第8話 人事課
「あの。おれずっと気にしていて。出張のこと。すみませんでした。どうしても澤井さんが絡むと嫉妬しないではいられないんです。不安で。あなたがいつ澤井さんに連れていかれてしまうのかと思うと、怖くて怖くて仕方がないんです」
保住は苦笑した。
「お前の心配症には困るな」
「心配症だなんて。ですがそれは、おれの本当の気持ちです」
「すまない。大丈夫だ。天沼も一緒だった。問題ない。職務上のことは辛抱してくれ。プライベートでは絶対に澤井とは会わないから」
「——保住さん。しかし澤井さんに、なにかされたら必ず言ってください。おれ、澤井さんを殴りに行きます」
「お前ねえ。職を失うぞ」
「別に平気です」
「おれが困る。お前がいなくなるのは」
嬉しそうにお弁当を頬張る彼は「保住さんに養ってもらいます」と平然と言った。
——そういう問題ではないはずなのに。銀太とこうして話をすることが、こんなにも嬉しいことだなんて。
彼と二人切りで他愛もない話をする時間が、保住は好きだ。お互いに視線を見合わせて笑みを浮かべる。幸せだと体中で叫んでいるような気がした。
卵焼きを口に入れた田口は、はったとした顔をした。
「すみません。つい。保住さんのお弁当だと思うと、夢中になって食べてしまいました。保住さんの昼飯がない。おれ、買ってきます」
「いや。大丈夫だ。安齋たちが戻ってきたらなにか買いに行く。おれは大丈夫だ。心配なのはお前だからな。十分注意しろよ。銀太」
田口は小首を振って傾げたが、ふと笑みを見せた。
「よくわかりませんが、わかりました。注意します。しかし、なにに注意を払えばいいのですか」
「おれにもわからん」
「抽象的ですね」
「そうだな。正体がわからないから恐ろしいのだろう。人は目に見えないものには不安を覚えるものだ。まあしばらく辛抱しておけ。おれがなんとかする。安齋と仲良くな」
そこに安齋と大堀が帰ってきたおかげで、二人の時間は終わりを迎えた。
「あれ! ちょ、ちょっと、室長の弁当を食べる部下なんで図々しいにもほどがあるでしょう」
大堀は田口が弁当を食べているのを目ざとく見つける。
「いい。おれは特に食べたいわけでもなかったからな」
「じゃあ、田口のために買ってきた弁当、室長が食べませんか」
そういうところは気が利くのが大堀だ。保住は「そうするか」と中華弁当を受け取った。
「上司の弁当を横取り、なんてな」
安齋にもからかわれている田口。推進室はとりあえず今のところ何事もなく経過していた。佐々川が負傷してから一週間が経過しようとしている。犯人の当てもなく、何事もない。このままこの件は終わるのだろうか? ——いや。きっと続きがある。保住はそう確信していた。大堀からもらった弁当の蓋を開けると、内線が鳴った。相手は人事課の根津。
「午後一でお時間いただけますか」
彼はそう言った。
***
根津に指定された場所は、納税課の一角にあるミーティング室だった。
「無関係の部署のほうがいいと思いまして」
彼はそう言うと、パソコンを開いた。
正直、澤井からの情報もあり根津のことを訝しんでいる自分がいる。なぜ彼がこの件に関与しているのか。
「副市長からの指示で色々なデータを漁ってみたのですが、田口さんを恨むような人はそう見当たりませんね」
根津はパソコンの画面を保住に見せた。
——澤井は怪しんでいる根津に敢えてそういう指示を出しているというのか?
保住は探るように根津を見据える。彼が犯人であれば、ここで自分に不利になるような情報を出すはずがない。根津が出す情報がすべてとは言い切れない。保住はそんな猜疑心を抱えたまま、彼の示すパソコン画面を見つめた。
「ということは、田口個人の線は消えるということだな」
「それはそうなんですが。そこも弱い。そうとも言い切れないということです。澤井副市長や市長を狙うのであれば、やはりもっと効果的なことが考えられると保住室長もおっしゃっていましたよね。おれも、それはもっともだと思うのです」
「遠巻きに田口を狙ったって意味もないことだ。しかも犯罪すれすれのリスキーな仕掛け方だろう? 傷害事件で田口が訴えれば、警察が動くのだ。しかし、そこまで大事にするような規模でもない。相手は微妙な線ギリギリを責めてくる姑息なやつだ」
「すみません。保住室長。上司には相談するなと言われておりますので、おれができるのはこのあたりがギリギリですね」
彼はそう言うと肩を竦めた。
——上司に相談なし案件か。
「お前の上司は久留飛だろう。この件、久留飛が知らないとは到底思えないのだが」
保住は探るように根津を見る。彼が久留飛をどう思っているのか。気になるところだからだ。彼の反応を確認したい。根津は保住の問いに表情を変えることなく口を開いた。
「ええそうでしょうね。あの地獄耳と言われる広範囲の情報網をお持ちの課長のことです。もしかしたら、おれが澤井副市長の命でこっそり動いているのもお見通しなのではないかと思います」
「ほほう。それを承知で動くとは。お前も危うい綱渡りをさせられているということだな」
「サラリーマンですからね」
彼は自嘲気味に笑う。それから保住を見た。
「おれは、あなたのような人種が羨ましいんですよ」
根津は唐突にそう言った。
「あなたは自由気ままに振る舞っているのにも関わらず、こうしてどんどん取り立てられる。興味がありますよ。どうしてそうなのか。おれとどう違うのか。その相違点を理解できたら、おれのこの腑に落ちない気持ちが鎮まるのではないかと思って」
「それでおれの周囲を嗅ぎまわっていたというのか」
「やはり知られていますか。でしょうね。パーソナルデータを見させてもらいました。そのくらい人事課の特権で咎められるようなものでもありませんよね」
「まあそうだな。お前たちにとったら日常茶飯事なのだろうが、部外者からしたら気味が悪い行為だ」
保住の答えに根津は笑った。
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