を左右に振る。
「僕、僕は知らないっ!」
だめだ。聞くな。
「いいや、間違いなくお前。なぜならあの翌日、ここの管理人が人間一人解体して売ってる。若い黒髪の女。爪に赤いネイル塗ってた」
「見たのお?」
「このオトギリ荘で起きたことで俺が知らないこととかないから」
軽快に行われる会話。
呆然とする空を置いてされる会話は、今まさに空の精神を破壊しようとしているとは到底思えないほどのんきだ。
黙れ。黙れ。黙れ。
「僕じゃない!」
そうだ。お前じゃない。
お前じゃないんだ。
だから交代だ、空。
そう願った瞬間、意識がクリアになって、目の前の少年、進士の驚愕した顔が視界に飛び込んでくる。
薄れていく空の意識。
代わりにはっきりとしていく五感。耳に届くのは、街灯にぶつかる蛾の散る音。遠くで聞こえる電車の踏切の音。目の前の少年の慌てる声。
「……やっぱり殺しておけばよかった」
俺は一言つぶやいて、そして目の前の少年の腕をつかみあげた。
そのままくるりと少年、進士を回転させて、進士の背中に彼自身の腕を押し付ける。
そして軽くひねれば……。
ボキンッ。と鈍い音がした。
「──っ!!!!!」
進士が声にならな悲鳴を上げる。それも。
「うるさい」
次は指。関節を逆方向に軽くひねる。
ボキッと指がなる。
「いっ──っああっ!」
痛みに叫ぶ進士の声を意識の遠くに押しやって、今度は白塗沢へ視線を向ける。
痛みでうずくまる進士の腕を解放し、今度は白塗沢へ歩みをすすめる。そして、いつもより更に血の気の引いた顔でいる白塗沢の首元へ手を伸ばした。
知らないならよかったのに。
あいつに何か言うつもりなら許さない。
白塗沢の首をつかむ。
「うっ! きみ、は、君は、
「うるさいと言っている」
必至に声を出す白塗沢。
俺の声が聞こえないのか?右手に力を入れれば、ミシッと音がした。
「本当にうるさい連中だ。何も詮索しなければいいものを……」
そうだ。何も詮索せずに、空にもすべてを黙ていればよかった。そうすれば、俺が出てくることも、こんなことをする必要もなかったのに。
本当なら、こいつらさえいなければ、魅内潔子か八重子に霊をどうにかしてもらって終わりだったのだ。
でも、揺さぶられてしまったものはしかたない。だから。
「全員始末すればいい。運良くあの暗丘って男もいない。あいつがいないなら、殺すのは簡単だ」
あの男だけはおそらく俺がかなわない相手。プロというやつだ。でも他の有象無象共ならば、この腕でひとひねりできる。
「あなたは、誰?」
そういったのは、霊が見えるという女。
「知らなくてもいいことだろう。どうせ今からお前も殺す」
それはもう、確定している。しかし。
「お待ちになって。今日のことは、今日のことはここにいる皆胸の内に留めることにいたします。ですからどうかお待ちになって」
潔子はそういうと、微笑みながら、こちらへ近づいてくる。
恐怖という感情がないのだろうか。
俺は表情を変えることなく口を開く。
「メリットがない。お前たちは信用できない」
「メリットというか……わたくしたちを殺してもデメリットしかありませんわ」
言いながら、更に接近してくる。今は女には近づきたくない。
「動くな」
そう言えば、潔子は無言で俺の言葉に従った。
「デメリットとはなんだ」
返答次第では、今後の予定を変更することもあり得ると、俺は思いながら、潔子に尋ねた。
「おそらくここで私を殺せば、あなたに憑いている真山さんは一生あなたから開放されません。同時にその子供である少女も、野呂井さんを殺せば永遠に離れないでしょう」
つまり当初の予定通り潔子と八重子に解決させればいい。逆に言えば。
「なら他のやつは殺す」
必要なやつだけ生かしておけばいい。
再び白塗沢の首を締める。すると今度はとぎれとぎれの声で、進士がうめきながら何かを言う。
面倒な……。
そう思いながらそちらを見れば、進士はうずくまりながら顔だけを上げて、脂汗を流しながらも一言。
「俺が死んだら暗丘が黙ってないっ」
そう吐き捨てた。
「っそれは、ボク、も、同じ……デス」
続けて白塗沢までもがそう言う。
正直あの暗丘という男がそこまでこの二人のためにするとは思えないが、やつに空が対抗できるとは思えないし、俺でも怪しい。
可能性がある以上は殺しにくい。
最後に俺は毒島一笑に視線をやった。
表情はひょうひょうとしていて、進士をみて「いたそー」とつぶやいている。しかし、それだけだ。
彼女を殺す理由は……。
そこまで考えて
全員生かすとしたら、彼女だけ殺す理由もない。
「それに、全員殺したところで、オトギリ荘にはまたわたくし達のようなものがやってきます。ここはそういう場所なのですから」
潔子は鈴を転がすような声で笑いながら、オトギリ荘を見上げた。
それに習って俺もオトギリ荘を見上げる。
たしかに、ここには変人ばかりがいる。この連中を黙らせたところで、同じようなことが起きないとも言い切れない。ならば……このまま秘密を守らせる方がいいか……。
しかし守るという確証もない。
「ならばこうしよう。もし、このことを誰かにお前たちが告げるようなことがあれば、そのときは……全員殺す」
本気だとわかるように白塗沢の首を締め付けながら、俺はオトギリ荘の住人たちにそう告げた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます