第3話 重役は遅刻がお好き
田口は苛立っていた。理由は安齋にある。
「お前、仕事をする気があるのか」
思っていることが口をついて出た。土曜日の夜、至急の案件があると安齋の家に連れて行かれた。安齋からその事案のコンセプトを練っているところなのだが、なんとも安齋のやる気が感じられないのだ。田口がなにか一つ提案すると、いいとも悪いとも言わない。考え込んでいて話が進まない。いつも切れが感じられないのだ。
早く仕事を終わらせて元の生活に戻りたいのに。しびれを切らした田口が、安齋に不満を洩らすと、そこに打ち合わせを終えた保住が顔を出した。
「おはようございます」
時計の針は九時を回っていたが、土曜日以来だ。田口は小さい声で挨拶をした。知らんぷりされるのではないかと心配になったのだ。しかし保住は、いつもと変わらない様子で椅子に座って挨拶を返してくれた。
「田口、どうだ。体調は」
「大丈夫です……けど」
保住の後頭部は寝ぐせが目立つ。ネクタイは曲がっていて、それを直したくてうずうずとしてしまった。
「どうだ。企画は」
「全然ですよ。田口のやつが心ここにあらずで一向にいいアイデアが浮かびませんよ」
安斎の返答に田口は「心外だ」と反論した。
「お前がのらりくらりだからだろう? おれは真面目にアイデアを考えているぞ」
「嘘だ。お前はまったく別なことばかり考えているではないか。とんちんかんなことばかり言って」
いつもなら、自分の味方をしてくれるはずの保住は「真面目にやれよ。田口」と言った。まるで違った世界に迷い込んだみたいだ。なにもかもが腑に落ちない。
「真面目ですよ。真面目じゃないですか。いつおれがふざけたというのです」
「それは知っているが。ともかくさっさと企画を立てないか。時間がないぞ」
保住は「ふ」と笑みを漏らした。なんだか呆れられているような、バカにされているような。しかし、彼が自分に笑顔を向けてくれたのを見るとほっとした。
——嫌われたわけじゃない。
澤井と付き合っていた頃の、つっけんどんな他人行儀な態度とも違う。その笑顔はいつもの保住だ。田口を大事に思ってくれている、優しい視線だ。そう自覚すると、なんだか心がほっとしたのだった。
「企画案が出来るまでは、別行動している時間はないからな。田口。ちゃんと安齋にくっついて歩けよ」
「子どもじゃないんですからね」
田口は不本意そうに保住を見る。彼は艶やかな笑みを見せてから大堀に声をかけた。
「十一時から課長会議だ。大堀、今日はお前を連れて行く。資料用意しておけ」
「え、おれですか」
「そうだ。大堀はお前しかいないだろう」
保住は手元のメモを大堀に手渡す様を眺めていると安齋の声に我に返った。
「田口。続きをするぞ」
***
課長会議とは、市制100周年に向けて、総務部企画調整係主任の高梨が音頭を取り、関連部署の課長たちが集められる定例の会議のことである。この会議は月一回のペースで開催されていた。アニバーサリー事業は、推進室一つでやり切れるものでもない。メインイヤーにはすべての部署でなんらかの取り組みを行うことも決まっているのだ。
高梨が集めたメンバーは、財務部財務課長の
大堀を連れて会場になる一階305会議室の足を踏み入れると、すでに他の課長たちが集まっているところだった。
一人では行動しない。これが鉄則だ。本来であれば、大堀を連れて歩く理由もないが、田口と安齋がともに行動している以上、大堀は自分が面倒を見るしかない。
「遅くなりました。本日は大堀を同席させていただきます」
資料をデスクにおいて、大堀を隣に座らせた。
彼は、そもそも重役クラスとはよく顔を合わせていた男であっただけあって、課長クラスの会議に連れられても動じることはない。むしろ、こういう席で緊張をするのは安齋だ。そんなことを考えていると、公園緑地課長の伊東が苦笑した。
「まだ大丈夫だ。最後ではない。重役様がまだお見えになっていないぞ」
半分嫌味のような言葉に、誰が欠けているのかと周囲を見渡すと、呼び出した張本人である高梨の姿が見えなかった。
「呼び出した本人が堂々たる遅刻。これはいつものお決まりパターンだろう? 水戸黄門くらい安定しているネタだぞ」
農産業課長の喜野田も苦笑した。そんな会話を交わしていると扉が開き、高梨が顔を出した。
「やあやあ、みなさんお揃いで」
そこにいた課長たちは顔を見合わせて苦笑するばかりだが、その意図を理解していない様子の高梨はのんきな顔で首を傾げた。
「高梨。いつも遅刻」
ぼそっと呟く文化課長の野原の声に「やだな~。そうかな? へへ。以後気を付けますね」とだけ言って、彼はどっかりと椅子に腰を下ろした。
——パイプ椅子が壊れそうだな。
保住はあきれる。
「みなさん、正午までの一時間、どうぞよろしくお願いしまーす」
彼は遅刻を咎められたことを気にするまでもなく、飄々と会議を開始した。
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