第三章 北の王国 ローグレス 3

 何か暖かいものにはたかれるような感覚で、ソールは目を覚ました。

 「ん…」

目の前に、ティキの顔がある。

 「ああ、お前か。おはよう」

 「キュッ」

尾をふりながら、ティキが寝台の脇にどく。起き上がって、ソールは辺りを見回した。暖炉の火は消えているが、まだ暖かさが残っている。

 「…あれ」

腹の上にかかっている毛布に気づいて、彼はちょっと首をかしげた。昨日は、ただ横になっただけだったはずだ。それに、テラスに続く窓にカーテンが引かれている。

 カーテンを開いて木戸を押し開くと、明るい光が目に入った。といっても、空は相変わらずの重たい雲に覆われて、太陽の光はほとんど降りてこないのだが。

 今が昼だということだけは分かる。どうやら、すっかり寝過ごしてしまったらしい。そして、枕元にいたはずの妖精たちの姿がない。いつのまにか畳まれていた上着を取り上げながら、ソールは、ティキにたずねる。

 「そういや、あいつらは?」

 「キュ」

ティキは、扉のほうに視線をやる。閉まっている――ということは、ティキが開けたわけではなさそうだ。何しろティキは、ドアを閉めたためしがない。

 眠っている間に誰かが来たんだな、とソールは思った。それでもティキが起こさなかったということは、たぶん、フリーダだろう。

 身支度を整えて廊下に出ると、ティキがいつものように肩の上に駆け上がってくる。後ろ手に扉を閉め、ソールは、前日の記憶に従ってオラトリオの部屋を目指した。廊下は入り組んでいたが、森の小道ほど複雑ではない。ほどなく彼は、昨日来た螺旋階段への入り口を見つけていた。

 中に入ろうとしたとき、耳元で声がした。

 『そこではない。左へ曲がり、階段を降りて中庭へ出るのだ』

周囲を見回したが、黒衣の老人の姿はどこにもない。だが、代わりに廊下の端のほうに、こっちだというように揺らめく空気の流れがあった。オラトリオの連れている風の精霊だ。ソールは、そちらに向かって歩き出した。

 階段を降りると、小さな中庭に出た。周囲は高い壁に囲まれている。

 「来たな」

ベンチに腰を下ろしていたオラトリオが顔を上げた。ここまでソールを導いてきた精霊は、契約者の側まで行って、ふわりと掻き消えた。緑の匂いがする。それに、土も。辺りを見回し、ソールは、鼻をひくつかせた。

 「――この気配、妖精?」

 「ここは彼らの仮住まいのようなところでな。昨夜はよく休めたかね」

言いながら、老人は指をぱちんと鳴らした。とたんに、何もないところにテーブルと椅子が二つ、現われる。テーブルの上にふわりとテーブルクロス。湯気をたてているポット。それに、焼きたての菓子とミルク粥が乗っている。

 「朝食がまだだろう?」

 「…このミルク粥は?」

 「フローラ姫が勧めておったからな、好きだと聞いたが」

 「……。」

間違いではない。ソールは何も言わず、席に腰を下ろした。折角なのだし、文句は言うまい。

 「食べながら聞くといい。まずは説明からだ。そなたが最初に覚えねばならぬのは、"力加減"だ」

 「力加減?」

 「拳で考えるといい。思い切り殴れば壊れはするが、余計なものも壊れてしまう。自分の手も痛い。敵が一体だけで周りに味方が誰もおらぬならそれでも構わぬが、敵が山ほどいて、味方が近くにいたらどうするかね?」

 「……。」

焼き菓子のかけらをごくりと飲み込みながら、彼は、フリーダの姉フィオーラのいた砦で門を壊してしまった時のことを思い出していた。もう一つの砦でドラゴンと戦った時は、相手が巨大で、思い切りやらなければ倒せなかった。けれどあれは、周囲に味方は誰もいなかったし、壊してはいけない建物も無かったから出来たことだ。それに、あの戦いのせいで手に怪我を負った。

