第135話 夢幻泡沫

 男の子にぶつかってから、3日後……


「……」

 私は静かに中庭で勉強していた。本を読んでいるだけなのだが、この時がとにかく落ち着く。

 小鳥のさえずりでも聞こえてきそうな、静かな時間だ。穏やかな凪のような時間が、流れる雲のようにゆっくりと進んでいく。


「あれ?お前……」

「?」

 目の前に、この間の男の子がいた。男の子は訝しげにこちらを見つめる。顔色をうかがっているようだ。

 だが私はわかる。この男の子も……私に悪い意味で興味があるだけだ。きっと。私は再度教科書に目を落とす。


「お前もここで勉強か?」

「え?」

 お前『も』。その言葉に私は固まった。すると男の子は私の顔をさらに覗き込んでくる。


「……近い」

「あ、悪い……せっかくだし俺と一緒に勉強しないか?1人でも退屈だろ?」

「……」

 私は静かに本で顔を隠す。しかし男の子は負けじと、私の顔を覗き込もうと背伸びをする。


「……何?」

「何って……どんな場所勉強してるか気になるんだ。その……俺、もっと頭よくなりたいからさ」

「無駄だよ。頭がよくなっても、いい事なんて何もないから。……だから、私を1人にして」

 我ながらけんもほろろだと思う。だが、それでも私は自分の世界を邪魔されたくなかった。……今思えば、とんでもない思い上がりだった。とも思える。


「……」

「……どう、したの?」

「いや、なんかお前、俺と気が合うかも知れないなって」

 強引に私の隣に座る男の子。


「俺も勉強勉強で、何にも残ってないからさ。友達も、何も。ここに1人きりで勉強してるお前と気が合うと思って」

「……そう」


 そのままけんもほろろに扱い続けると、昼休みが終わる5分前になる。結局今日も、私に近付く人はいなかった。……ただ1人、目の前にいる男の子を除いて。


「あ、やべ。俺次移動教室だ。また明日からも来ていいか?」

「……好きにしていい」

「じゃあ、明日も来る。えっと……名前は?」

「……」

 私は名乗らなかった。相手も名乗っていないんだ。私が名乗る必要なんて何もない。そう考え、無言のまま、その男の子の方を見ないままで男の子のリアクションを待つ。


「……まぁ、いいや。また明日な!」

 男の子は、私の前からいなくなった。そして私は、再び1人になった。


「……」




 それからしばらく、その男の子は私の元へアプローチをかけてきた。晴れの日も、曇りの日も、私が中庭にいる時には男の子は常にやって来ていた。

 それが不思議と、煩わしいとは思わなかった。最も、私は今まで避けてきたのではなく、避けられてきただけなのだから当然と言えば当然なのだが。

 だが、2人とも決して名乗らなかった。それが互いの意地なのか何なのかはいまだにわかっていなかった。


「……」

「何?」

 会い始めてから1か月あまり、男の子は相変わらず私の顔を覗き込んでくる。


「いや、聞きたいんだけどさ」


「お前って、どうやったら笑うんだよ?」

 ……笑う。か。


「無理……笑い方なんて忘れたもん……」

 もはや笑う事なんて、何年やっていないんだろう。今更『笑え』と言われても、私は笑える自信がない。


「……」

 そのまま、じっと教科書に目を落とす。すると男の子は思い出したかのように立ち上がり……


「はい、スラシスのボスのマネー!」

 と、キレよく動き出した。男の子は私の注意を引くかのように、キレよく動き続ける。


「……似てない」

 吐き捨てるように私は言う。すると男の子は立ち止まり……


「似てないってことは……お前スラシスやってるのかよ!マジで!」

「べ、別にいいでしょ?それに最近はあんまり出来てないから……」

「使ってるキャラは?どういう戦法!?てかタイマンか乱戦派どっち!?」

 食い気味に言う男の子に、私はうんざりしたように顔を逸らす。


「……悪い」

「え?」

「1人で突っ走って……悪かった」

「……別に、そこまでは」

 何故か罪悪感がものすごかった。スラシスは私もやっていたのだから、リアクションくらいしてあげればよかった。そうこうしているうちに、時計が昼休みが終わる5分前を告げる。


「じゃ、じゃあ、俺、そろそろ行くから」

 男の子は慌てた様子で立ち去っていった。本当に……悪い事をしたと思った。




 それからさらに1ヶ月。7月になり、男の子は中庭に現れなくなった。こうして私は……再び1人になった。でも、中庭で勉強をすることはやめなかった。

 こうすることで、またあの男の子に会えるかも知れない。そう考えていたからだ。


 ザッバーン!


