第5話

 宴は仕切りなおされ、伝聞師が各地で見聞きした話に聞き入った。どれもあまり良い話ではなかったが、中には感動する話や心が熱くなるような話もチラホラあった。


 そうして存分に楽しんで宴も片付いたというのに、大部屋には大巫女が座ったままじっと動かないでいた。


 誰もが大巫女に部屋に戻るように伝えたのだが、彼女は一向に耳を貸さずに、じっと目を閉じてその場に坐り続けて夜が更けていく。


 最後の片づけを終え、片付け忘れたものがないかを柰雲が見回っていた時、部屋にぽつんと坐る大巫女を発見した。


「……大巫女さま、早くお部屋にお戻りにならないと」


 今夜は暑くて寝苦しくなりますよ、と柰雲は大巫女の前に片膝で座った。すると、ぱちりと大巫女の瞳が開く。


「柰雲、參ノ國の大陸に伝わる神話を覚えているか?」


「神話、ですか……まあ一応は」


 答えると、大巫女は満足そうに頷いた。


「かの昔、まだ大地がやわで実りが少なかったころ。地に生きる人間が困っているのを救ったのは、三人の神だった。人々は神々の持ってきた実を譲り受けて育てた。その実は一粒が一万粒にもなるという……」


「三賢人の和賀ノ実わがのみ神話ですね」


「人々は実を以て栄え、産業、文明、流通を発達させた。しかし、実を育てる肥沃な大地を求めて戦争が起こった。三人の神は、自分たちの与えた実が人間の戰の元凶になったのを悲しみ、和賀ノ実を一粒残らず大地から没収し姿を消してしまった……」


 柰雲は大巫女がゆっくり話す言葉を靜かに聞いた。


「以来、大地には痩せた穀物しか育たなくなった……伝説の和賀ノ実があれば、どんなにいいことでしょうね。さあ大巫女さま。お身体に障りますから寝所へ」


 柰雲は彼女の手を引きながら部屋まで連れていった。大巫女を坐らせて部屋を去ろうとする柰雲の背に、しゃがれた聲が届く。


「――和賀ノ実は、神常かむどこの神域にある」


 柰雲は振り返って大巫女を見つめた。


「大巫女さま、なにをおっしゃって……。すべての和賀ノ実は神が持ち帰ったと」


「持ち帰った場所のことを、神常の神域と呼ぶ。天と地の境目で、そこより先は神の領域といわれ、人が住めない。ここよりはるか東にある伝説の場所じゃ。そこで、今でも、神が和賀ノ実を守っている」


 柰雲は大巫女を見つめた。なぜか彼女は嬉しそうだったのだが、柰雲は老婆の言葉に眉をひそめていた。


「伝説を信じても仕方ありません。今は、目の前の畑と家畜をどうするか。候虎たちに食べさせる獸の干し肉を作り、白壽の恵みが一粒でも多いことを願うのが先です」


「世界の均衡が崩れている。人は欲深い生き物だ。大地の嘆きを聞かず、己らの血で汚し、人同士で爭い、思いやりも持てず他人の命をも略奪する。その報いを受ける時なのじゃ」


 ふふふ、と大巫女は含みのある瞳で柰雲を見つめてくる。彼女と目が合うと、誰しも心の奥底まで視られたと感じる。


 それはこの老婆の持つ不思議な力のひとつだった。大巫女は太古の昔から伝わるまじないを心得ており、魂を視、心の本質を暴く。


 柰雲は姿勢を正して、大巫女へ向き直った。


「和賀ノ実にうつつを抜かすより、毒稲から田畑を守ることを優先します。去年も、あんなにたくさんの村人が死んでしまったんですよ……家畜たちも、子どもたちもお腹をいつも空かせています」


 重く艷のある種籾を用意しても、年々発芽する量が減っている。そして、芽を出しても三分の一が実を結ばず、朽ちてしまう。


 村人たちには、ひもじさが身に沁みついて取れないほどだ。子を産んだばかりの母親の乳も出ず、子どもたちの手足も枝のように細い。柰雲はこの現状に、いつも目を背けたい気持ちでいっぱいだ。


「神が救ってくれるなら、なぜこんなに苦しいのでしょう。罪のない人がばたばた死んでいくのに、なぜ救ってくれないのですか? 和賀ノ実が本当にあるというなら、わたしが取ってきます」


 大巫女は、柰雲の返事に満足そうに笑う。


「目指すか、柰雲……和賀ノ実を。そなたはこの國の希望じゃ。位を受け取るのに、ふさわしい」


「皆、速玖而が大王になることを願っています。わたしには、なにもできません」


「自分で限界を決めるでない。望めば、なんでもできよう」


「そんな勇気はありません。靜かに暮らすだけで十分です」


 妹を失った悲しみは大きい。にいちゃ、と呼ぶ聲が耳の奥にこびりついて離れない。


 乳の出ない母親にしがみつきながら子どもが泣き、大地に枯葉のような體で還っていく姿を見るのはもう散々だった。


 自分の食い扶持のために、民が一人死んでいく。


 だったらこの命などいらないと、柰雲は幾度となく命を絶つことを考えた。その度に「にいちゃ」と呼ぶ聲が聞こえる氣がするから、できないでいる。


 妹の分まで生きなくてはと思う一方で、自分さえいなければあの幼い命が助かったかと思うと、やり切れない。柰雲は心に黑いものが渦巻くのをいつも感じていた。


「――和賀ノ実を探すがいい、柰雲。いずれ、時が滿ちればそうなる」


 柰雲はどす黑いものが湧き上がる心をなだめ、確信的に言い放った大巫女に向かって首を横に振った。これ以上会話をするのがつらく、柰雲はおやすみなさいと告げて彼女の寝所を去った。


「……神話は人によって生まれ、千年先まで語り継がれるのじゃ」


 ぽつりと呟いた大巫女の言葉は、誰にも聞かれないまま夜の闇に溶けた。

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