 「分かるよ。なんとなく」

 「それを魔力で考えるのだ。自分では気づいておらんだろうが、そなたは自分の魔力が全く制御できておらん。栓をしているか、栓を解放しているかのどちらかしかないのだ」

 「…?」

 「こういうことだ」

オラトリオが再び指をぱちりと鳴らすと、宙に栓をした壷が現われる。彼が指をふると、壷が揺れ、くるりとひっくり返る。

 「今は栓をしている状態だ。しかしひとたび、戦いになると――」

ぽん、と栓が外れるや否や、壷の中から水がどっと溢れ出す。流れ落ちる水は地面に落ちて飛沫を立て、壷はあっという間に空になってしまった。

 「…こうなる。そなたは通常の人間よりはるかに大きな"壷"だが、栓を開けたままではいずれ空になってしまう。必要な時に、必要なだけの栓を開けられるようにならねばならんのだ。」

 「それは…必要なことなのか?」

老人は、小さく頷く。

 「冬の魔女と戦うのならな。魔力によって生み出された数多くのしもべたちを倒さねば、魔女には辿り着けぬ。あの妖魔に仮初めの命を吹き込まれたものたちは、創造主の手元を離れても破壊されるまで存在し続ける。あれらを倒しても、魔女そのものは痛くも痒くもない」

 「なら、やるしかないな」

上品だが味の薄いミルク粥――それはたぶん、ソールの知っているものよりずっと丁寧に作られているが――をかき込み終えて、彼は、口元を拭った。

 「いつでもいいよ、始めてくれれば」

 「では、行こうか。」

苦笑して、オラトリオは三度、ぱちりと指を鳴らした。今まで目の前にあったテーブルが跡形も無く消えうせ、立ち上がると同時に、椅子も消えた。不思議だ。魔法というのは、こういうことも出来るものなのだろうか。

 ソールは、肩の上に乗っているティキをちらと見やった。

 「こいつも居ていいのか?」

 「構わんよ、最初はな。」

ソールから少し離れた場所に立って、老人はいつも携えている細い杖の頭の部分に両手を置いた。

 「そなたは、火の精霊の加護を知っておるかな」

 「? いや…」

 「それは、こういうものだ」

老人が片手を上げ、その手の上に、ぼうっ、と音を立てて瞬時に火球が生まれる。渦を巻くその真っ赤な炎の塊を、魔法使いは何もいわずに無造作にソールめがけて投げつけた。けれどそれは、ソールに届く前に、寸前でぱんと弾けるように消えてしまう。ティキが、肩の上でごくりと喉を鳴らす音が聞えた。火を飲み込んだのだ。

 「キュッ」

 「…美味かったって」

 「ほう、そうか」

オラトリオは笑いながら頷く。

 「今のが精霊の加護だ。火の精霊と契約した者に火の災いは及ばぬ。――炎の中に投げ込まれても火傷もしない。もっとも、加護の度合いは契約した精霊の力次第なのだがな」

 「ふーん」

 「火と相対する属性も叱りだ。霜や氷の攻撃は、それが、共に在る火の精霊の力を上回らぬ限り、そなたに危害を加えることはない。そなた、おそらく寒さに強かろう?」

ソールは頷いた。生まれてこのかた、あまり寒さに困った覚えはなかった。森の家に一人暮らしていた時も、吹雪の夜でも、それほど寒いということはなかった。最も、暖かいと感じるほどではなかったのだが。

 「では―― これはどうかな」

オラトリオが手を翳す。とたんにソールの足元がゆれ、土の柱が目の前に現われた。慌てて避けようとした背中のほうにも柱が立ち上がって、周囲を取り囲まれてしまう。

 「キュ! キュッ」

ティキが怒ったようにソールの肩の上でとびはねている。ソールは腰のベルトから鎚を引き抜くと、ひと振るいして目の前の柱を砕いた。地面から出てきたものなのに、それはずいぶん硬く、砕いた時にまるで岩のような音がした。

