予兆 ⑤
分かれ道で、ツバサと日記を交換する。この交換日記は二人の秘密であり、誰にもバレるわけにはいかないから、学校を出た後で交換することになっている。
「どんな風に書いてるかドキドキするね」
「べ、別にフツーだよ」
「ワタルくんはしない?」
「……そりゃ……まあ」
素直な言葉が告げられなくて、俺は自分にイライラしてしまう。そのイライラがツバサの方に向いて、
「ほらほら、もう帰るぜ。じゃ、じゃあまた明日な」
「はーい。またね、ワタルくん!」
「ばいばい」
手を振り合って、別れる。そして俺は憂鬱な赤井家へと戻った。
「ただいまー……」
何故か家には人気がない。出かける前、父さんは祭りの準備があるかもしれないと言っていたので、その準備に出ているのかとも思ったが、父さんの靴は玄関にあった。いや、それどころか知らない靴まで揃えて置かれている。高級そうな革靴だ。
来客中らしい。だが、この村に革靴を履くような人物などいないはずだ。立ち入ってはならなそうだとは思いつつも、俺は気になって、リビングの扉をノックする。
「父さん、ただいま」
そのまま扉を開けると、その奥には向かい合って座っている父さんと、黒いスーツの男の姿があった。
――誰だろう。
「ワタル、来客中なのが分かっただろう。勝手に入るな」
「いや、いいんだよ兄さん。……そうか、君がワタルくんだね。はじめまして」
「え……は、はい。はじめまして」
ワックスでセットされた、オールバックの黒髪。鋭いながら親しみのある目は赤井家のそれだ。父さんのことを兄さん、と呼んだこの男は。
「今日はこのへんで帰るとしよう。……じゃあ、また」
「……ああ」
俺に向けて軽く手を振り、スーツの男は革靴を履いて、扉を開けた。外へ出て行く際に軽く一礼してから、その姿は消えた。何と言うか、一挙手一投足に無駄のない、洗練された動きだった。
扉がバタリと閉まってから、俺は振り返り、座ったままの父さんに問う。
「今のは、誰だったんだ?」
「……弟だ」
「お……弟って、じゃあ。あれが……一比十(かずひと)さん?」
「そうだ」
父さんは、憮然とした態度で、腕組みをしたまま頷く。
「佐渡(さわたり)一比十。村を出て行った、俺の弟だ」
カズヒト。その名前は、過去一度しか聞いたことがなかった。そして、その一度だけで俺の記憶に深く残り、消えなかった名前だ。
鴇村で初めて、村の外で生きていくことを決意し、飛び立って行った人間。それが佐渡一比十なのだ。
賛否両論あった――というより、殆どの人間がカズヒトさんを非難したが、それでも自らの道を自ら選び取った。その選択は、俺は純粋に凄いことだと思っていた。
それは、俺が生まれた直後のこと。今から十四年ほど前のことである。
「佐渡コンツェルンを知っているか」
「ええと……テレビでたまに名前は聞くけど」
「あいつは……カズヒトは、そこのご令嬢に婿入りしたんだ。そして、大きな財産を築き上げた」
「え? じゃ、じゃああの人……今、すごい大金持ちなの?」
「簡単に言えばな。もちろん、そこに至るまでの努力は並大抵じゃなかったはずだ」
「……凄い……」
「確かに、あいつは凄い奴だ。誰にも真似のできない才能を持っていると俺も思う。だが……」
父さんは、久々の再会を喜べていないようだった。そういえば、彼のことが好きであるなら、今まで一度も彼のことが話題に上らなかったのはおかしいのだ。
そう、きっと父さんは彼のことを嫌っている。
そう感じた俺の心は、間違いではないようだった。
「何故……この村に戻ってきたんだ」
父さんは、重苦しい声でそう呟いた。
*
風呂から上がった俺は、お茶を一杯飲もうとリビングへ向かっていた。しかし、父さんの苦々しげな独り言が扉越しに聞こえてきたので、入るのが躊躇われた。それと同時に、父さんがどんな話をしているのかが気になり、結果的に盗み聞きをするような形になってしまった。
ノブに手を触れたままの姿勢で、俺は扉の奥からの声に、耳を傾ける。父さんは、ビールを飲みながら独りごちているようだった。
「……相変わらず、何でもかんでも自分の思い通りにしようとする性格は変わっていないな。確かに、そういう人間が求められるのも分かるが……やはりあいつは、恐ろしい奴だ……」
溜息を一つ吐き、ビールを一口飲んで、その缶を机に戻す。カタン、という音でそれが分かった。
「今のあいつにとっては、会社の繁栄が全て……いや、それで自分や家族が潤うのが全てなのかもしれないな。どんなことをしても、それを達成したいんだろう」
また、一拍の間が空く。
「今までも他の企業に頼み込まれたことは何度かあったが……今度ばかりは……」
その後の長い沈黙の後、父さんの口にした言葉に、俺はとてつもない衝撃を受けた。
受け入れられない、異常な言葉に。
「…………村を、渡せ……か」
それがどんな意味を持つのかを理解したとき、俺は胸を抉られるような思いに囚われた。
そして俺の、六月四日が終わった。
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