第8話 行ってきます
人間、生きていれば己の人生を遡ることがトイレと同じ回数ほどあるのではないか。
例えば、二十歳を過ぎてからは、通り過ぎる高校生を見るたびにノスタルジックなる。
若いというだけで輝いて見える。
失ったものは取り戻せないが、思いを馳せることはある。
時をかける少女ならぬ、思いを馳せる婦女である。
トイレとは違い、出せばスッキリするものではないことが、みそであり、難点だ。
それは、仕事に行く前にも突然やってくる。
私は、思いを馳せ、時をかける。
クロと出会う二年前のことへ。
事故物件に引っ越す前の自分に。
* * *
ひとり暮らしを始めて8年の時が流れようとしていた。
正直、寂しさには慣れた。
手慣れた動きで鍵を開け、だらしなく脱いだ靴が、明日の天気を占う。
どうやら、明日は雨らしい。
真っ暗な部屋の中、宙に向かってぼそっと、口を開く。
「ただいいま……」
誰にも返されることない、ただいまにも慣れた。
「ゴホゴホ」
時には風邪を引くこともある。
正直、これには神経をすり減らす。
流石に、親の声が聞きたくなるし、自分の声を誰かに届けたくなる。
反響すらしない部屋で一人、風邪のレポートをし、天井の高さが、世界から置いてけぼりをくらっているようで気が滅入る。
ご飯を作ろうと眺める台所は、いつもより遠く感じる。
台所を見つめては、視界がぼやける。
こればかりは毎回見慣れない光景だ。
「あ、可燃ごみ昨日だ……!」
ゴミ出しの日は忘れやすい。
毎回、世界線が変わったのではないかと考えてしまう。
特に、漫画家なんてものをやっていると、曜日感覚はどっかに行ってしまいがちだ。
炊事洗濯、家賃に水道光熱費。
親が居ない事由不自由なのだと知った。
雨漏りと宗教の勧誘は突然来る。
お風呂場の天井からは、ぽつぽつと、リズムを刻んでいる。
「雨漏り、まじか……」
怒ってもしかないことは分かっている。
適切な処置をするしかないのだ。
妥協も覚えた。
* * *
「荷物は、どこに置きましょうか?」
「あー、壁際に寄せてください」
賃貸契約の更新を機に、引っ越した。
場所を変えれば、自分も何か変わる。
そう思ったが、結局、何も変わらなかった。
いつものようにだらけて生きて、当然の顔をして夜が来る。
ナイーブにもなるし、思い出が私を潰しに来る。
夜になると、何故か、思い出したくない記憶が呼び起されてくるものだ。
テレビもネットも、皆笑って見えて、私なんかより、何十倍も楽しそうで、どす黒い何かかが私の心を一気に覆う。
だから、いつものように、お酒を流し込んで目をつぶって早く寝る。
『慣れた慣れた』と言って、本当は寂しさになれたふりをしているのを気づかせないために。
そして、そんないつもの夜、私は一人の寂しがり屋の幽霊に出会った。
* * *
「じゃあ、アシスタントに行ってくるから、いい子にしててね」
私は、荷物を手にし、いつもと変わらない、慣れた手つきで玄関を開ける。
ただ一つを除いては。
「かおるっ」
クロが、後ろから声をかけてきた。
「ん?」
その声に、私は振り向いた。
普段は誰も居ない玄関。
しかし、今日は違った。
「いってらっしゃい」
クロは大事に持っていたぬいぐるみの手を振っていた。
『ああ、そうか』
私は、ふと思い出した。
「お仕事、頑張ってね!」
「うん……」
私は、8年間ずっとこ言葉を待っていたんだ。
「行ってきます」
8年ぶりに誰かに見送られる朝、それだけで、不思議と気分が上がった。
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