1277年、夏

美味しい庭の家族

「やっと我が家の畑も形になってきましたよ」


 庭木の木漏れ日の中、現れたカズスムクは庭師や園丁のような格好で土と汗にまみれていた。疲労の色とやりがいに彩られた、充実の表情だ。

 フランネルシャツの腕をまくって軍用綿手袋にスコップを握り、鉱夫たちが愛する胸当てつき作業ズボンオーバーオール。足元はどんな泥汚れも物ともしない長靴で、角を出せる穴開き麦わら帽をかぶっている。どう控えめに言っても、貴族や伯爵様には見えない。


「あなたったら、そんなに泥だらけになって」


 書き物(この手記だ)をしていた僕の隣、ガーデンチェアに腰かけていた伯爵夫人ソムスキッラが、くすくすと笑い出した。

 テーブルの上に置いた琺瑯ほうろうの小鍋と銀の茶器を手で示す。


「疲れただろうから、リンゴの蜜煮とお茶を用意したのよ。そんな格好じゃ、一口だってあげないんだから。キスもダメよ」

「そんな胸が張り裂けるようなことを言わないでくれ、キュレー。すぐ手を洗ってくるよ、君の愛とお茶が冷めない内に」


 結婚七年は新婚の定義に当てはまるのだろうかと、僕が悩んでいる間にカズスムクは手と顔を洗い、お茶が用意された。僕も図々しくお相伴に預からせてもらう。

 リンゴはたっぷりの砂糖にシナモンとカルダモン、フェヌグリークで煮られていた。合わせたお茶は、リンゴの皮と紅茶の葉を一緒に煮出したアップルティー。


 太陽はとうに頂点を過ぎ、暑さがやわらいで心地よい時間になっていた。カズスムクは実に旨そうに茶を味わって、長々と息を吐く。本当にお疲れらしい。

 ザデュイラルの夏は激しく短いもので、ついこの間始まったばかりの気がしていたのに、風の中にひとすじほどの秋の気配が忍び寄る。


 夏至祭礼を終えると、多くのザドゥヤ貴族は帝都の別邸から、所領の本邸へと移動する。そうしてマルソイン本邸に戻って以来、カズスムクはずっと庭園の一部を家庭菜園キッチンガーデンに改築するべく奮闘していた。

――というのもこの当時、ザドゥヤ貴族たちの間で家庭菜園を造ることが大流行していたのだ。


「しかし精が出ますね、義兄にいさん」

「なんなら手伝ってくれてもいいんだよ、義弟。今日の作業は終わりだけどね」

「僕は頭脳労働者だってご存知でしょう。それに、楽しみを邪魔しちゃ悪いかなと」


〝家庭菜園〟とは僕の訳で、ザドゥヤ語では「スープの庭」を意味するカナルーコ・チシャーシ〔Kanalvvq ctshés〕、または「美味しい庭」カムシーイ・チシャーシ〔Kamsgi ctshés〕と言う。カナルーコはそれ自体が庭園の意で、チシャーシはザドゥヤ語のスープチシャ〔Ctsh〕に由来する固有の語だ。


 チシャーシを俗っぽく言えば、野菜畑というところだろう。昔から貴族の城館には菜園チシャーシが備わっていることは珍しくもなかった。お抱えの料理人はそこから野菜やハーブを取って、スープにして出したのが始まりらしい。

