08 居眠り猫




 橋谷田たちが席に戻るのを確認してから、大野は声を潜めて澤井を見た。


を見にきたのだが」


「ああ。——あちらに」


 澤井はそう言うと、視線でその対象物を指した。彼はふむとうなずいてから視線を向ける。しばし、それを確認した後。大野は口元をゆがめた。


「ほう。なるほど。噂には聞いていたが。随分とおとなしそうじゃないか」


「おとなしくさせているだけです。目を離せばすぐに暴れ出す。首に鎖でもつけておかないと、あっという間ですよ」


 澤井の答えに大野は苦笑した。人の良さそうな笑みだが瞳は笑ってはいない。澤井はこの男の性格を承知している。ただじっと押し黙って彼の言葉を待った。


「お前の物言いは、大袈裟だぞ。澤井——」


「そうでしょうか。そのくらい凶悪ですよ。手を焼いています」


「そうか。それは面白いな。キミでも手を焼くのか?」


 大野は澤井に視線を戻した。


「今晩どうだろうか。もっと側で見てみたい」


「承知しました」


「七時に。いつものところで」


 大野は口元を歪めると、踵を返した。長身で痩躯。窪んだ眼窩に光る双眸は灰色にくすんでいる割に、その光は鋭い。澤井ですら少々肝が冷える。彼はあっという間に部長の座にまで上り詰めることだろう。

 

 ——別にどうとも思わないが。得になるなら付き従うだけだ。

 

 そんな大野の後ろ姿を見送ってから、彼は自席に戻った。



***



 大野が立ち去ったのを確認し、仕事をしているフリをしていた河合は、そっと山田に声をかけた。


「保住くんのことじゃないかしら」


「え?」


「彼を見に来たみたい」


「まさか。ただの新人だろう?」


 橋谷田も腕組みをした。


「まさか」


「でも係長。話の内容は保住くんのことですよ。『おとなしくさせている』とか、『手を焼いています』とか」


「それは……」


「だけど、どうして総務部の次長が? おれたちとは関係ないし」


「ねえ」


 職員たちは詮索を始めた。


「そんなに目をつけられているのかしら」


「これは相当やばいよな」


「首切られるかもしれないし」


 さすがにそんな話が飛び交うことを係長として「よし」とはできない。橋谷田はストップをかけた。


「仕事中だ。私語は慎もう」


「申し訳ありません」


 一同は口々にそういうが、橋谷田だって気持ちは好奇心でいっぱいだ。


 ——総務部次長がなんの用だ? 興味深い。



***



 ホチキスで資料をまとめていた。保住の一番大嫌いな作業だ。しかし適当にできないのは性分だ。

 

 ——曲がっているのは気に食わない。


 イライラとしながら最後の一部を綴じ込んでほっとした。資料を整えてから、澤井のところに持参しようと席を立とうとすると、逆に彼が近寄ってきた。


「終わりましたが」


「そうか。ご苦労」


 時計の針は五時を指す。


 ——今日は帰らせてくれ。


 今日は気に食わない単純作業だったおかげで疲労感が強い。もっと創造的な面白い仕事がしたいのに。そんな顔で澤井を見上げると、彼から更に資料を手渡された。


「なんです」


「まとめなおしておけ。明日の議会で使用する」


「え……」


「文句あるか」


「……いいえ。明日の朝でいいですか」


「だめだ。今日中。六時半までな」


 時間指定とは、本当に面倒な注文だ。澤井はさっさと書類を置くと自席に戻って行った。


 ——帰らせろ!


 資料に目を通してからパソコンに向かう。こんな毎日はうんざりなのだ。好きなことをしたい。退職してやりたくなる。だがそれが澤井の手であると理解しているから。


 ——絶対に依願退職なんてするか。


 ここまでくると半分はヤケだ。プライドとかではない。多分、ただの意地っ張りの負けず嫌い。パチパチとキーボードを打つ。こんな資料作りなんて、保住からしたら朝飯前だ。幼稚で、バカにしているのかと更に腹立たしく思った。


 ふと顔を上げると、時計は六時少し前。周囲は退勤してしまっているのか。残っている人はまばらだった。

 でき上がった資料をプリントアウトして澤井のところに持っていく。今度こそ帰るのだ。そう心に決めて。


「できましたけど」


「そうか。そこに置いておけ」


「あの。帰ります」


「だめだ」


「えっと。他になにか……」


 ここのところ、すっかり澤井付きになっているおかげで日常業務は免除されているため、彼からの指示がないと、なにもすることがないのだ。仕事がないなら帰ったっていいではないかと思うが……。

 読んでいた資料から視線を上げて、彼は隣の席に座るように指示する。澤井のデスクの隣には、一人分のデスクが余分に置いてある。そこには決済済み、返しの書類箱が並び、彼の書類、資料、書籍などが山のように重なっているのだ。


「座れと言われましても。一体、今度はどんな嫌がらせなのですか」 


 一瞥をくれてやっても澤井は無視。書類に視線を戻す。


「課長」


「うるさいな。黙って座っていろ。今晩は接待だ。お前も連れて行く」


「はあ? そんな話きいておりません。業務時間外のお付き合いはしていません」


「業務時間外ではない。その延長だ」


「ですから、それは時間外ですよね?」


「お前はわかっていないな」


 面倒とばかりに、澤井は保住を見る。


「サラリーマンは二十四時間忙しいのだ」


「そんなこと職務規定に入っていないじゃないですか」


「硬いことを言うな」


「言いたくもなりますよね? そんなの。理不尽です。断固抗議したい。おれは帰りたいです!」


「だめだ」


 それ以降、澤井は完全無視。強引に帰ることも憚られてしまうとは。我ながら飼い慣らされているようで不本意。だけど帰れないのはどういうことなのか。仕方なしに椅子に持たれてじっとするしかない。


 下っ端のくせに課長が見ている景色を拝めるなんて、普通の人からしたら羨ましいポジションなのかもしれないが。正直に言うと精神的に肉体的に追い込まれているのは事実だ。

 澤井に対する苛々や怒りで夜も眠れない。悪態をついてるのも、「澤井課長と戯れあって、仲がいいのね」と言われて、冗談だと思われるかもしれないが、自分としては至って本気なのだ。子供でも相手にするかの如く、軽くあしらわれるのが不本意。

 目を閉じる。眠い。休みたい。だけど、きっと休まらない。そんなことを考えていると、うつらうつらしていしまったらしい。


「おい! 寝るなよ」


 はったとして顔を上げると、澤井に肩を揺さぶられていた。


「すみません」


 ——失態。


 澤井は苦笑していた。


「本当、おまえには参る。度肝を抜かれるな」


「……おれのせいではないです」


「じゃあ、おれのせいか?」


 彼は愉快そうに笑み、荷物を抱え上げた。いつのまにかパソコンはシャットダウンされて、帰宅の準備ができているらしかった。


「くれぐれも失礼のないようにな。ここからも仕事だ」


「……一体、どなたとの会合なのですか」


「黙ってついてこい」


 澤井はそう言い放つと、颯爽と廊下を歩き出した。




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