「!?」

「あら、いたの?小さすぎて気付かなかったわ!」

「まぁ今7月だし、涼しくなっていいんじゃなーい?」

 水を浴びせられたとき、


「あれ?お前、どうしたんだ?」

「……」

 目の前にいる生徒の声。それは、あの男の子の声だった。

 本当は泣きつきたかった。だけど、あの女たちがまた現れる可能性がないわけではないので、この男の子を巻き込むわけにはいかない。そのまま私は、中庭を後にした。




 ……そして季節は流れ10月。私は……衝撃的な言葉を耳にした。


「えー、皆さんすでにご存じだと思いますが、この学校で盗撮の事件がありました。女子生徒の更衣室で、盗撮をさせた人物がいる。との事です」

 全校集会で先生がそう言って、周囲がざわめきだす。

 盗撮……実にくだらないことをする人がいたんだな。と、私は思いつつ……


 どうして私の事は見てくれないんだろう?とも思う。


 言っても『対処する』と言うだけで何もしてくれないし。私に対して興味がないのだろうか。

 そして次の言葉に、私は戦慄した。


「その男子生徒は別の男子生徒に盗撮を指示し、多くの女子生徒に対して強いトラウマを植え付けたそうです。彼を停学処分とし、女子生徒に謝罪をするとともにカウンセリングを設けることを決めました」


「またその男子生徒は、中庭にて1年の青柳 凛さんと親しく話している姿がたびたび目撃されており……」


 大声を上げそうになった。いや、上げていたのかも知れない。

 少なくとも私と触れ合っている最中では、そんな事をする男の子には見えなかった。

 でも、その男の子が盗撮を指示していた……?

 複数人の視線が、こういう時に限って私に集まる。まるで『お前のせいだろ』とでも言わんばかりに。

 ……………………でも。


 私には、あの男の子がそんなことをするようには思えなかった。


 その男の子が好きだったと言うわけではない。そう言うわけではないはずなのに。

 名前も知らないその男の子を、どうして私はここまでかばうのだろう。


 ……やっぱりその男の子が……好きだったから?

 ・

 ・

 ・


 話し終えると、4人は本当に、真剣に聞き入ってくれているようだった。こんな私のくだらない思い出話だったのに、なんだか申し訳ない気持ちになってくる。


「その男の子の名前は……いまだにわからないの?」

「うん。あの学校には……トラウマも多いから、男の子の顔も覚えてないんだ」

「なんとなくわかるけどな。人って言うのは無意識にトラウマを遠ざけるもんだし」

 白枝さんの言葉に、少し戸惑いを感じる。

 トラウマを遠ざける……つまりあの男の子も、トラウマなのかな。


「青柳先輩。もし……もしですよ?もし、その男の子に会えるとしたら……何がしたいですか?」

「……泡沫の夢のようなことだったし……もうその男の子も忘れてるかもしれない。でも……もし会えるなら……」


「謝りたい……かな。{あの時はけんもほろろに扱ってごめんなさい}って」


 ……そう。確かに泡沫の夢のような出来事だったはずなんだ。

 もう、忘れるべき事……なのかもしれないんだ。


 でも……だけど……


───────────────────────


「……」

 皆さんが寝息を立てている中、私は少し考えを巡らせる。凛さんが『謝りたい』と言っていたあの『男の子』。

 いや、少し考えるまでもない。その正体はきっと……


「……」


「何が中盤の装備ですか……凛さんだって、最強の装備ですよ。きっと」


───────────────────────


 ……俺はずっと眠れなかった。

 眠ろうとしても脳がまるで暴れているように、俺に『寝るな』と訴えかけているようだった。

 視界がぐらつく。胃の中から、あらゆるものが逆流してくるような感覚に襲われる。頭がボーっとしてくる。

 晴信さんが言っていることはきっと嘘だ。嘘に違いない。違いない……はずだったんだ。でも……初対面の俺に、そんな嘘をつくような人だとも思えない。


「やめておいた方がいい。……だって彼女は……キミを探しているからだよ」




「何故か、親を殺された子供のような恨みを持ってね」




問83.『あるものを憎むとそれにまつわるすべてのものが憎く、恨めしく見えてくる事』と言う意味のことわざを答えなさい。

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