第8話 あいつにはまだ、オレが必要だ。
また一日が始まる。天沼は七時半に副市長室に出勤する。澤井が来る前に換気を行うためだ。今朝もいつも通りに出勤して準備をしていると、いつもよりも早い時間に不機嫌な顔の澤井が顔を出した。
「おはようございます」
「今日の予定は?」
朝一番の澤井は不機嫌極まりない。それは常だが、今日はますますご機嫌が斜めだった。
思ったよりも早くやってきた澤井に違和感を覚え、天沼は一瞬言葉に詰まってしまった。その様子に怪訝そうな澤井が鋭い声を上げた。
「おい。
「は、はい! 申し訳ありません」
「なんなのだ? お前、今日は変だぞ?」
「あ、あの。それは……」
天沼が言いよどんでいると、扉がノックされた。話題が逸れるてくれてほっとした。
天沼は慌てて扉を開けようと体をそちらに向けたが、ドアは勝手に開いた。こんな不躾な態度が許されている人間は一人しかいない。
「昨日はすみませんでしたね」
「やっと顔を出したな」
天沼の予想通り。やってきたのは保住だった。澤井は保住を見据えた。姿を見せた彼は顔色が悪い。いつもそう血色がいい男ではないが、今日はますます蒼白。病的な白さとでもいうのだろうか。しかも、目の下にはクマができていた。
「まったく、お前は——」
「あなたの言いたいことはわかります。ですがお小言を頂く暇はないんですよ」
「お前な」
保住は体調が悪いせいか不機嫌さがにじみ出ている。いや。不機嫌だけではない。周囲に配慮できる余裕がないと言うところだろうか。
「頭が痛みます」
余計なことを言うなと言うことか。不機嫌な保住は澤井に引けを取らないくらい凶悪だと思ってしまうのは、天沼だけだろうか?
「今日は暴れるなよ。苦情は御免だ」
「苦情処理が上司の役割ではないですか」
「貴様」
澤井は立ち上がると保住の胸倉を掴んで引き寄せた。天沼は動悸がする。一触即発——とでもいうのだろうか。
「図にのるなよ」
澤井の低い声は天沼の腹に響く。たいていの職員だったら、これだけで萎縮してしまうに違いない。だがしかし——保住は臆することなく澤井を見つめ返していた。その瞳は冷たい。天沼はふと「この人にはこういう一面があるのか」と理解した。
保住という男は気のいいだけではないということだ。この若さである程度に引き上げられているということは、人の好さだけではないということ。
「好き勝手やらせてくれると言ったのは、あなたですけど」
「貴様の不機嫌さは庁内一タチが悪い。そんな
「これ以上、部下たちに負担はかけさせられないのですよ」
保住の言い分はわかるが、しかし。天沼からしたら子供の駄々っ子のようにしか見えない。澤井に八つ当たりをしているようだった。
「部下に迷惑をかけたくないなら自重しろよ」
澤井の低い声に保住は、瞳の色が濃くなる。
「お前一人の問題ではないのだ。知っている。あちこち滞っているのは。だが我を失うくらいの不機嫌さでは、交渉のテーブルにも座れないぞ。冷静になれ。頭を冷やせ。お前らしさが失われてはならないのだ」
澤井の言葉は保住にはどう響いているのだろうか。
「お前はよく知っているはずだ。お前が自分勝手に行動したらどんな結末になるか? 忘れたとは言わせんぞ」
霞みがかったようにぼんやりとしていた瞳が、いつもの冷静さを取り戻す様が見て取れた。天沼は息を飲んだ。
——保住室長を使いこなせるのは、やはり副市長だけだ。多分……田口たちでは難しいのではないか?
保住は澤井を見上げ「すみませんでした」と小さく呟いた。
「わかったのなら良い。だが無理するな。お前が周囲に配慮出来なくなったら終わりだぞ。誰もついていけない。奇異の目で見られるだろう」
「わかっています」
「弁えているならいい。サポートが欲しいなら
「おれですか?」
はっとして保住を見るが、彼は微笑を浮かべていた。
「天沼はあなたのものでしょう? 大丈夫です。田口がいます」
「そう言うと思った」
澤井も微笑を浮かべてから手を離す。
「田口ならどんなお前にもついて回れる。休んだ分は挽回しておけよ。自己管理不足の責任だ」
「承知しました」
澤井と話して病人みたいだった保住に生気が戻った。入ってきたときとは明らかに雰囲気が違う。いつもの彼に戻ったということだ。
「夕方、報告にこい」
「失礼いたします」
保住はそう言うと副市長室を出て行った。彼が立ち去ると、澤井は軽くため息を吐いた。
「あの、保住室長は大丈夫なのでしょうか」
「体調の悪さは、あいつには関係ない。自分の
「副市長じゃないとできないこと……ですね」
「そのうち田口にも出来るのかも知れんが、まだあれの持て余す気持ちを受け止められるほどの器がないだろう。まだもう少し、あいつにはおれが必要だ」
澤井は満悦な笑みを浮かべている。
——そこのところだけはまだまだ田口には譲らないぞ。
そんな顔だった。天沼は息を飲んだ、保住と田口と澤井。この三者の関係性は計り知れない。踏み込まないほうがいいと心のどこかで警告音が響いている。
——見て見ぬふりをするのが一番、なのかも知れない。
背中を伝う汗を感じながら、じっとしていると、澤井は興味を失ったかのように、椅子に座った。
「今日は田口がいる。問題なかろう」
——田口がいれば、
「それより、
今の一瞬の邂逅で、自分の心にくすぶっていたものなんて、どこかに消失していた。
「は、はい!」
天沼はいつも通りの日常業務に戻って行った。
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