第四章 7

   七


「右府様。この巨大になった大阪城も、あの巨大な艦隊軍も、豊臣が天下を獲り直し。この日本を平和な国にするためです」

 幸村は昂然と言い放った。

「大阪城は幸村のお蔭で平和になった気がするが、今のようでは、駄目なのか」

「大阪城は平和になりました。しかし、そのためにどれだけ、多くの将兵が、血と汗を流して働いていることか。やっと名古屋城を陥落させたところです。木村重成を大将に、塙団右衛門、後藤又兵衛、薄田隼人らが名古屋近辺で、必死に活躍して、徳川に対抗しているからこそ、家康は攻めてこられないだけです。家康の天下への執念は彼が眼を閉じるまで消えることはないでしょう」

 その名古屋近辺を、豊臣の将兵が、次々と、掃討しながら、各城に逃げこんだ者を攻めていた。

圧倒的な強さを、発揮していた。

離れていても、弓、弩、鉄砲の腕は確かで、およそ無駄矢、無駄弾丸(たま)を使わずに、敵に肉薄していった。豊臣兵は、日常の訓練が違っていた。

一人々々の強さも違っていたが、五人一組の班の強さになると、それがさらに違ってきた。強さが倍加するのであった。

片膝をついて敵を狙撃するときには、一人が、背中に鉄の盾を背負って屈んだ。

その盾の上に、射手が、銃剣の二脚を置いて、敵を狙った。

銃の先が安定するので、命中率が高くなった。

こうした連携動作が、極めて、自然に出来るようになっていたのであった。

演習のたまものであった。

 まれに、遊軍が、個人的な戦いを行っても、体術、空手を、徹底的に訓練をしていたから、誰もが豊臣軍は強かった。

また、直ぐに友軍が駆けつけて、絶対に一人切での戦いにせず、槍で敵の足を払って倒したりした。

戦場で、倒れたら敗北であり、死を意味した。

直ぐに鎧通しで、止めをさされた。

豊臣軍の強さは、半端ではなかった。

接近戦で、乱戦になっても、五人一組で徹底的に盾の使い方を研究していて、鎧通しの付いた盾で、押しまくってくるのである。

離れても、接近戦になっても強かったのである。

そのことを、幸村は秀頼に言ったのである。

「そうであったか。大助も知っておったか?」

 と秀頼は、自分の不勉強を恥じた。

「はい。私がこんなに若くなければ。私自身が闘って、家康の邪悪な野望を、挫いてきたいとさえ思っています」

「そうか、大助も承知いたしていること、八歳も年上の兄が知らないというのは、いかにも情けない。執権殿。余に、善き指導者を付けて欲しい」

「そのお考えは立派なことです。文武両道と儀礼、他者への思いやり、祖先への感謝の思いを身に着けて下され」

「わらわも習いたい」

「おお。善きことじゃ。三人でともに習えば、励みにもなろう。総教授を宮本武蔵殿にお願いしよう。騎馬は、佐助とモンゴルから十数人を呼んでいる。豊臣に、日本一の騎馬隊を創設しようとおもってな。騎馬の名手はモンゴル人じゃ、基本から徹底的に習いなさい。才蔵にも、眼、耳、匂い、味、触覚、それらを、総合的に感じる力を習いなさい。経済は、青柳千弥に習って、算盤は、菅沼氏興に、医学は、曲直瀬道三を招こう。曲直瀬は儒教の大家でもある。同時に儒も習いなさい。軍学は、大道寺孫三郎から七書から習いなされ。農業については、田中長七兵衛の一門から学び、艦船、水軍についでは、清水将監から、そして、

現在の日本の状況については、高梨内記と、佐助から学びなされ、ここが、一番大切なところです。焦らずに、少しづつ進歩していくことです」

 四人は天守閣に登っていたが、北側を改めてみせて、幸村が暫く眺めていたが、

「大切なことだから、覚えて下さい。そうしたことは、お父君の太閤殿下も、同じことを思われたと、思いまする」

「・・・」

 淀は、幸村が語っていることとは、別の意味で、心の奥に、微かな疼きを思えたが、

(思い込ませたことは、思い込ませ切ることで真実になる)

