第6話 仲違い



 仕方のないことなのだ。これは仕事だと、何度も言い聞かせているのに、なぜかそうは思えない自分がいる。心のどこかで、澤井の下心が含まれているのではないかと疑ってしまうのだ。


 ——天沼も一緒だ。大丈夫だ。


 田口にとったら、居ても立っても居られないくらいの大事であった。保住は気を使って自分に話しかけてくれた。「大丈夫だ。心配ない」と何度もだ。だがしかし、それを素直に受け取ることができない自分に落胆したのだ。なぜ信じられないのだろうか。保住のことを信じなくてはいけないはずなのに、それができない自分にがっかりしたのだった。


 今朝。七時の新幹線で保住は出かけて行った。見送りもしないだなんて。なんてことだと思った。後悔しているのだ。

 自宅に居ても落ち着かない。職場にでも行こうかとも思ったが、きっと安齋たちが出勤しているに違ない。そうすると、彼らと顔を合わせることが気まずいのだ。

 別段、悪いことをしたわけでもないのに。安齋や大堀と机を並べて仕事をする気持ちにもなれないのだった。

 珍しく持ち帰ってきた書類のデータをパソコンに落として、自宅で仕事をすることにする。


 時計の針は昼近くになっていた。保住たちら戸沢市とざわしに到着している頃だろう。先方の予定も詰まっていて、無理矢理に土曜日ならば、と入れてもらった日程だと言っていた。


「辛抱するしかないだろう」


 田口は昼食を食べる気にもなれずに自宅のパソコンに向き合っていた。



***



 出張は思った以上の効果をもたらした。先方は市長自らが応対し、梅沢市制100周年記念の年には、戸沢市で音楽祭を開くということで話がまとまった。こちら側が危惧していたよりも好感触の手ごたえてあった。これなら例え市長の交代が起こっても、事業が中止になる可能性は低くなった。


 その保障を得たことで、澤井はとてもご機嫌な様子だ。終始、保住を揶揄い、天沼が嗜めると言う、なんとも疲れる出張であった。


 強行スケジュールであったため、大堀に依頼された土産物の半分も購入できずに、新幹線に押し込められて梅沢に帰ってきたのは、夕方の五時を過ぎたところであった。


 その間、田口のことが気がかりでならなかった。本庁舎の前で澤井たちとは別れ、推進室へ足を運ぶと、安齋と大堀がそこにいた。


「あ、室長! お帰りなさい」


 大堀は保住の手にある紙袋を見つけて、嬉しそうに駆け寄ってきた。小型犬がしっぽをちぎれんばかりに振っているようで笑ってしまう。


「全ては購入できなかった。確認してくれ」


「わ~い! 嬉しいです。室長」


 語尾にハートマークでも付いていそうな猫なで声だ。保住は呆れて自分の席に座った。思ったよりも疲れているのだろう。昨晩、縋るように見ていた田口の視線が忘れられないのだ。精神的な疲労——とでもいうところだろうか。


 天沼の目を盗んでは傍に寄って来る澤井を牽制するのに一苦労だった一日なのに、嫉妬心からの八つ当たりをされるなんて、踏んだり蹴ったりとはこのことだ。


 ——ここまで苦労して澤井との距離を保っているおれの苦労を、銀太にも理解して欲しいものだ。


 そんなことを考えながら、デスクの上に並んでいるメモ用紙を眺めていると、観光課長の佐々川が顔を出した。土曜日の夕方だというのに、観光課は平日のように賑やかだ。なにせ観光課の繁忙期は週末だ。市内で開催されるイベントごとに駆り出されるこの部署は、華々しい事業が多い割に苦労も絶えない。


「出張だったんだって?」


 神経質そうな、それでいて愛想のいい笑みを浮かべた佐々川は、空いている田口の席に腰を下ろす。


 安斎の件で世話になったこともあり、佐々川と保住の距離感は比較的近しいものであった。息抜きをしたくなったりすると、ここのところ、こうして推進室に足を運んできて無駄話をしていくのが日課になっていた。


「佐々川さん、出勤ですか」


「われわれは週末のほうが忙しくてね」


「戸沢市に行ってまいりましたよ」


「ほおほお。とうとう話が進んできたねえ。澤井さんも強引だからね。市長選前にってところだろう?」


 どこ管理職も市長選という言葉が合言葉になりつつ時世だ。保住は苦笑した。


「そうなんでしょうけど。おれにはあの人の腹の内は測りかねます」


「またまた。秘蔵っ子のクセに」


 彼はにやにやとしながら、田口のデスクに視線を落とした。本来は几帳面であるはずの田口だが、昨日の帰り際は、保住の出張の件で朦朧としていたのか。珍しく乱雑になっている書類の山があったのだ。こうなると佐々川は気にしないではいられないらしい。彼は田口の書類をまとめて握ると、お尻をトントンとして書類をそろえる仕草をした。


 ——だが。


「——ッ!?」


 彼の突然の声に保住は、はったとして腰を上げる。


「佐々川さん?」


 彼は左手を握りしめて呆然としていた。彼の蒼白な手の平からは真紅の血液がしたたり落ちていたのだった。



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