 そして一部の物好きな貴族は、庭師に任せるだけでは飽き足らず、自ら土いじりして目と胃を楽しませる庭造りに情熱を燃やしたと言う。


「やってみると楽しいのは事実だね。自分で育てた野菜や果物というものは、中々愛着がわく。それを調理して食べるのだから、また格別の風情があるよ」


 それから、微笑を含んだ視線を投げかける。


「イオ、君も鉢植えの一つぐらい育てては? 肉体労働にも入らないほどの、ささいな手間しか掛からない」

「僕は植物を育てるのに向かないんですよ。数年前、ハーシュサクから多肉植物の鉢植えをもらったんですが、うっかり枯らして怒られまして」

「一番残虐な種類の怠惰だね」


 にこやかで落ち着いた表情と声音のまま面罵しないで欲しい。


「というわけで、僕は慈悲深い伯爵の庭造りのお邪魔はしません」


 分かったよ、とカズスムクはわざとらしいため息をついた。

 僕らがそんな茶会を催していると、ガーデンファニチャーの横にあるしげみが揺れた。ひょいっと出てきたのは、灰色の頭と亜麻色の頭。

 カズスムクの長男ゾーネムユリと、その〝兄弟〟タシティカルだ。子どもたちの眼は、たちまちテーブル上に釘付けになった。ゾーネムユリがびしっと指をさす。


「とうさまたちだけ、おやつ食べてる!」

「ずるーい!」

「ずーるーい!!」

「あなたたち」


 ソムスキッラは席を立って、腰に両手をあてながら子供たちを見下ろした。


「お父様はお庭を造って大変だったんだから、疲れているのよ。だから母様がこれを用意したの。お仕事した当然のご褒美なんだから」

「ヨーおじさんも?」


 純粋無垢な四つの瞳に、僕は思わず深手を負った。頭脳労働と口では言ったものの、夏の気持ち良い空気の中でくつろいでいたのだ。


「僕はね、学者だからね。書き物は大事なお仕事なんだよ」

「その手記、ほとんど趣味みたいなものじゃないの」

「もう何年かしたら出版できるから! 学問は一日にしてならずだよ」


 この手記はいわばライフワークなのだ。ソムスキッラに反論しつつ、僕は二人の幼児たちを手っ取り早く懐柔しようと図った。皿をそっと端へ押しやる。


「僕のぶんで良ければ、どうかな」

「ヨーおじさん、ありがとう!」

「ありがとう! こんど、寝ないでおはなし聞いたげるね!」

「無理しなくていいよ」


 以前、タシティカルに「羽根のある人はなんでいなくなっちゃったの?」と聞かれて歴史の話をしたら、一緒に聞いていたゾーネムユリともども、十五分ほどで寝入ってしまった。幼児に合わせた語彙というものは難しい。


 ソムスキッラは「もう!」と僕を睨みつけると、「お姉ちゃんたちには内緒よ」と子どもたちに念を押して、僕の皿を取った。

 煮られたリンゴは少し不ぞろいで、二人分には均等に分けられない。するとゾーネムユリが「おっきいほう、あげるね」と少ない方を自分からもらった。

 それを見て、今日はいい日だなと幸せに気持ちになったのを、よく覚えている。



 ソムスキッラは残りの用事を片付けるため、一足先に屋敷へ戻り、子どもたちを連れて行った。僕は戻る前に、家庭菜園の出来栄えを見せてもらうことにする。

 カズスムクが言った通り、彼の庭はほとんど形が出来上がっていた。

 植えられた、または植える予定の野菜はトマトにキャベツ、豆類にカブ、玉ねぎなどどれも定番のもの。そこにカモミールだったりバジルだったり、あるいはマリーゴールドだったりの花とハーブを混ぜていくそうだ。

 実りの時を迎えれば、まさにここは完成された小宇宙となるだろう。


「ほとんどの食材がまかなえそうな勢いじゃないですか。収穫は先ですけど」

「最近は挨拶回りハルシニにも家庭菜園で作った食材を使わないと、〝私にはそこまで手間をかける価値がないと言うわけか〟と思われるから、困りものだよ」

「そんなに」


 僕はフィカのしげみを眺めた。フィカの実はフィカテリユ〔Fikateriy〕という低木のつる植物に生るもので、海岸などのやせた土地でもよく育つ。品種によって収穫の時期が違うので、カズスムクは複数のフィカを植えたそうだ。

 僕はこの家庭菜園ブームの発端となった人物を思い浮かべた。


「やはり宮廷料理長を引退されても、大トルバシド卿の影響は大きいんですね」

「かの方は料理にかけては、稀代の天才との名をほしいままにしてきたからね。そのために、後継者が決まるまでは波乱が続きだったけれど」


 宮廷料理長ユアレントゥルは、ザデュイラル最高の料理人を意味する称号である。この名は皇帝の厨房を統括する責務とセットになっており、歴代の料理長は人々から畏敬と崇拝の念を集めてきた。その代替わりは国の一大イベントだ。

 宮廷料理人たちを管理する聖餐院せいさんいんは、彼らの中から技量と人品を考慮して料理長候補を選抜する。そして候補者たちは現職の料理長とで料理勝負をし、実力を認められて就任するのだ。


 ハジッシピユイも齢六十を控え、引退を勧められる時期になった。まだまだ現役だとつっぱねるものの、聖餐院は粛々と候補者を選び出し、挑戦を受けよと命じたのである。皇帝も厨房に常に新しい風を、とのご意向なので逆らえない。


 かくてハジッシピユイは本気を出した。それはそれは丁寧に、挑戦者たち一人一人が積み重ねてきた技術も経験も精神もことごとくへし折るような、圧倒的実力差で叩き潰す残虐なやり方で勝利を重ね続けたのである。