 「そうだ、自分でどうにかするしかない。土の精霊の攻撃は、火の精霊の加護では防げぬ。わしの、この風の精霊もな」

オラトリオは、ちらりと自分の傍らに視線をやった。

 「つまり、ティキに頼るなってこと?」

 「そうではない。頼れる部分は、頼ってよい、ということだ。――そなたたちは、そういう関係なのだろう?」

 「キュッ」

もちろんだ、というようにティキが尾を振りたてる。

 「ああ、…なるほど。分かった」

ソールが鎚を下ろし、ベルトに戻そうとする。その動きを老人は鋭い目でじっと見つめている。

 「時に、その黄金の鎚はどこで手に入れた」

 「同じことを地下の小人たちにも聞かれたよ。これは俺が生まれた時から持ってる。父さんにもらった」

 「だが、それは"ブーリの一族"の持ち物ではないぞ」

 「そうらしいけど、…そんなの知らないよ。大事に持ってろって言われたんだ。使い方は知ってる」

 「ふむ」

片手を顎にやり、刈り込まれたヒゲをしごく。「"祝福されし黄金"――か…」

 「手袋がないから、今はあんまり使えないんだよ」

ソールは、自分の手に目をやった。「投げたあと、戻ってくるのを受け止めると痛いから」

 「だろうな。それは本来、手袋と力帯とともに使うべきものだ」

 「力帯?」

 「反動を受け止めるものだ。ただの人間がそれを使ったら、戻って来た鎚で自分自身が砕けてしまう。かつては神々の血を引く英雄たちが使っておったが、彼らですら扱いに困り、使うときには力帯を締めたものだ」

言って、オラトリオは苦笑した。

 「よくもまあ、そのような恐ろしい武器を意識もせずに使っておったものだな。」

 「そんなこと言われても。これは丈夫だから、俺が力いっぱい振り回しても壊れないし、――使わないときは小さくも出来て便利なんだ」

話しながら、ソールにも少しずつ分かってきた。今まで無意識に戦ってきたことが、どういう意味だったのか。

 オラトリオは一つずつ、丁寧に教えてくれた。

 ソールの持つ黄金の鎚は、かつての神々と巨人の戦争の時、"本物の"巨人たちを倒すために作られた武器だということ。それを作った小人たちの子孫が城の地下にいる、あの鍛治屋たちなのだということ。扱うためには強靭な肉体が必要で、しかも一振りごとに魔力を削られるモノだったため、ほとんど実戦で使われることはなく、持ち歩くことの出来る者さえほとんどおらず、戦争の終結とともに失われたと思われていたこと。

 魔力とは、生命力のようなもので、尽きると命にも関わるものであること。それゆえ戦いの時には魔力の残りに気を配らなければならないということ。

 通常の精霊使いは精霊たちを魔力の契約で従わせるため、魔力が尽きれば自分の身が危険になることもあるということ。


 ――それらは、ソールがなんとなく感覚では知っていても、言葉にされるまではっきりとは分からなかったことばかりだった。




 それから何時間か後、ソールは、地面に寝そべって空を仰いでいた。

 「ふむ、初日から詰め込みすぎたかな」

オラトリオの声が足元のほうから聞えてくる。ベンチに腰を下ろす気配。「わしも、久し振りに少しばかり、はりきりすぎたようだ」

 目の前がちかちかしている。目の錯覚かと思ったが、そうではないらしい。

 「キュッ」

 「…お前の仲間たちだな、これ」

ソールが片手を上げると、その手の上に、まるで雪のような光の粒がひとつ降りてきて、おずおずと指先に触れ、ふわりと去って行く。彼の周りには、いつのまにか花が咲いたように、精霊たちの群れが集まってきていた。