 と再度、堅く自分に誓った。

秀頼の出生の秘密であった。

淀自身にも太閤の子か、三成の子か、判断は付かないのであった。

幸村は、そんなことには気が向かずに、城の改修のことで、頭が一杯だったのであった。

「北側には、大変に、多くの川が流れております。攻めにくいこと夥しいのですが、それは、鉄砲が初期であったこと、大砲が進歩していなかった頃のことで、弓矢と種ヶ島が、飛び道具だったころのことです。山城ではなく、平城を選択されたのは、天下を平定して、殿下に歯向かう者がいなくなったところから、政治の中心地としてこの広大な平野を選ばれたのでしょう。しかし、なんらかの形で城の防衛を考えられた。それが北側の複雑な河川の流れです。しかし、河川が多いということは、水軍にとっては、最も攻めやすいということなのです。南蛮の、いや、ヨーロッパといいましょう。彼らの帆船は、商船と言えども、大砲

と、鉄砲を積んでいます」

「幸村様の眼の中には、敵は徳川だけではなく。南洋や、明、朝鮮、特にヨーロッパまでが、視野に入っているのですね」

「はい。淀様。南洋では、ルソンはスペイン。モルッカ諸島、ニューギニア、スラウエシ島、ジャワ島、スマトラ、マラッカと言ったところは、オランダの、西洋(さいよう=マカオのこと)はポルトガル。スマトラと、ニューギニアでは、ヨーロッパ同士の、オランダと、イギリスが争っています。 すべて植民地と言う奴隷の国にされています。その風は、琉球を経て、日本にも来るでしょう。国内で争っている場合ではないのです。 徳川にはそれが、判らない。 太閤は、大きな間違いをしました。攻める国は、朝鮮ではなく、南洋だったのです。どうしてそれを、家臣たちが進言しなかったのでしょう。 加藤清正も、小西行長も、薩摩の島津も、なんども、船を送り交易をしているのです。 判っていたはずです。 南洋にはすでに、日本町が幾つもあるのですよ。日本は海洋国なのに、徳川は、水軍さえ、持っていない。吝嗇なのです」

「太閤のお傍に幸村様がいてくれたら」

「無理です。拙者は幼く、信濃の山奥にいましたからね。 祖父の幸隆は、太閤の碁のお相手をしばしば仕っていたようです。 軍神と言われた、武田信玄公の、二十四将となり、信州先方衆であった祖父は、信玄公亡きあと、武田勝頼公が、実質的には織田信長公に滅ぼされ、信長公と、連盟をしていた家康が、甲信を得ました。 祖父幸隆も家康に臣従いたしましたが、どうにも反りが合わなかったと、書き物に記してあります。 その後、太閤様の時代となって、家康は、武蔵 (地名)に移りました。祖父幸隆が、世界に眼を向けていた武将は、三人 しかいなかったと述べています。 一人は信玄公で、山国にいながら、海が欲しい。水軍が欲しいと言って居られたそうです。 その後、今川亡きあと、駿河に進出したときに、一番はじめにしたことは、武田水軍を持ったことでした。 これで、世界に出らせると思ったのでしょう」

「凄い見識ですね」

 といったのは、秀頼であった。

「はい。次が秀頼様の大伯父の信長公でした。 積極的に世界の文化を採りいれて、南蛮鎧まで造らせました。 海賊大将と言われた、九鬼嘉隆に、毛利水軍負けないために、巨大な鉄船を造船して、当時、はじめて、竜骨というものを、南蛮の帆船から採りいれて、軍艦を造ったのです。 そして、見事に毛利水軍を撃破したのが、この木津川の河口なのです。 秀頼様。 あなたの大叔父ですぞ。 淀様の伯父様です。 そして、朝鮮を制覇しようとなさって、九州に名護屋城と言う基地まで造られた。 世界に眼を向けておられたのです、秀頼様の父君は。 しかし、攻めるべきは朝鮮ではなく、琉球、高砂(台湾)南洋だったのです。

 残念で仕方がありません。 祖父の幸隆も、九度山でなくなった昌幸も、拙者も同じ思いです。 何が、あろうとも真田三代は」

「四代です」

 大助が、口を尖らせて言った。

「すまぬ。四代だ。豊臣の譜代の気持ちは変わりませぬ。 四代であったな」

 幸村が改めていったので、四人が笑った。

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