――「あの悪魔を本気にさせてはいけなかった」


 とは、ハジッシピユイの次男ボシバヨウがインタビューに寄せたコメントだ。

 ちなみに挑戦者十四名のうち、三名が自信を失って宮廷料理人を辞職。四名が長い休養に入り、失踪者が一名、残り六名は心身に傷を残しながら勤続中だ。


 最終的に勝利をもぎ取ったのは、ウヤユルワルヅップ〔Uyaylvardzop祝福された〕という大男である。彼は料理の腕一本で、下層の平民から宮廷料理人にまで登りつめた。

 しかもこの男、ヒグマのような体格のハジッシピユイの拳を顔面で受け止めてもビクともしないほど、頑丈で肝が据わっているのである。

 そのため爪とぎ板か何かのように連日拳を浴びせられ、同僚たちからは敬意をこめて「避雷針ルジルコザダー」〔Lsilqsada〕とあだ名されていたそうだ。


 こうして、〝避雷針〟ウヤユルワルヅップに敗北し、その力を認めたハジッシピユイは宮廷料理長を引退。直後に宮廷料理顧問という名誉職に新しく就任した。

 これは元宮廷料理長に用意される肩書きのようなもので、職務としての実態はほぼない。厨房に口を出すこともあるらしいが、一気に暇になってしまった。


 余生を楽しむことにしたハジッシピユイは、「やはり食材はできるだけ自分で育てた方が良い」と思いつき、家庭菜園という趣味に着手したのである。

 これに大喜びで賛成したのが奥方のジュトロターマで、彼女は農学者を住みこみで雇い入れ、庭師を増員し、夫以上に庭造りにのめり込んだ。


 そうして自慢の庭が完成すれば、次は披露したくなるのが人間というものだ。

 トルバシド侯爵家本邸の庭園の半分をまるまる改装した家庭菜園は壮麗なもので、お披露目の茶話会に招かれた招待客たちは、その美しさに唸った。

 トドメに振る舞われるのが、ハジッシピユイがその場で収穫し、調理した、新鮮な青果の数々だ。この催しは、ザデュイラル社交界でたちまち大評判となった。


『太陽は最も遠く偉大なオーブンの火。料理は種を蒔いた時から始まっている』

『土は食えない、だが土の味は重要だ。皿に盛る前に、皿を置く大地を耕すべし』

『原初の料理がサラダなら、我々は更にその先を行ってこそ未来を切り拓く』


 などなどの文言が新常識として根付くまで一年もかからなかった。どこの貴族も大なり小なり家庭菜園を作り出し、優秀な農学者の雇用は早いもの勝ちの熾烈な競争。

……とはいえ農業は農業である。貴族とて領地経営なり商売なり社交なり政治なり、やることは山積みで、ありとあらゆる食材を自家製ですべて栽培するというのは、それこそ農園や牧場を経営するほうがまっとうと言うものだ。


「このブームも、あとどのぐらいで廃れますかねえ」


 一通りカズスムクの家庭菜園を散策し終えて、そこを後にする前に僕は一度振り返った。ずいぶんと手をかけたものだが、伯爵は多忙なのだ。

 趣味として楽しみを見出すなら別に構わないが、無理はしないで欲しいと思う。


「土いじりを厭う方々は、早く流行が終わって欲しいと考えておられるだろうね。私は、もう何年かはこの庭を自分で育てたいけれど」

「それは少し意外ですね」

「自分で育てた食材は愛着がわく、そう言ったじゃないか」

「そのうち食用猿ラブタスの牧場でも始めるんじゃないでしょうね」


 そんな会話を交わしながら、僕らは屋敷に上がる。

 自分が育てたものを、自分で摘み取り料理し、食べる――それはかつて、ハジッシピユイが自分の息子にしたことだ。

 僕はかつて、その父子関係に戦慄した。今でもこのことを考えると、様々な思いが頭を駆け巡って、何が正しいのか分からなくなる。

 確かなのは、息子の【肉】はまさに極上の美味だったのだろう、ということだけ。そのことが、ザデュイラルで暮らすほどに身にしみて理解できるのだ。


 ゾーネムユリの角はもう、いつ生え変わってもおかしくないのだから。



 この数年後、1282年にジュトロターマは病を得て亡くなった。

 後を追うようにハジッシピユイが命を絶ったのはその翌年のことである。しかし彼が始めた貴族たちの家庭菜園は、その後も長らく伝統として残ることとなる。


【美味しい庭の家族 終】

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

【出張版ザデュイラル】マルソイン家のサルクススケガ(あぶり人肉) 雨藤フラシ @Ankhlore

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