第9話 ヤキモキ



「気が散ると言われてもおれも仕事が残っているので。悪いけど残業させてもらいます」


 ––––二人きりになんて、させられない。


 田口はきっぱりと言うと、安齋は「どうぞ、お好きに」と言った。


 遠慮していることはないのだ。同期なのだから。自分が一歩引いてしまっているのかも知れない。だから遠慮はしないことにしたのだった。ではないと、なんだか保住を取られそうだ。そんな気がしたからだ。


「どれ、では続けよう」


「はい」


「では先ほどの部分をどう表現するかだ」


「全体とおっしゃいますが。おれには皆目見当もつきませんけど」


 さっそく仕事に戻った二人を横目に、田口は仕方なく席に座った。


 今日は一日、彼のそばで水分管理ができていなかったので、田口は気になって仕方がない。「水分摂ってください」と促さないと、まず口にしない。本当に困ったものだ。

 振興係時代は自分が離れる場合は、後輩の十文字じゅうもんじに託していたのだが……。この部署でそんなことを頼める相手はいない。


 ––––そこのところ確認したかったのだが……仕方がないか。


 田口は黙り込んで仕事を始めた。



***



 時計は九時を回った。さすがにお腹も空いたし疲れも出てきたようだ。背伸びをすると、保住も目を擦り始めた。


「眠いんですか? 室長」


 田口が声をあげる前に、安齋がすかさず見つけて声をかけた。


「眠い……」


「赤ちゃんですか」


「仕方ないだろう? おれ、睡眠がないと続けられない」


「しかも、」


 安齋は側のデスクに添えられていた保住の手を急に取り上げて握った。


「へ?」


 田口は、はったと顔を上げる。


「手、温かいじゃないですか。赤ちゃんですか」


「赤ちゃん、赤ちゃんと、そう何度も言われても……。仕方がないのだ」


 保住は不本意そうな顔をした。部下にバカにされるなんて……というところだろうか。


「すみません。おれのせいで。他の部分は宿題にしてもらえませんか。明日の朝までにやってきます」


「そうか」


「ええ。ここまでお付き合いいただいたのです」


「じゃあ、帰るか」


 立ち上がった保住の体が揺れた。


「立ち眩み?」


「大丈夫ですか」


 安齋が手を差し伸べようとしたとき。田口はすかさず保住の腰を引き体を支えた。


「室長。水分摂っていませんよね? 熱中症気味ですよ」


「またやってしまったのか……」


「大丈夫ですよ。この前よりはいいです。まだ大丈夫」


 田口は保住の首筋を触れる。眠いのではない。軽い熱中症だ。汗もかいていないのに体は温かいのだ。


「悪い。安齋。おれ室長を送って帰る」


「あ、ああ。大丈夫なんですか?」


 保住は田口に支えられて笑う。


「いつものことだ」


「笑いごとではありませんから」


 田口にぴしゃりと言われて保住は黙り込む。


「……すみません」


「このまま帰ります」


「お疲れ様でした」


「戸締り、よろしく」


 田口に引きずられるように出ていく保住。それを見送って、安齋はじっとしていた。


「ふうん……」



***



「もう! だから水分忘れずにと言っているのに……」


 田口に引きずられて駐車場までやってきて、車後部座席に体を預ける。横になるとすごく楽だ。


「はあ……」


「病院行きますか」


「そこまではない。横になっていれば大丈夫だ」


「保住さん、水分入ります? 口から」


「大丈夫だ。過保護にするな」


 田口の手からペットボトルを受け取るが、そう体調は思わしくないらしい。飲む気はない。背もたれに頭を付けて、は~と深く息をする。


「保住さん……」


「家に帰りたい」


「わかりました。すぐに帰ります」


 田口は運転席に回り込み車を発進させた。




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