第2話 依頼人
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おれがまだ東京にいたころ、といっても実際住んでいたのは川口市だったけど、とにかく、おれは東京で来る日も来る日も、バイトと路上ライブに明け暮れていたんだ。
そんなおれが、ある月の夜に出会ったのは、一人の女だった。
新宿駅の南口、夕方の帰宅ラッシュが一段落したあと、すっかり日も暮れ色鮮やかな電飾看板が煌々と街を彩る光と音の喧騒の中で、彼女はたった一人で歌っていた。
よくあるストリートライブの光景。
ただ、彼女の歌はどこか異様な空気をまとっていたんだ。いつもなら道行く人々と同じように通りすぎるだけのその場所に、おれはまるで吸い寄せられるように近づき、そして彼女の前で足を止めた。
駅前の広い歩道のガードレール沿いに、何人かがギターを掻き鳴らしながら路上ライブをしていた。
だが、彼女の歌声はそんな奴らとはまるで次元が違う、そう感じさせた。そして、その歌声こそがおれを惹きつけた原因なのだと確信した。
神に捧げる祈りのように美しくも哀しげな旋律。
波間に揺れる小舟のように、とどまることない微かな揺らぎと緩急のついた歌声。
そして、彼女は大柄な蛇の皮を張った弦楽器、いわゆる『
その歌詞はどこか異国の言葉のようで、言葉の意味さえ分からなかった。けれど、おれはその押し寄せる歌声の波に溺れるように、彼女の正面で夢中になってその不思議な音楽を全身に浴びていた。
その瞬間、街の喧騒もきらびやかな電飾も全てが消え去って、世界にはおれと彼女の二人だけが存在している様な、そんな錯覚さえおぼえた。
そのとき、おれのなかで歯車がかみ合わさったような、そんな気がしたんだ。
彼女はその歌を「シマ唄」だといった。
その日から、おれたち二人は少しずつ人生の針路を変えていった。その結果、おれは今現在、このカフェ「あしびば」にたどり着き、そして彼女は……
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「どうしたんですか? なんだかセンチメンタルな表情をして?」
マコトに声に、現実に引き戻されたおれは「ああ」と、とっさに笑顔を繕う。
「ちょっと、昔のことを思い出していたんだ」
「東京にいたときのことですか?」
おれは声を出さずにうなずいた。住んでいたのは埼玉県だとはいわない。マコトはどこか淡い憧れ色を浮かべた大きな瞳を柔らかに曲げる。
「私は物心ついたときからずっとこの島で暮らしているから、都会のことはあまりよくわからないですけど、またいつか東京のお話を聞かせてくださいね」
「ああ、いつかゆっくりと話をしよう。そうだ、コウジたちと一緒の時がいいな。おれ一人だと話がつまらなくなりそうだし」
おれが、この店で出会った友人の名をあげると、マコトも目を細めて、「それは、楽しいお話になりそうですね」と微笑んだ。
ごゆっくり、とマコトがいい残し、カウンターへと引っ込んだちょうどそのタイミングで、入り口のドアに取り付けられていたウィンドチャイムがきらきらと星の瞬きのように軽やかな音色を奏でた。誰かがこの店のドアを開いた合図だった。
「はい、いらっしゃいませ」
ポットをウォーマーに戻し、マコトが入り口にむかう。扉口にはなんとなくこの場に戸惑った様子で背を丸めて、落ち着きなく手を握ったり開いたりする初老の男性が立っていた。
「どうぞ、空いているお席へ」
「あ、いや。その、ここに
男性がマコトにそう告げると、マコトは「えっと……」と、いってもよいのかどうか戸惑ったように口ごもった。
「大澤アキオならおれだけど」
その男性にもきこえるほどの声で、入り口にむかって呼びかけた。男はおれを視界に留めると、マコトの横をすっと通り抜けて、おれが座っていたカウンター席のすぐ隣に立った。
年齢でいえばまだ五十代半ばといった様子だが、随分と疲れきっているようで、かなり老け込んで見える。頭は頭頂部が極端に薄く、髪が残る側頭部も、半分以上は白髪交じりで、ライトグレイに見えた。服も随分とくたびれた印象で、ところどころシミ汚れの目立つポロシャツと、モスグリーンのチノパン姿で、お世辞にも「上品な」とはいい難かった。
「さっきうえの事務所にいったら、ここにいると札がでていたもので」
「ああ、仕事の依頼ですか?」
その男性の真剣な表情を見て、これが冷やかし半分でないことを感じ取ったおれは、手にしていた新聞を隣の椅子の上に放り、「とりあえず、座ってくださいよ。コーヒーでも飲みながら、話を聞きましょう」と、余裕のある笑みを浮かべて、その男性にいった。
男は素直にうなずき、おれの隣の席に座ると、タイミングよくマコトが運んできてくれたコーヒーを一口すすった。おれは打ち合わせでここを使うことがしばしばあるため、マコトはそのことをよく心得ていてくれて、余計な気遣いがいらないのが嬉しい。
その男性はすこしは落ち着いたのか、ふうと息をつく。マコトの淹れるコーヒーはほとんど魔法だ。
彼が落ち着いたのを見計らい、おれはたっぷりと自信をのぞかせるような表情でいった。
「それで、おれのなんでも屋『ゆいわーく』に頼みたいことっていうのは?」
すると、彼はほんの少しだけ空気を張り詰めさせて、消え入りそうな声をあげた。
「……実は娘を探してもらいたいんです」
「は……?」
おれのつくった余裕ぶった表情は、素っ頓狂な声とともに、波に洗われる砂浜のお城のように、あっさりと崩れ落ちた。あんたたちにも教えてやるよ。調子に乗っていい格好したときほど、人は間抜けになりやすいってね。
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