 「精霊は、自分たちに近いモノに惹かれる習性がある。精霊というのは元々、世界の始まりとともに生まれてきた元素の集合体だ。同じように世界の始まりの時から在る"ブーリの一族"には、どこか惹かれるものがあるのかもしれん」

しばらく目の前を舞っている精霊を眺めていたあと、ソールは、体を起こした。周囲にたむろしていた精霊たちが、風に吹き散らされるようにして散ってゆく。それとほぼ同時に、建物のほうから、誰かが歩いてくる足音が聞えた。

 姿を現したのは、ハルベルトだった。後ろに部下らしき騎士を引き連れている。

 長いマントを翻して中庭に踏み込んできた男は、意外そうな顔をしてオラトリオを見、それから、ソールのほうに視線をやった。

 「ああ、――今日から訓練をすると言っていたな」

一人納得したように頷き、そのまま通り過ぎてゆく。

 「結構なことだ。精進めされよ」

 「……。」

腰に下げた剣。額に輝く金の王冠。

 男が去っていったあと、ソールは訊ねた。

 「あの人って王様みたいだな。でもこの国の王は、女王なんだろ?」

 「無論そうだ。だが、あの男も国王には違いない。…亡国の、ではあるが」

ハルベルトの去っていったほうに視線だけを向けながら、老賢者は、静かな口調で言う。

 「あの男は、元はここの西の大国エデルの国王だった。しかしエデルは、魔女の襲撃を最初に受け、国ごと滅びてしまったのだ。それで、婚約者だったゲルダ女王の長女のフローラ様のもとに入り婿となった。魔女を倒し、おのれの国を取り戻すことを誰より望んでいるのは、あの男だ。」

 「あんた、あの人のことはあんまり好きじゃないみたいだな」

 「単に、相性が悪いのだ。ハルベルトは"古き神々"の血もわずかながら引いておる。英雄の家系なのだ。そのせいで自分に自信があるが、部下たちを顧みぬ。わしなどは、少しでも役に立てば良かろうとくらいにしか思っておらんだろうな。」

 「ふうん」

視界の端に消えていくハルベルトの姿を、ソールは、寝そべったまま眺めていた。確かに強そうだが、…どのくらい強いのかは、よく分からない。それに、あまり気持ちのいい感じがしない。

 彼は、立ち上がって尻をはたいた。

 「今日はもう終わりなのか? 俺はまだ疲れてないけど」

 「わしがもうだめだ。腰が痛くてな」

苦笑しながら、オラトリオはベンチに座ったまま手を振った。

 「続きは明日にしよう。そなたも無理はせぬことだ。」

 「…そうか。これから夜までどうしようかな」

 「そなたには、ほれ。用事のありそうな連中がおるぞ」

振り返ると、物陰に隠れてくすくす笑いながらこちらを伺っている妖精たちの姿が見えた。いつからそこにいたのだろう。ヤルルやアルルに似た妖精もいるが、全く違った姿形のものもいる。

 「……。」

こんなに沢山の妖精を見るのは、はじめてだ。

 ソールが戸惑っていると、一人の妖精が、ふわりと近づいてきた。

 「あそびましょ?」

それが合図だった。わっと周囲を取り囲まれ、彼は身動きが取れなくなってしまう。

 「うわ、ちょっと待てよ。何だよこれ…」

 「退屈しておるのだろう。相手をしてやればよい。なに、殺されはせぬよ」

それだけ言って、オラトリオの姿は風の精霊とともにかき消されるようにして消えてしまう。あとには、もみくちゃにされて大変なことになっているソールだけが取り残されていた。


 それは、彼が今まで生きてきた中である意味最も恐ろしく、とてつもなく疲れる出来事だった。

 いつもの二人など比べ物にならない。妖精というのは、イタズラ好きで、そして、気まぐれな存在なのだ。

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