第110話 秋の日の夢。

俺(大橋)は、ふと目を覚ました。

ぼんやりとした視界の中、周囲を確認すると、

部屋は白く、ベッドも白い。場所は…小さな部屋の窓際。

何となく、学校の保健室の様な匂いがする。

ああ、ここは病院なんだな…と直感的に感じた。


飾り気のない白い壁に、大きなカレンダーが掛けられているのが見える。

視力が落ちているのか、良くは見えないが、年号の所は文字が大きい為、

それだけは何とか確認が出来た。西暦…2092年…?

ええ?いったいどうなっている?


俺は思わず自分の両手を見た。

細い腕にしわくちゃな皮膚…。どう見ても高齢の老人のものだ。

俺は…老人になってしまったのか?

そう思った瞬間、走馬灯の様に過去の映像が脳裏に蘇って来た。

早苗実業大学を卒業し、貿易商社に入社した事。

仕事で世界のあちこちを飛び回った事。

結婚2回と離婚1回を経験し、

二人の子供…男の子と女の子がひとりづつ出来た事。

会社を定年退職し…7年前に2度目の妻が他界した事。

子供達はふたりとも外国人と結婚し、今は孫達共々海外にいる事。

俺自身は10日程前から急に体調が悪くなり、入院した事。

そう、俺は今、ひとり孤独に入院している、86歳の老人なのだ。


体がだるく、重い。

どうやら起き上がるのにも苦労する様な状態らしい。

なんの病気かはわからないが、歳が歳だ。

老衰していても全くおかしくはない。

ふと、窓の外を見ると、病院のすぐ外にある銀杏並木が色づいている。

季節は秋…10月か11月初めくらいか…。

大きな壁かけの時計は、朝の10時を示している。

天高く、晴れた濃いブルーの美しい空が、少しだけ俺の心を癒してくれた。


人は死期というものを感じるという。

俺は何となくではあるが、自分がもうそう長くはないと感じた。

子供達にはまだ入院の事を伝えていない。

今から伝えたとしても、遠い外国の事、俺の臨終には間に合わない気がする。

俺はこんな所で、一人寂しく死んでいくのだろうか?

悪い人生ではなかったはずだが、

人の死とは、こんなにも寂しく、悲しいものなのか?

そう想うと、思わず眼から涙がこぼれて来た。

これが、これが俺の最後なのか?


と、その時突然、部屋をノックする音が聞えた。

「大橋さん、いらっしゃる?」

俺の担当をしている看護婦の声だとわかる。

「大橋さん、お見舞いの方が来られましたよ」

お見舞い?

俺は怪訝に思った。

俺が入院した事を知っている奴なんていたか?

仲の良かったアレックス岡本や坂口安吾、高杉晋作なんかは、

とうの昔に鬼籍に入っている。

俺は友人達の中では一番長生きしていたはずだ。

家のこまごました事をお願いしている家政婦さんか?

そうだ、彼女なら俺が入院した事を知っている。

それとも、マンションの管理組合関係の人だろうか?

と、思う内にドアが開き、入って来た人物を見て、俺は眼を疑った。


「大橋様。御無沙汰です」

ゆ…雪音?

「本当に久しぶりじゃな。あまり息災ではなさそうじゃが」

あ…天音?


「何を狐に摘ままれた様な顔をしておる?

