第13話 こだわるモノ
上の空というのは全く持って珍しいことだった。仕事中に別のことで頭がいっぱいになることはほとんどなかったのに——。
「おい、聞いているのか。保住」
霞みがかかったような意識を引き戻してから、顔を上げると財務部財政課長の
「ええ——いいえ。すみません。聞いていませんでしたね」
「大丈夫か? お前」
年齢は四十台前半だと聞いている。観光課長の佐々川くらいだろうか。身長は保住と同じくらい。会うたびに装着している眼鏡が違うというのは、彼が眼鏡好きということなのだろうか。
もともと人見知りなタイプのようで、ぶっきらぼうな対応が多い。口もあまりいいとは言えない。
四月の初っ端から廣木からの苦情の電話が多いおかげで、敵意を持たれているのかと錯誤していたようだ。
そもそも財務との攻防は日常茶飯だ。それはどこの部署においても然り。財務の人間と仲良くなどできるはずもない。いつも喧嘩腰になる。
廣木は、元々慎重で保守的な男なのだろう。冒険はしないタイプ。だからこそ、財務課長に抜擢されたに違いない。その席に大盤振る舞いをしてしまう人間を座らせるわけにはいかないからだ。
廣木は前例のない推進室の事業をよく見てくれている。予測の立たないものばかりなのに、その費用対効果を計算して意見してくれる。
それがよく理解できるようになってくると、「口うるさい嫌なやつ」というよりは、「一緒に戦ってくれている同志」に見えてくるものである。
最初の頃に比べて、廣木との打ち合わせはそう嫌な気持ちにならなくなってきていたところだが……しかし、今日は保住のほうに問題がある。そういうことだった。
いつもはああだこうだと喧嘩腰の多い打ち合わせだが、今日は打っても響かないのではつまらないとでも言いたげに廣木はボールペンをくるりんと回して、保住を見た。
「お前さ。無茶しすぎてんじゃないの? この前だって、ゆずりんグッズの企画をあんな一気に推し進めて」
「あれは——」
——自分が欲しかったから……なんて言えるか。
保住は苦笑いするしかない。
「あれは、急いでいたのです。急ぎの案件でした」
「そうか? そうは思えないが……。保住。お前は少々走り過ぎだぞ。この事業は先が長い。もう少しペースを落とせよ」
彼はそう言った。いつもの廣木からは想像もできない言葉に少々、驚いた。しかしそれは、彼なりの優しさがあるのかも知れない。
まさか心配されるなんて……と思いつつ、書類から視線を上げてため息を吐いた。
「……廣木さんのおっしゃる通りかも知れませんね」
——疲れたと自覚するだなんて。おかしなことだ。
なにもかもが、気が抜けたというのだろうか。田口との関係性を必死に覆い隠そうとしてきたはずなのに、いつの間にか安齋に感づかれていた。もう後がないと言う気持ちになっていた。
「素直なお前は気味が悪いな」
「そうですか? おれは結構、素直だと思っているのですが」
保住の言葉は至って真面目だが、廣木は「まさか? 冗談だろう」と肩を竦めた。
いつも飄々とした態度だから周囲からはそう思われているのだろう。私設秘書の槇にもそう指摘されたことがある。あれは昨年の話だ。
「すみません。自分でもよくわかっています。素直ではないし。誰彼構わず食ってかかるし。本当、組織には不要な人材です」
「どうした、どうした? 珍しいな。お前が弱音を吐くなんて」
この人に話しても仕方がないのに。目の前にいるのが誰でもいいのだろうか? それとも廣木だから話すのだろうか? 口が悪く、愛想もない男だが、だからこそ自分はこの男を信頼しているのかも知れないと思った。多分——相手が高梨だったら絶対に話さない。
「なにもかも上手くいきません」
保住の言葉に廣木は口元を緩める。
「世の中、そう上手くいくかよ。なにもかもが上手くいっている時が一番危うい。周りが見えていないからな」
「そうですね。——確かにそうだ」
何事もなく平凡に過ぎてきた。いや——他人から見れば、波乱万丈と言われるかも知れないが、自分の受けている感覚としては『そう悪くない』だ。順風満帆な人生だたはずだ。昨晩までは——。
たったあんなことで、こんなにも足元が危うくなるものか。
——なにを怖がっている? 自分の地位が失われることか? 田口とのことを安齋に知られてなにを恐れる?
「お前でも、こだわるモノができたという事だな」
「——え?」
廣木は愉快そうに笑った。
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