第23話 不甲斐ない
田口は目が覚めた。なんの夢も見なかった。ただ胃の痛みが軽くなってきたということだけは自覚できた。病院での治療が功を奏したというところだろうか。
体の調子が悪いと心も弱くなる。なんだか保住が恋しくて仕方がなかった。
「保住さん……」
心の中で呼んだ最愛の人の名だったが、無意識のうちに口から洩れ出たのだろうか。自分の声にはっとして意識が引き戻された。
手を動かそうとして、違和感を覚えて視線をやると、腕には点滴が繋がっていた。田口は、胃の痛みがあり、市役所目の前の熊谷医院に搬送されたのだ、と言うことを思い出した。
付き添ってくれた大堀はもういない。それはそうだ。いつまでも付き添っているなんて時間の無駄だ。
左手をかばいながら体を起こすと、布とは違う質感の物に触れたので掴み上げみると、それはメモ用紙だった。
中には見慣れた綺麗な字で『5時過ぎに迎えにくる』と記載されていた。
名前は書かれていないが、田口には誰からのものかよくわかった。
「保住さん……」
——来てくれたのだ。
田口の目尻には涙が浮かぶ。今朝からすれ違いばかりだ。精神的に、こんなに弱ってしまう自分の不甲斐なさに悲しくなった。剣道をやっていた頃は、ちょっとやそっとじゃへこたれないタイプだったのに……。
「弱体化してどうする。おれ……」
頬をパンパンと叩いてから、「しっかりしろ」と呟く。すると、田口が起き出した気配を感じ取ったのか、腰回りが丸い中年の看護師が顔を出した。
「田口さん、点滴終わった?」
「あ、はい。そのようです」
ロシアの人形マトリョーシカのような看護師はコロンコロンと転がっていきそうな勢いで微笑ましい。少し疲れている心が癒された。彼女は窮屈そうに狭いスペースに入り込むと、田口の腕に貼られているテープをはがし、それから点滴の針を抜いた。
「ここ自分で押さえて。体調はどう?」
「痛みは和らぎました。なんだかまだ、しっかりしませんけど。ずっと寝ていたからだと思います」
「そう? 後は自宅でゆっくりされるといいわね。脂っこいものはしばらく食べないこと。おかゆとかね。うどんとか。お腹に優しいものを食べなさいよ」
「はい」
田口が頭を下げて起き上がろうとすると、マトリョーシカは「ああ、ちょっとここで待ってなさい」と言った。
「職場の方がね」
「——え」
——本当に迎えに来てくれたのか? 忙しいのに。
マトリョーシカが出て行ってからしばらくすると、カーテンの隙間から保住が顔を出した。
「すまない。遅れた。もう終わっていたのだな」
「保住さん……」
——泣きそう。
保住の顔を見ただけで、感激して涙が出そうだ。
「そんな泣きそうな顔するなよ」
保住は苦笑した。
「すみません。——保住さん。不甲斐ない。本当、情けない限りです」
「謝るな。おれが悪い」
保住は田口の隣にやってきて、目を細める。それは優しい表情だった。
「会計をして、都合のいい時にお帰りください」
マトリョーシカの声がカーテン越しに聞こえたので、「ありがとうございます」と返答をしてから、保住は田口に視線を戻した。
「すまなかった。今回はおれのせいだろう?」
「いえ、そんなことは……」
「銀太。隠しても仕方がないことだし。おれは隠し事はしたくない」
彼の瞳はまっすぐに自分を見下ろしている。ベッドの上で座っていた田口は小さくうなずいた。
「すみません。おれが不甲斐ないのです。少しのことで不安になって。安齋に突かれると、どうしても揺れてしまう。不安になるのです」
しかし保住も「同感だ」と笑った。
「あいつは手強いな。今まで色々な人間と出会ったが、ここまで惑わされたのは珍しいことだ。お前には散々忠告されていたのに。本気にしなかったおれの責任だ」
「保住さんにも、そう言わせるなんて。安齋という男は恐ろしいですね」
「なかなか人の心理に付け込むのが得意らしい。あいつのずば抜けた能力の一つだな。理解した」
保住は腕を伸ばしたかと思うと、そっと田口の頬に触れた。
「お前が心配しているのは昨晩のことだろう?」
保住の言葉に、田口は頷いた。それを確認した保住はそのまま言葉続けた。
「安齋に相談したいことがあると言われて仕事を切り上げたのが九時過ぎだった。それから近くの赤ちょうちんに行って、あいつの話を聞いていたが、いつもの調子で酩酊してしまったようだ。目が覚めたらあいつの部屋にいた。なにが起こったのか、おれにはわからない。だからお前には、なんと伝えたらいいのか迷っていた」
田口にとって、安齋は危険であり、何か仕掛けてることもわかっていたはずなのに、それを未然に防げなかったということが悔やまれるのだ。
安齋は、理由こそ知るよしもないが、田口が澤井との会合が決まったその当日に仕掛けてきた。まるで、予期していたかの如くだ。
安齋という男は臨機応変に物事を判断し、そしてそれらを断行する決断力や度胸もあるということだ。仕事で仲間になれば心強いが、敵には回したくないと、田口は思った。
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