風の便りで大橋殿が難儀しておるという話を聞いた故、

こうして雪音姉様と一緒に見舞いに来たのじゃぞ」


懐かしい、あの早苗実業学校高等部の制服を着た天音は、

明るい笑顔で俺に話しかけて来た。

雪音も同じ制服を着て、優しそうに微笑んでいる。

その姿は…そう、早苗実業学校で学んでいた頃と何も変わらない、

美少女のままだ。俺の中で、あの青春の日々が、

フラッシュバックとなって一気に蘇る。


この二人は、大学卒業後、早苗実業学校の教師をしていた。

20代の頃は、時々会っては、いつものメンバーで旅行したり、

居酒屋とかで飲んだりしていたが、結婚や離婚、仕事が忙しく、

海外出張とかが増えた事もあって、

30代を過ぎた頃から、いつしか俺は疎遠になっていた。

最後に会ったのはいつだったか…。もう40年以上、会っていない。


「雪音に天音…長い間連絡取らなくて、本当に済まなかった。

今、会えて本当に嬉しい。本当にこんなに嬉しい事は無いよ。

あの早苗実業学校での日々は…今でも脳裏にありありと浮かんで来る。

本当に楽しかった。あの青春の日々は、俺の人生の宝だ…」


俺の眼からは大粒の涙がいくつもこぼれた。

とにかく、心から嬉しかった。


「早苗実業学校時代に、一番仲の良かったクラスメイトを忘れたりはしません。

本当に辛い時、悲しい時、寂しい時に寄り添ってくれるのが、友達だと思います。

私達は友達でしょう?大橋様?」


雪音の言葉が心に響く。


「おお、少しは生気が戻った様じゃな。

大橋殿がみまかられるまで、毎日お見舞いに来る故、

安らかに往生するが良いぞ。人は皆死ぬ。我らもいつかは死ぬ。

早いか遅いかというだけの事じゃ。死とは必然、本来気に病むものではない。

朝が来れば昼が来て、やがては夜になる。そうしてまた朝になる。

これは世の理じゃ。故に自然に任せておくのが一番じゃ」


天音はそう言うと、鞄からお菓子が入って居るらしい箱を取り出した。

俺の見舞いの為に持って来てくれた様だ。

「雪音姉様手作りの特製のシュークリームじゃ。頬っぺたが蕩けるぞ。

これで一週間は寿命が延びよう。一緒に食べようではないか」


そう言うと、天音はシュークリームをひとつ箱から取出し、

それを小さく分けて、寝ている俺の口に運んでくれた。

口の中に、甘く、ほんのりと甘酸っぱい、

生クリームの穏やかな旨味が広がる…。


「そう言えば天音…鈴音先生はどうされてる?

もう先生にもずっと会っていない。

もし会えるものならば、最後に会いたい」


俺の言葉を聞いた天音は、少し表情を曇らせて言った。

「母上はもう30年も前に病でみまかられた。

八百比丘尼は不老ではあっても不死ではない。やはりいつかは死ぬもの。

最後は八百比丘尼の村で、穏やかにみまかられた」


「そう言えば、母上様はみまかられる何日か前に、

大橋様や岡本様の事を話していました。元気にしているのかなぁ~って。

母上にとっても、あの早苗実業学校での日々は、

生きる上での宝だったのだと思います」


「そうか、鈴音先生は俺の事を忘れていなかったんだ」


非常に個性ある連中揃いの、当時の早苗実業学校では、

俺は決して目立つ生徒ではなかったと思う。

それでも鈴音先生は、最後の日まで気にかけていてくれたのだ。

雪音の言葉を聞いた俺の眼がしらは熱くなった。


「母上様はきっと天国でも授業をなされていると思います。

大橋様、あっちで母上様に会ったら、宜しくお伝え下さりませ。

雪音も天音も、元気に頑張って生きていますよと…」


「そうじゃ。大橋殿。きっちり伝言を頼むぞよ」


天音の優しい言葉に、俺は笑顔で答えた。

「ああ、ちゃんと伝えるとも。鈴音先生にも、みんなにも」


………………………………。


ばちん!

俺は頭に軽い衝撃を受けて眼を覚ました。

どうやら眠っていたらしい。

驚いた俺が顔を上げると、そこには生徒名簿を持った

鈴音先生が立っていた。


「大橋君、私の教養授業中に居眠りするとは良い度胸ですね!」


教室がクスクス笑い声に包まれる。


「悪い行いには罰が必要ですね!極めて古典的な手法ですが、

水を入れたバケツを持って、教室の後ろに立って頂きましょうか」

少しすねた感じの鈴音先生の表情が可愛かった。


その日、俺は水の入ったバケツを持って、教室の後ろから、

鈴音先生の教養授業を聞いた。

その日のお題は…「生と死の循環を考える」

その日は、それまでの俺の人生の中で、一番素敵な日だった。

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