第17話 オオカミ様の森のミツバチ

 ある朝、アユムが琥珀に会いにクオンの家へと行くと、ちょうど出かけるところに出くわした。


「ねぇクオンさん、今日はどこかへ行っちゃうの?」


 クオンは猟師と聞いていたが、動物を狩るだけでなく、野山の恵みを採る名人でもあった。アユムは琥珀と遊んだ帰りに、山菜やときにはウサギなどの獣肉を度々お土産に持たされていた。

 だがクオンはアユムが何度ごねても、決してアユムを山に連れて行ってはくれなかった。だから今日は琥珀と遊べないのか。アユムがしょんぼりと項垂れながら訊ねるのだった。


 だがその日は違った。


「……アユム、お前も来るか?」


 視野の外から聞こえてきた思わぬ発言に、アユムは思わず自分の耳を疑った。


「もちろんイヤならいいんだ」


 そこには何でもないような顔をしたクオンがいる。かと思えば、クオンはふいっと顔を逸らし出かける準備を着々と整えすぐにでも出かけようとしていた。アユムは慌てて「行く!」と大きな声でついて行くのだった。




 その日アユムたちが向かったのは北の森。北の森は別名「オオカミ様の森」と呼ばれ、村人が立ち寄ること、口にすることを避ける場所だった。


「北の森はオオカミ様のおわす神聖な場所だから」


 彼らは口をそろえてこう語る。


 だが北の森は鹿のような獣が寄り付かないため、良質な木材が手に入りやすい。鹿はその口が届く限り若葉どころか木の皮まで何でも食べてしまうため鹿の増えすぎた森では木が育ちにくいそうだ。

 オオカミ様に守られ鹿が少ない北の森では、樹はゆっくりと大きく育つ。そのため一年で限られた日にのみ伐採された材木は、村の貴重な収入源となっているようだった。

 

 アユムが初め森の中に入ったとき抱いた印象は快いものではなかった。アユムは琥珀を傍に引き寄せ、ぎゅっと抱いていた。アユムが以前訪れたことのある森や、村の近辺にあるほかの森とまったく違う。高くて太い樹が多く、鬱蒼としてじめじめと陰気な印象を与える森だったからだ。


 そんな森の持つ雰囲気に圧倒され、怖気づいているアユムの様子を知ってか知らずか、クオンがアユムを気にする様子はない。「あっ」琥珀も大きく身震いをしてアユムの腕から抜けるとクオンの元へと走って行ってしまった。

 森に入る前、クオンは何を言うことなく深々と頭を下げているのを見て、アユムは慌ててそれに倣った。常識や世のルールさえ異なる異世界に入っていくような、そんな不気味さを感じていた。




 だけど幸いなことに、目的地は森の浅いところにあった。クオンについてしばらく歩くと、目的のそれは見つかった。

 それは木の陰にひっそりと隠されるようにあった。遠くから見ると、木の箱が積み重なっているようにしか見えない。


 これは何だろう?  


 アユムが近寄ろうとすると、クオンにがっしりと肩を掴まれ引き戻された。何かと思って見れば、もう片方の手を広げ、音をより拾えるよう耳に当てている。

 アユムも同じようにして耳を澄ますと、「プーン」という羽音が聞こえてきた。


 ミツバチだ。


 アユムは恐怖で思わず声を上げそうになったが、その口を手で塞がれた。


「刺激するな」


 振り返る見ると指を手に当て、首を振っている。さらにクオンがもう片方の手を前に出すと、そこに1匹のミツバチが飛んできて、ゆっくりと止まったのだった。


 刺される!


 思わず顔を背け目を瞑るアユムだったが、いつまで経っても何も起こらない。恐る恐る目を開けてみると、クオンの手の上には相変わらずミツバチがちょこんと止まっていた。

 クオンがこちらを見て促すので、恐る恐る近寄って見てみると、小さな体にふわふわとした毛が生えているのがわかる。刺す様子を見せずクオンの手で休む様子は、可愛らしく思えるほどだった。

 ふと傍らを見てみれば、あれほど落ち着きのなかった琥珀もしゃんとお座りをして待っている。アユムは何だか恥ずかしくなってしまって顔を赤らめるのだった。


 しばらくしてミツバチが離れると、クオンはすべすべとした厚手のカッパのようなものを2人分取り出した。顔がかかる正面に網がかかった帽子も一緒だ。

 差し出されるまま着てみると、通気性が悪いため中はひどくむしむししている。中はすぐに吐息で満ちていき暑かった。


 防護服を着たクオンはゆっくりと木箱へと進んでいく。すると近づくにつれて、どんどんとミツバチの数が増えていくのが分かった。

 あのときは可愛らしいとさえ思ったミツバチの羽音は数を増すたびに重低音が増していき、次第にぶんぶんと鈍い音を立てるようになっていく。

 巣箱を守ろうと、おぞましいほどのミツバチが木箱から出てきて、それが徐々にこちらへと飛びついてくるのだ。


 怖い。アユムにはたくさんのミツバチが、一つの大きな生き物となって迫ってくるように見えた。


 アユムはどうしてもそれ以上進むことができなくなってしまった。


 ところがクオンはこちらの様子を気にもせず、ずんずんと前へと進んでいってしまうのだ。

 呆れられちゃったのかな。そう思うとますますアユムは落ち込むのだが、ミツバチが群がって、もはや黒い服を着ているようになっているクオンを見ると、どうしても足が進まず離れたところで見るのが精いっぱいだった。


 琥珀を傍に携え、撫でることで心の平穏を保とうとするアユム。そうこうしている間にクオンは無事巣にたどり着いたかと思うと、箱を解体していくのだった。

 ……遠目からではよく見えないが、側面から固定するための釘を抜いたり、上から風を送ってミツバチを追い出してから解体しているようだ。




 どれくらい待っただろうか。心を無にして待っていると、いつの間にか解体を終えたクオンが、取り外した箱の一部を持ってきてくれた。

 びくびくとミツバチがいないことを確認しながら中を見てみると、そこには何層も巣が重なっていて、そこから溢れ出る濃い褐色の蜜が滴り落ちそうだ。側面を見てみると、いくつもの小部屋が集まってできているのがわかる。この小部屋の中一つひとつにミツバチや幼虫がいるのかと思うと、正直、気持ちが悪かった。


 そんなアユムの思惑を知ってか知らずか、クオンは長いナイフを取り出すと巣を箱から剥がしとる。それを持たせようとしてくるのでアユムはしきりに遠慮するのだが、クオンはまったく動じなかった。とうとう押し付けられるような形で持ってみると、巣はずっしりと重かった。


 それからもクオンは慣れた手つきで次々と巣を剥がしとり、素早くガラス瓶に入れていった。手持無沙汰になったアユムは何となく、さきほど手に着いた蜜を舐めてみることにした。

 

 それはいままで味わったこともない衝撃的なおいしさだった。


 それは口に含むと、さらりとしていながら優しい甘みが口いっぱいに広がった。かと思えば、次の瞬間には口の中に嗅いだことのないような華やかな香りが開いていく。それもただ1種類だけでなく、口の中で噛みしめていると幾層にも幾層にも花開いていくのだ。


 アユムはそれまでのことなど一切忘れ、思わず笑顔になった。


 ふと視線を感じて見れば、クオンがこちらをじっと見つめていることに気がついた。気恥ずかしさからアユムは顔を赤らめすぐに背けてしまったが、いつもと同じ無表情であるはずの顔が、どこか優しく微笑んでいるように見えたのだった。




 巣の回収が終わると、クオンは素早く解体した箱を元の場所に戻し移動を開始した。だけど5段ある巣箱はまだ下の3箱が残っている。


「え、まだ残っているよ⁉」


 勿体ない。そう思ったアユムは、気づいたときには立ち去ろうとするクオンを引き留めていた。


「あれは、ミツバチの分だ」


 しかしクオンはそう言ったきり、歩みを止めようとしなかった。それは有無を言わさぬものであり、アユムは後ろ髪を引かれる思いで何度も振り返りながらついていくのだった。

 それから3カ所ほど巣箱を見回り巣を回収していったが、中にはミツバチが1匹もいない巣もあった。しかしがっかりするアユムに対し、クオンは「そんなこともある」と言ってちっとも気にしていないようだった。




 家に戻れば待っていたのは採蜜作業だ。


 ハチの巣は吊るしておくと蜜が垂れてくるので、それをガラス瓶に回収して小瓶に分けていく。ここで無理やり絞ってしまうとゴミが入って味が悪くなってしまうらしい。最後に絞りきるときは布で濾しながら慎重に行った。

 てっきり絞った後の巣は捨ててしまうのかと思いきや、火にかけてロウソクの材料にするらしかった。蜜蝋と呼ばれるそれは、ロウソクとして以外にも春に巣箱に塗っておけば新しいミツバチが寄ってきやすいのだと教えてくれた。


 蜜が集まるのを待っている間、アユムはふと不思議に思ったことを聞いてみた。


「蜜って花がたくさんあるところで採るんだと思ってた。なんで花の少ないオオカミ様の森に巣箱を置いているの? 

 蜜を集めたいなら花がたくさんあるほかの森に、巣箱を何個も置けばいいのに」


 だがクオンの答えは相変わらずそっけない。


「あの蜜はオオカミ様に守られたあの森だから採れるものだ」


 それしか言わない。納得がいかない様子のアユムを見て、クオンは口元に指を当て少し考えてから続けて言った。


「樹にも小さな花が咲く。お前の小指の爪よりも小さな花だ。だけどたくさんの種類の樹がそれぞれ違う蜜を持つ。

 ミツバチは蜜を狙う外敵の少ないあの森でひっそりと、そんな小さな花から少しずつ蜜をとっている。あの蜜はそうやって集めないとできないものなんだ」


 クオンはそう言うと、もう聞くなとばかりにアユムの頭を撫でた。




 その日の終わり、アユムは手で口元と鼻を覆うようにして寝ていた。手に着いたあの芳醇な蜜の香りは一日中消えることがなく、そうするといつまでも幸せな気分でいることができたからだ。

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